古河公方とは5.上杉と北条、二人の関東管領(2015 Facebook記事を修正)

 室町時代の【関東管領】は鎌倉公方の補佐役。両者は協力して関東の政治を行いました。古河公方の時代も同じです。

 二代古河公方・足利政氏のときには、上杉顕定らが活躍。三代・足利高基のときには上杉顕房、次に上杉顕寛。代々の山内上杉氏が関東管領でしたが、四代・足利晴氏のとき、小田原北条氏が登場します。

 北条氏綱は実力で伊豆と相模(神奈川県)を手に入れ、さらに関東全域も視野に入れます。このときの氏綱の悩みは、古くからの関東武士が、新興勢力の北条氏を認めないこと。鎌倉時代からの伝統を誇る武士たちにとって、どれだけ力をつけても、北条氏は尊敬の対象にはなりませんでした。そこで氏綱は考えます。ひとつは改姓。もとは伊勢氏でしたが、鎌倉時代の名家・北条氏を名乗りました。

 もう一つが古河公方。関東の将軍・古河公方と一体になって政治を行うことで、北条氏は関東を統治する正当性を身につけることができます。 永正年代末期(1520頃)、氏綱は三代公方・高基に接近し、自分の娘を高基の嫡子・晴氏の嫁にする約束を取り付けました。しかし、晴氏自身は氏綱を警戒し、高基と氏綱の約束を守ろうとはしませんでした。

 四代古河公方・足利晴氏にとっての誤算は、足利義明(小弓公方)との戦いです。父・高基の時代から争い続けていた義明は、ついに大軍を率いて国府台(千葉県市川市)に進出。ここから北上し、一気に古河を攻め落とす構えを見せます。晴氏は、やむを得ず北条氏綱の力を借ります。氏綱は要請に応えて、天文7(1538)、国府台で足利義明の軍勢を打ち破りました。

 足利晴氏が北条氏との婚姻を受け入れると、北条氏綱は自らを足利氏「御一家」であると主張、関東管領を自任します。元からの関東管領は上杉憲政。ここに【二人の関東管領】が並び立ちます。

 一度は北条氏と手を結んだ古河公方・晴氏でしたが、やがて強くなりすぎた北条氏を警戒。天文14年(1545)、北条氏綱のあとを継いだ氏康と決別し、河越合戦のときには上杉憲政(山内家)・上杉朝定(扇谷家)連合軍に参加します。しかし晴氏は大敗して力を失い、天文21年(1552)に引退を強要されて、晴氏の子で氏康のおいでもある足利義氏を新たな公方にしました。

 一方、関東管領・上杉憲政は越後(新潟県)に逃れ、長尾景虎のちの上杉謙信に保護されました。謙信は永禄3年(1560)、関東に出陣して北条氏と激しい戦いを繰り広げます。このとき、謙信は山内上杉氏と関東管領を上杉憲政から継承。 そして、自分こそが正当な関東管領であると主張し、同じく関東管領を自任する北条氏と激しい戦いを繰り広げました。さらに上杉謙信は、五代公方の足利義氏に対抗して、異母兄弟の足利藤氏を擁立します。この戦いはやがて、北条氏康から氏政に引き継がれますが、北条氏政と上杉謙信の関東覇権争いは、【二人の古河公方】そして【二人の関東管領】の正当性をめぐる争いでもありました。

 永禄12年(1569)、上杉謙信と北条氏政との間に越相同盟が成立し、この争いは終結。このとき古河公方を足利義氏とすることが合意され、以後、関東の覇権は北条氏政が握ることになります。関東の戦国時代は、古河公方をめぐる戦いだったとも言えます。

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