古河公方とは2.京と鎌倉の対立・古河公方登場前夜(2015 Facebook記事を修正)

 古河公方が生まれたのは、室町時代に関東全体を巻き込んだ大規模な乱【享徳の乱】のときです。

 この乱は、鎌倉府の長だった鎌倉公方・足利氏と、その補佐役だった関東管領・上杉氏との戦い。しかし、単なる鎌倉府の内部抗争ではありませんでした。

 鎌倉公方から東国統治の実権を奪おうとした京都・室町幕府が大きく関わります。古河公方が戦った相手は、主に関東管領の山内上杉氏と京都・室町幕府。これに扇谷上杉氏と堀越公方などが加わりました。

 享徳の乱に先立つ、文安4年(1447)3月、【足利成氏】が第5代鎌倉公方となります。このときから成氏は、鎌倉府内勢力争いの渦中に。この争いの主役は、まずは鎌倉時代からの東国(関東)武士。すなわち、小山氏、結城氏、千葉氏、宇都宮氏、那須氏、小田氏(常陸)たちです。もう一方は、新興勢力の山内上杉氏や扇谷上杉氏でした。両者は関東各地で所領をめぐり争っていました。

 本来は調停役となるべき成氏でしたが、次第に関東武士たちの期待を背負うようになります。上杉氏は以前から、東国の直接支配を目指す室町幕府と、関係が深かったことも影響したかもしれません。

 さらに享徳元年(1452)、幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わり、鎌倉公方に対する姿勢が強硬化したことにも、成氏は苦しみました。享徳3年(1454)12月27日、成氏はついに行動を起こします。鎌倉で関東管領・上杉憲忠を謀殺。以後、30年近く続いた【享徳の乱】の始まりです。

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