鎌倉期の足利成氏御座所について(2015 Facebook記事を修正)

 日本城郭史学会大会「古河公方をめぐる戦と城郭」(江戸東京博物館)に参加しました。当日の講演の中から、伊藤一美先生「古河公方の成立をめぐって - 足利成氏の目ざしたもの -」をもとに、鎌倉期の足利成氏御座所についてまとめました。

 伊藤先生は、享徳の乱以前、古河公方となる前の第5代鎌倉公方・足利成氏の御座所について考察し、鎌倉→江ノ島→津久井桐谷→鎌倉(西御門)と整理しました。

 このうち江ノ島は岩本坊(現在の岩本楼旅館)と推定します。桐谷は従来、鎌倉桐谷(材木座・経師谷の東側)とされていましたが、伊藤先生は、津久井桐谷(相模原市緑区・光明寺、寺の背後が字桐谷)とする新たな見方を示されました。

 なお、最初の鎌倉については、先生は言及されていませんでしたが、当会 I 君が見つけた鎌倉市史の解説によれば、『鎌倉大草紙』、『鎌倉大日記』から足跡をたどれます。

 以上をまとめると以下の通りになります。

【成氏鎌倉帰還】
→鎌倉・浄智寺 『鎌倉大草紙』、『鎌倉大日記』(宝徳元年(1449)秋、あるいは文安四年(1447))
→鎌倉・新御所(位置不明) 『『鎌倉大草紙』(同年十一月晦日)
→江ノ島 『鎌倉大草紙』『鎌倉大日記』など(岩本坊と推定・宝徳二年(1450))
→桐谷 『喜連川判鑑』(鎌倉・材木座あるいは津久井桐谷)
→鎌倉・西御門 「上杉憲忠書状」(6100号喜連川文書)(伊藤先生は宝徳四年八月七日と推定)
→【享徳三年(1454) 十二月二十七日享徳の乱始まる・翌四年、成氏は古河に移座】

 成氏の鎌倉時代は 5~7 年程度。決して長くはありませんが、この時期は成氏の人生を決定しました。講演で、伊藤先生は多くの史料から当時の成氏の思いを考察。ここで紹介しきれなかった興味深いお話がたくさんありました。

前のページに戻る