(2015 Facebook記事を修正)
関東の戦国時代、【上杉謙信】と北条氏康・氏政が関東の覇権をめぐり争っていたとき、古河城に京都から関白・【近衛前久】がやってきます。
近衛前久は、永禄2年(1559)に上杉謙信が二度目の上洛をした際、将軍・足利義輝との謁見・交渉を仲介しました。そして、これをきっかけに前久と謙信は信頼し合うようになり、二人は血書の誓紙を交換・盟約を結びます。この誓紙の中で、前久は東国下向を期します。実際に永禄3年(1560)に越後(新潟県)、翌年には関東へ入りました。現職の関白がこのように京都から遠く離れた地に、長期にわたって滞在することは、前例がありません。
永禄4年(1561)6月、近衛前久は厩橋城(前橋城)、8月末には【古河城】に入ります。古河城には上杉謙信が擁立したもう一人の古河公方・【足利藤氏】、および、関東管領・【上杉憲政】も滞在しており、関白・古河公方・関東管領の三者が集結することになりました。
先立つ同年 3月、上杉謙信は関東の諸将を率いて、北条氏康・氏政が籠る小田原城を包囲。閏3月に山内上杉氏の名跡と関東管領職を引き継ぎました。謙信の関東平定があと一歩に思えた瞬間です。謙信は古河城に関白・古河公方・関東管領を集めます。これは古河を【関東の首府】とする構想を持っていたことを意味しました。
この後、上杉謙信は越後に戻り、同年9月、武田信玄との第4回川中島の合戦に臨みます。一方、謙信が去った関東では、ただちに北条氏は反撃を開始。関東の諸将も次々と北条側に鞍替えします。謙信や近衛前久はどれだけ失望したでしょうか。謙信が越後に戻った後、前久は一人で古河にとどまり、謙信の関東平定を実現すべく尽力しました。
しかし、下野佐野氏が離反すると、古河も安全ではなくなり、永禄5年(1562)2月、近衛前久と上杉憲政は古河城を脱出。謙信の関東平定と関東首府・古河構想が実現することはありませんでした。
余談ですが、近衛前久が古河城にいた永禄4年(1561)10月、川中島の合戦の戦勝を祝う書状を上杉謙信に送っています。その中には「自身太刀打ちにおよばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候」とありました。映画などで見かける有名なシーン・上杉謙信と武田信玄の一騎打ちは、前久が古河でしたためた書状が元になっているそうです。
参考文献:谷口研語 『流浪の戦国貴族 近衛前久 - 天下一統に翻弄された生涯』、中央公論新社、2010年
前のページに戻る