古河公方とは8.古河公方の経済力を支えた下河辺荘(2015 Facebook記事を修正)

 古河公方が戦国時代のおよそ130年間、生き残れた理由のなかでも、経済力を支えた下河辺荘は外せません。

 享徳の乱で、古河公方・足利成氏と戦った、堀越公方・足利政知と比較するとよく分かります。

 京都から伊豆に来た政知には、関東に経済基盤がありませんでした。そこで周囲の武将や寺社の土地を押領します。その結果、室町幕府が後ろ盾になったにも関わらず、関東で支持を集められなくなり、享徳の乱でも活躍しないまま、乱の後、10年程度で滅びました。幕府を相手に享徳の乱を戦いぬき、その後も100年続いた古河公方と対照的です。

 古河公方の経済力を支えた下河辺荘は、茨城県古河市を北端として南北に広がる広大な荘園でした。現在の古河市、五霞町、千葉県の野田市、埼玉県の旧大利根町(現加須市)、旧栗橋町(現久喜市)、幸手市、杉戸町、春日部市、越谷市、松伏町、吉川市、三郷市にまたがっていました。

 下河辺荘は平安時代末期、下河辺行義・行平親子が開発した荘園です。行平は古河城のもとになる館を古河・立崎に設けた人です。その後、下河辺氏の手を離れますが、至徳三年(1386)、小山氏の乱の後に、鎌倉公方・足利氏満が自らの御料所に編入。足利成氏はこれを継承します。

 御料所が成立したときには、鎌倉公方の代官が入って経営に携わりました。後に古河公方家臣として活躍する簗田氏は水海城、野田氏は古河城を拠点とします。

 享徳4年(1455)に足利成氏が古河城に入ると、簗田氏は関宿城、野田氏は栗橋城に拠点を移しますが、それまでに蓄積してきた御料所経営の実績があったからこそ、成氏は古河に来た直後から活発に活動して、享徳の乱をのりきり、その後も古河公方が生き残れたのです。

参考文献 『古河市史 通史編』 、古河市 (1988)

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