古河公方とは4.古河公方五代(2015 Facebook記事を修正)

 初代は【足利成氏(しげうじ)】。鎌倉から古河に移り、享徳の乱を最後まで戦い抜きました。

 第二代は【足利政氏(まさうじ)】。かつて、父・成氏と死闘を繰り広げた関東管領・上杉顕定と一転して協力。関東に秩序を回復させようとします。しかし、上杉氏間の争乱(長享の乱・1487年~)のために挫折。
 有名な連歌師・猪苗代兼載が古河で活躍したのも政氏のころです。

 第三代は【足利高基(たかもと)】。永正の乱(1506年~)で父・政氏と争い、その次には弟・義明(小弓公方)と争います。内部分裂の影響もあってか、古河公方は関東全体の広域権力から、古河を中心とした地域権力に変化していきます。
 なお高基がケンカ好きというよりは、このころの時代背景として、各武家で内部争いが激しくなり、公方家も無縁ではなかったということでしょう。

 第四代は【足利晴氏(はるうじ)】。小田原北条氏が存在感を増したころの公方。晴氏は北条氏綱に命じて、小弓公方を国府台合戦(天文7年・1538)で打ち破ります。氏綱の娘を妻とし、北条氏と関係を深めますが、やがて強くなりすぎた北条氏を警戒。天文14年(1545)、河越合戦で北条氏康とたもとを分かち、敗れて力を失いました。

 第五代は【足利義氏(よしうじ)】。天文21年(1552)、北条氏康が晴氏に引退を強要して、新たな公方になりました。
 しかし、公方家重臣・簗田持助が北条氏政に敗れる天正2年(1574)、第3次関宿合戦まで、公方家は北条氏の自由にはなりません。
 自らの足利の血と、母方の北条氏の思惑とにはさまれて、苦労が多い人生だったのではないでしょうか。

 番外【氏姫(うじひめ)】。足利義氏の娘(本名不詳)。9歳のときに父親が逝去(天正11年・1583年)。男子がいなかったため、一人で古河公方家を背負いましたが、豊臣秀吉の命により小弓公方足利頼氏と縁組みしました。氏姫の孫・尊信は頼氏の跡を継いで喜連川藩主となり、江戸時代を迎えます。

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