古河公方とは10.古河公方と足利長尾氏 ~景長・憲長・当長(2015 Facebook記事を修正)

 長尾氏は関東管領・山内上杉家の家宰です。家宰というのは筆頭重臣。戦国の世なので、かなり乱れてはいますが、もともとは公方の補佐をするのが関東管領であり、その筆頭重臣が長尾氏ですから、古河公方・足利氏とも無関係ではありません。

 1454年に始まる享徳の乱では、山内上杉家と古河公方・足利成氏は激しい戦いを繰り広げますが、1482年に両者は和解。そして成氏の子・第二代公方の政氏のころには、関東に秩序を取り戻すため、古河公方と山内上杉の両家は力をあわせるようになります。

 一方で、惣社・白井など数系統あった長尾氏の中でも、足利長尾が力をつけるようになり、山内上杉家の家宰を独占します。

【長尾景長】(ながおかげなが)のとき、1512年の永正の乱をきっかけに、足利長尾が山内上杉家の家宰を独占し始めました。上杉憲房とともに、当時の関東管領・上杉憲実とその家宰・長尾顕方(惣社)を倒し、憲房は新たな関東管領、自らはその家宰となります。その後は、第三代公方・足利高基とともに、公方―管領体制を支えていきます。

【長尾憲長】(ながおのりなが)も、山内上杉家の家宰を引き継ぎました。第四代公方になる足利晴氏の元服(1528年)のときには大活躍します。越後長尾を仲介として、京都の幕府と交渉し、将軍・足利義晴の一字を拝領 (*1)。晴氏の「晴」の字です。元服式にも関東管領代官として参上し、晴氏と対面しています(*2)。越後との関係も深く、1549年に長尾景虎(上杉謙信)と和歌の贈答を行いました。

【長尾当長】(ながおまさなが)。このときの関東管領は上杉憲政でした。 ご存知の通り、1546年の河越合戦では、山内上杉(憲政)と扇谷上杉(朝定)、古河公方・足利晴氏の連合軍は、小田原の北条氏康に敗れ、憲政は越後に逃れます。足利長尾が関東管領の家宰だった時代が終わり、古河公方との接点もなくなったと思われます。

 しかし、歴史はおもしろいものです。さらに時代が下り、当長の孫にあたる長尾宣景が、古河藩主となる土井利勝に仕官。長尾家は江戸時代が終わるまで土井家の重臣として活躍し続けました。古河と足利の歴史を結びつける足利長尾の物語。さらに調べると、もっと面白い事実が見つかるもしれません。

注釈
*1: 『古河市史資料中世編』古河市(昭和56年) No.736(長尾憲長書状・上杉家文書)
*2: 『古河市史資料中世編』古河市(昭和56年) No.739(足利晴氏元服次第記写・野田家文書)

参考文献
 『戦国人名辞典』吉川弘文館(2006年)、「長尾景長」・「長尾憲長」(落合 厚志 執筆分)
 西ヶ谷 恭弘 『戦国の風景 暮らしと合戦』東京堂出版(2015年)、P.240-244(元服の次第)

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