古河の姫君と諏訪の姫君①(2015 Facebook記事を修正)

 古河の姫君(通称:氏)と諏訪の姫君(小説等で由布の名で有名)は何かと共通点の多い戦国のヒロインなのでこちらでも取り上げたい人物でした。
 まずは古河の姫君から。

 文書で足利氏女(あしかがしのむすめ)と書かれることが多く、氏姫(うじひめ)という名前で佐藤博信先生も呼称しています。本名は不明です。関東足利氏の末裔。母親は北条氏康の娘だといわれています。天正11年(1583)1月、父の義氏が死去しましたが、嫡男の梅千代王丸が早世していたため、9歳で家督を継ぐことになります。

 小弓公方・足利頼純の子には嶋子・国朝・頼氏がおり、秀吉の小田原攻めの後、宇都宮城に滞在した秀吉が嶋子を側室にしました。秀吉は古河に寄った可能性もありますが証拠はありません。しかし、秀吉の印判状で何通か古河への通達事項は遺っています。

1590年7月 小田原北条氏(古河の姫君の母方の実家)滅亡
1590年7月 秀吉、古河市中に禁制を発布
1590年8月 秀吉、「古河城破却」(古河城退去の意味か?)を命令
1590年8月 秀吉、古河の検地を実施
1590年9月 信州松本より小笠原秀政が3万石で古河入封
1590年9月20日 秀吉、古河姫君あてに向古河・伊賀袋(両方とも現在の北川辺)・ 原下諏訪の下まで(現在の鴻巣・原・長谷・牧野地・新久田)の合計332石を安堵。

 古河公方の直轄領は10万石とも20万石とも云われていた中で、332石だけの安堵は実質的な改易と同じだと思われます。また、秀吉の印判状に「古河姫君」と言われていることから、中央政権から「古河姫」として認識・呼称されていました。

 そして1591年3月、足利国朝との結婚を秀吉から命じられます。国朝は秀吉より、嶋子の領地、喜連川を拝領しますが、古河の姫君は断固拒否。一生を古河で過ごすことになります。国朝の死後、その弟の頼氏と結婚させられますが、姫君のアイラブ古河スタンスは変わりませんでした。

 本稿は古河郷土史研究会9月例会 鷲尾政市氏講演「足利氏姫の生涯」を参考にしました。

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