古河公方とは11.公方の前線基地・円福寺(2016 Facebook記事を修正)

 古河市とその近辺には、古河公方ゆかりの寺院がいくつかあります。大聖院、尊勝院、神宮寺、徳星寺、長谷寺、鳳桐寺、 龍樹院(虚空蔵尊)、勝願寺、満福寺(野木町野渡)、真光寺(北川辺・廃寺)、徳源院(廃寺)、永仙院(廃寺)、松月院(廃寺)などです。 ところが、同じく古河公方と関わりが深い円福寺は、紹介される機会がまだ少ないようです。

 円福寺は現在、下妻市の砂沼沿岸にあります。もとは八千代町今福にあり、寺伝によれば、延元元年(1336)頃、足利尊氏の兄・高義(たかよし)が今福香取宮の隣に建てた仏堂が起源。応永元年(1394)、第二代鎌倉公方・足利氏満により再興され、高義にちなんで寺号を円満寺としました。

 ここは鎌倉公方・古河公方の祈願所でした。第四代鎌倉公方・足利持氏、そして、持氏の孫にあたる第二代古河公方・足利政氏、第三代・高基、第五代・義氏の文書が残されています。

 また他の文書からは、円福寺と周辺の武家たち、宍戸氏を始め、山川氏、結城氏、赤松氏との密接な関係が分かります。円福寺があった現在の八千代町は、古河公方御料所の境界部でした。そして直近にある鬼怒川の対岸・東側の下妻荘から先は常陸国です。

 初代古河公方・足利成氏は、多賀谷氏に下妻荘の所領を与え、自らの奉公衆に組み入れようとしました。また、円福寺を管理した宍戸氏は、鎌倉公方以来の奉公衆として活躍し、下妻荘のさらに東にある宍戸荘(小鶴荘とも。笠間市など)が本拠地です。すなわち、古河公方は円福寺を中心に周辺武家と関係を強化、東方への前線基地とし、 円福寺・下妻荘・宍戸荘のラインに沿って、常陸国に影響力浸透をはかったと考えられています。

 円福寺は元亀元年(1571)、小田原の北条氏政・氏照が侵攻したとき、戦禍により失われます。そして多賀谷政経により、下妻城下に再建され、現在に至っています。

参考文献
 茨城地方史研究会編『茨城の歴史 県西編』茨城新聞社(平成14年)
 『八千代町史 通史編(第二版)』八千代町(昭和63年)
 『戦国人名辞典』吉川弘文館(2006年)、「多賀谷祥賀」

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