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関東戦国時代の幕を開ける享徳の乱。古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏が熾烈な戦いを繰り広げていたとき、直参として成氏を支えた精兵たちのお話です。
~竜巻十騎~
江戸時代に小出重固が書いた地誌『古河志』にこんな一節があります。「竜巻十騎 古河横町より東の方耕地字に猶竜巻の名存せり。公方家在城の時、土着の臣下十人ありといふ。今も其家筋の者商賈となり、城下市中に雑居せるも少なからずといふ。」この竜巻が現在の古河市静町の一部。城下の北辺にあり、今は住宅地ですが、つい数十年前までは農地だったそうです。
菅谷武一氏の『関東戦国史』によれば、竜巻十騎を率いるのは竜巻十郎左衛門尉成忠。康正二年(1456)の市川城攻めでは、30貫(120kg)の大石を持ち上げ、城門に打ちつけてこれを破ります。 文正二年(1466)、五十子城(本庄市)の戦いでは成氏の本陣にあり、500騎を率いた敵の総大将・上杉顕房に攻め込まれたとき、八角の鉄棒を打ち振るって500騎をはね返し、一騎打ちとなって顕房を負傷させます。上杉勢に阻まれて、顕房には逃げられましたが、そのときの傷により顕房は病死しました。
古河市内に伝わる『御所日記』には、鴻巣(古河公方館)の氏女(氏姫)に仕えた竜巻十騎の記録があります。成氏に始まり、氏姫に終わる古河足利氏を最後まで支え続けたことになります。ここには、渡辺監物、鈴木雅楽、石川佐渡、高島勘ケ由、関口内匠、新井掃門助、針谷豊後、田村主計、木島玄番助、秋元内蔵の名前が挙げられています。
~足河十騎~
古河城の対岸・向古河村(旧北川辺町・現在は加須市)にも、古河公方の精兵・足河十騎の伝承があります。足河は「タリカワ」ですが、向古河では「タリツカ」とも呼ばれます。この十騎は、足利成氏とともに鎌倉から移り、成氏がいる古河城のすぐ隣に農地を与えられました。
秋山家口碑によれば、足河十騎を率いるのは秋山作左衛門尉忠成。「チエ作左」とも呼ばれ、波状攻撃法を始めとする様々な戦術戦法を編み出しました。旗差し物は薄藍の地に黄金の稲穂を十本束ねたもので、十騎の団結の強さを示します。「秋山・荒井・稲葉・池田・磯・君塚・小堀・桜井・松橋・永島」の十家です。秋山家には昭和20年まで、黒柄の長槍と黒鞘の業物大刀三振が残されていました。戦場で馬にまたがり、黒柄の長槍をふるう作左の姿が目に浮かびます。
参考文献
佐々木斐佐夫「足河十騎と竜巻十騎の一考察」 古河郷土史研究会会報第36号、平成10年(1998)(秋山家口碑・御所日記)
菅谷武一『古河公方 関東戦国史』 昭和56年(竜巻十郎左衛門尉成忠)
北川辺町史編さん委員会編『北川辺町史 史料集(九)民族 北川辺の民族(一)』1984年、P96