(2016 Facebook記事を修正)
JR東鷲宮駅や旧町名・鷲宮の由来にもなった鷲宮神社(埼玉県久喜市)は関東最古ともされる大社で、古くは「土師の宮」(はじのみや)とも称し、のちに転訛して「わしのみや」になったと言われています。鎌倉期には幕府ゆかりの神社として、鶴岡八幡宮、伊豆山権現、箱根権現、三島大社と同列とされました。鎌倉幕府の後も、下野小山氏、鎌倉公方・古河公方足利氏、小田原北条氏に庇護されます。特に古河公方は、残された伝来文書18点から分かるように、この神社をとても大切にしてきました。
享徳の乱では、足利成氏が戦勝を祈願し、成就したときには足立郡・騎西郡の段銭(税金)を社の修造費として納めるとした願文(享徳5年・1456)を捧げました。署名は「左兵衛督源朝臣成氏」で、他に例のない丁寧な書き方だそうです。成氏の鷲宮社に対する思いの強さが伺えます。歴代公方の文書の多くは、社領の安堵や寄進、祈祷の御礼で、公方の祈願所となっていたことが分かります。
政治的にも、鎌倉公方・古河公方足利氏と密接に関係。永享12年(1440)の結城合戦では、鷲宮神社の神主も結城城に入ったとみられ、反上杉勢力の一端を担った可能性があります。享徳の乱においても、鷲宮社に近い菖蒲城・騎西城は、古河公方勢力圏の最前線にあり、単なる祈願所を越えた重要拠点だったように思われます。
写真の最後は鷲宮神社の神楽殿。「土師一流催馬楽神楽」は国指定重要文化財で、関東神楽の源流とされています。
参考文献
久喜市立郷土資料館『神楽の世界と久喜の歴史・文化』(平成26年)
『鷲宮町史 通史上巻』鷲宮町(昭和61年)