(2015 Facebook記事を修正)
4月25日、日本城郭史学会大会「古河公方をめぐる戦と城郭」(江戸東京博物館)に参加しました。当日の講演の中からトピックス紹介です。
佐藤 博信 先生の講演「戦国期武家社会の家産管理をめぐって - 古河公方と後北条氏の場合を通じて -」より。先生の主張は、従来の古河公方権力の研究は、表(オモテ)で活躍した武将たちが中心、しかし奥(オク)すなわち女官たちにも着目すべきというもの。
女官たちは公方-御局様-女房衆 と組織化されていました。御局様は女官組織のトップ。その下にいる多数の女房衆は、上臈・中臈・下臈に階層化されます。この中には御乳人(乳母)、御中居(公方のお世話係)も。企業や役所にも負けない立派な組織を作っていました。
足利義氏が第5代古河公方になって間もないころは、義氏の母・芳春院が公方代理(御台様)となり、御台様-御局様-女房衆 の女官組織が形成されていました(*1)。この時期は、歴史の本に小田原北条氏が古河公方権力に介入とされています。
しかし公方家歴代の家臣たちは、新参者の北条氏を認めません。史実では、古河公方家は円滑に北条氏を受容していったように見えますが、実際には容易ではなく、大規模な内訌があった可能性もありました。佐藤先生の話から、北条氏綱の娘の芳春院が仕切る女官組織こそ、古河公方と北条氏を結びつける鍵であったことが想起されます。
次の氏姫期にも女官たちは大活躍。小田原合戦で北条氏が滅びた際、豊臣秀吉の元に派遣され、交渉にあたったのは女房衆の「上臈之御方(西殿)」でした。交渉相手の考蔵主も女性です。このような交渉の結果、秀吉から氏姫に対して332石の所領が認められ、古河足利家の存続が実現するのです。
また、このときの秀吉文書の宛先は家臣の武将ではなく「つぼね」様でした(*2)。「つぼね」様については、氏姫が雀神社に所領を寄付したとき(*3)、北川辺・向古河の真光院を伊賀袋・浅間神社の別当に補任したとき(*4)の書状にも差出人として登場。佐藤先生によれば、他に例がないことのようです。古河公方家は女官によって支えられていたと言えるほど、女性の存在感が大きかったのです。
*1:「鎌倉公方御社参次第」(国学院大学図書館所蔵) 佐藤先生は、本文書の主役は公方・義氏ではなく、御台様になっていることを指摘
*2: 「豊臣秀吉印判状」(古河市史資料中世編 No.1495)
*3: 「足利氏姫寄進状」(古河市史資料中世編 No.1503)
*4: 「足利氏姫補任状写」(古河市史資料中世編 No.1505)