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京都の室町幕府、関東管領・上杉氏との対立に苦しむ【足利成氏】は、享徳3年(1454年)12月27日、ついに行動を起こしました。鎌倉で関東管領・上杉憲忠を謀殺し【享徳の乱】が始まります。
成氏は動揺した上杉勢を掃討しようと、鎌倉から関東各地への遠征を開始。まず享徳 4年 1月 21・22日の武蔵分倍河原の戦いで上杉勢を撃破。続いて、3月3日には従来からの鎌倉公方軍事拠点・下総古河に到着。閏4月には上杉勢が籠る常陸小栗城を落とします。
しかし、ここで上杉勢の反撃が始まります。室町幕府は朝廷を動かし、4月に後花園天皇から成氏追討の綸旨が出されました。朝敵になった成氏は、それでも戦いをやめず、下野天命・只木山(佐野市)の上杉勢の前に陣を敷きます。このとき、上杉勢の援軍となった駿河守護・今川範忠が成氏の本拠・鎌倉への攻撃を開始。鎌倉は 6月16日に陥落しました。成氏は取り戻したかったのでしょうが、ここで鎌倉へ向かうと前後の上杉勢に挟まれることになります。成氏は鎌倉を捨てて古河を新たな本拠と定め、【古河公方】と呼ばれることになります。
古河を本拠とした成氏の勢力圏は関東の東半分で、下野(栃木)・下総(千葉北部・茨城西部)・常陸(茨城)、上総・安房(千葉県南部)の大半。一方で、西半分の上野(群馬)・武蔵(埼玉・東京)・相模(神奈川)・伊豆は、大半が上杉勢の勢力圏でした。関東の戦乱を凶例とした朝廷は、享徳4年7月25日に元号を「康生」に改めました。しかし成氏は「享徳」を使用し続けたため、この戦乱は【享徳の乱】と呼ばれます。関東の東西に分かれた両勢力は、30年間近く戦い続けます。
これは成氏にとっても苦しい戦いでした。しかし最後まであきらめず、文明14年(1482)、ついに京都の室町幕府と和睦。朝敵として日本中を敵にした成氏にとって、勝利に等しかったのではないでしょうか。そしてその後も成氏は鎌倉に戻らず、古河で鎌倉公方(古河公方)の地位を維持しました。
しかし【享徳の乱】が終結しても戦乱は止みません。結局、この乱は関東戦国時代の幕を開けることになりました。成氏に始まる古河公方5代は、戦乱の130年間を古河を本拠として戦い続けることになります。
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