(2015 Facebook記事を修正)
さくら市ミュージアムで、古河公方の研究等で有名な阿部能久先生のご講演「関東の戦国時代と喜連川家の成立」がありました。
阿部先生は、関東の中世史に興味深い視点を提供してきました。例えば、「関東公方」という歴史用語がありますが、多くの場合は、鎌倉公方と同じ意味で使われます。これに対して、鎌倉公方と古河公方をあわせて「関東公方」と呼ぶべきではと提唱。異論もあるようですが、個人的にも、古河公方も関東公方と定義した方が、北条氏綱や上杉謙信・北条氏康・氏政の行動を説明しやすいと感じます。
お話の中心は、古河公方終焉期から喜連川家成立の背景。豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼした後、古河の氏姫と足利国朝を結婚させ、一時期は消滅しかかった古河公方家を、喜連川家として再興させます。その理由は、よく言われているような「名家の血筋が絶えるのを惜しんだ」というものだけではなく、北条氏の後に関東の主となった徳川家康を牽制するという政治的なものではないか? と指摘されました。
秀吉は、徳川領の中にある古河の領地を氏姫に与えましたが、全く他の武家の所領を内部に設定することは非常に異例。家康にとって、歓迎できることではなかったはずです。さらに、将軍への野心を見せ始める家康のすぐ目と鼻の先に、歴代の関東の将軍である足利氏を存続。天正16年、家康は藤原氏から源氏に改姓し、将軍たる資格を整えようとしますが、この改姓はやや強引で、当時の人にもこじつけではと思わせるものでした。その雰囲気のなか、誰が見ても正当な源氏である足利氏(喜連川氏)の存在感を際立たせたことは、政治的な意図を感じさせます。
仮説ではあるものの、とても興味深いものでした。
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