古河公方とは1.鎌倉公方から古河公方へ(2015 Facebook記事を修正)

 古河公方は、室町時代にいた鎌倉公方の後継者です。

 第5代鎌倉公方・足利成氏は、享徳の乱という大きな戦乱が始まったとき、鎌倉から古河に移り、初代古河公方となります。享徳4年(1455)のことです。

 ここで出てきた鎌倉公方は鎌倉府の長。京都に室町幕府を作った足利尊氏は、鎌倉にも幕府のコピー・鎌倉府を作りました。京都の将軍には鎌倉公方が相当し、管領には関東管領が相当します。評定衆・侍所・政所という機関も両方にありました。

 尊氏の目的は、京都から遠く離れた東国をしっかりと掌握すること。実子・基氏を鎌倉公方に定め、自らの分身として、東国を統治することを期待します。

 しかし、代を重ねるごとに京都と鎌倉は疎遠になり、やがて相争うことになります。永享10年(1438)の永享の乱、同12年の結城合戦と戦乱が続き、享徳3年(1454)に始まる享徳の乱では、ついに鎌倉府が完全に崩壊。足利成氏は古河に古河府を設け、関東地方は戦国時代に突入するのです。

 古河公方の歴史は関東の戦国時代そのもの。そして、古河公方を知ることは、古河と鎌倉、京都の間に生まれた歴史物語に触れることでもあります。

前のページに戻る