総和の歴史について思う事(2016 Facebook記事を修正)

 「総和」には歴史で語るべきものがないという声をよく聞きます。西に古河城と日光街道、東に諸川宿と日光東街道があるという、位置的にその様に思えるのかもしれませんが、そのようなことはありません。中世(鎌倉・室町時代)には前林から小堤まで、「鎌倉街道」が南北に整備されていたと言われ、鎌倉街道沿いにはお城や宿場町があり、 大層な賑わいだったと思います。

 また特筆すべきものが古文書の多さです。徳川家康や豊臣秀吉、上杉謙信など名だたる名将が、総和に住む武将に向けて手紙を書いています。この時点で、もうすでに総和は「歴史が無い」地域では無いです。

 そんな中でお気に入りはこの古文書「奥田家文書・北条氏政感状」。「今日、水海表において敵船討ち留むるみぎり、走り回り候、武勇感悦に候、いよいよ戦功をぬきんずべく候、よって件のごとし 天正二年十一月三日 氏政 高塚大夫三郎殿」(小田原市史史料編中世より転載)

 水海城を攻めるのに、船で戦を仕掛けていることからも、水海は軍船で戦争が出来るほどの川で囲まれた水城だったんだなぁと実感できます。

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