松月院御所塚(2016 Facebook記事を修正)

 松月院御所塚は古河公方公園の約200m西に離れた場所にある、松月院公園の中にあります。松月院自体は、この塚の約200m北に離れた場所にありましたが、廃寺となった後に、渡良瀬川堤防工事の土取りのため消滅しました。

 松月院の開基は、第3代古河公方・足利高基の没年1535年(天文4年)頃とされ、鎌倉・円覚寺の末寺です。市内の永仙院 ・徳源院とともに、古河の「足利開基三ヵ院」と称されていましたが、江戸時代後期には他の二ヵ院同様に無住持の状態が続き、明治初期には廃寺となって、栃木市藤岡町蛭沼・山王寺に合併されました。

 第5代古河公方・足利義氏の娘・氏女は、豊臣秀吉の指示により、小弓公方・足利頼氏と縁組みしました。足利頼氏は後に下野国喜連川に所領を得ましたが、氏女とその子・義親は、鴻巣御所(現在の古河公方公園内)に住み続けました。義親は榊原康政の養女を正室とし、2人の間に尊信が生まれましたが、翌1619年(元和5年)に夫人は亡くなりました。 氏女の計らいによって本院に葬られ、寺も「千光院」から夫人の法号「松月院」に改称されたそうです。

 塚の一つには榊原家の家紋があり、松月院殿の墓と推定されます。

前のページに戻る