(2016 Facebook記事を修正)
源平合戦のころ、栃木県野木町野木神社周辺にて、志田義広・足利忠綱連合軍と源氏方小山朝政が戦った合戦。源氏方の下河辺行平・政義が志田軍の残党を打ち取るべく、「古我」の渡しを警護していました。ちなみに古我は古河、高野は幸手と杉戸の間の高野に比定されています。
以下書き下し。
養和元年閏2月23日、己巳、志田義廣三万余騎の軍士を率して鎌倉方へ赴く。先ず足利又太郎忠綱を相語らう。忠綱もとより源家を背くの間、約諾を成す。 また小山と足利と一流の好ありといえども、一国の両虎たるによって、権威を争うところ去年夏の比、清盛が一族を誅滅すべきの旨、以仁王令旨を諸国にくだされた。小山すなわち別語を承る。忠綱なその列には加わらなかった。はなはだ鬱憤を含み、平家方に身を投じ宇治川にて源入道三品頼政卿の軍陣を破り、王を射たてまつるところなり。異心いまだ散せず、かつは次をもって小山を滅ぼさんがために、この企てありと云々。次に志田義廣与すべきの由を小山四郎朝政に相語る。朝政が父政光は、皇居警備のために未だ在京す。郎党ことごとく政光に従う。よって無勢といえども中心のいくところ武衛にあり、義廣を討ち取るべきの由群議を凝らす。老軍等いわく、早く与同せしむべきの趣、偽りてまず令状せしむるの後、これを謀るべきなりてへれば、すなわちその旨を示し遣わす。義廣喜悦の思いをなし、朝政の館の辺りに来臨す。これより先、朝政、本宅を出でて、野木宮に引き籠らしむ。義廣かの宮の前に至るの時、朝政計画を廻らせて、人をして、登々呂木沢・地獄谷等の林の梢に昇らしめ、時の声を造らしむ。その声、谷に響き、多勢の装いをなす。義廣周章迷惑するのところ、朝政が郎党太田菅五・水代六次・和田池二郎・蔭沢次郎、ならびに七郎朝光が郎党保志秦三郎等攻め戦う。朝政緋縅の鎧を着て、鹿毛の馬に駕す。時に歳二五。男力はなはだ盛んにして、四方にかけて多くの凶徒を滅ぼすなり。義廣放つところの矢、朝政に当たり、落馬せしむといえども死闘に及ばず。ここに件の馬、主を離れて登々呂木沢に行くいほう。しかるに五郎宗政歳二十、鎌倉より小山に向かうのところ、この馬をみて合戦すでに敗北し、朝政亡せしむるかの由を存じ、駕を馳せて義廣が陣の方に向かう。義廣が乳母子多和山七太、鞭をあげてその中に隔す。宗政弓手に逢いて、七太を打ち取る。宗政が小舎人童、七太が首を取る。その後、義廣いささか引き退いて、陣を野木宮の坤(南西)の方に張る。朝政、宗政、東方より襲い攻む。ときに暴風、辰巳に起こり、焼野の塵を揚げる。人馬ともに限路を失い、横行分散して、多くの屍を地獄谷・登々呂木沢にさらす。また、下河辺庄司行平・同弟四郎政義、古我・高野等の渡りを固め、余兵の遁走を討ち止むと云々。
足利七郎有綱・同嫡男佐野太郎基綱・四男阿曽沼四郎廣綱・五郎木村五郎信綱および太田小権守行朝等、陣を小手指原、小堤等の所々に取りて合戦す。このほか八田武者所知家・下妻四郎清氏・小野寺太郎道綱・小栗十郎重成・宇都宮所信房・鎌田七郎為成・湊河庄司太郎景澄等、朝政に加わり、蒲冠者範頼同じく馳せ来らるるところなり。かの朝政は叢祖秀郷朝臣、天慶年中に朝敵平将門を追討して両国守を兼任し、従四位下に叙せしめしより以降、動功の跡伝え、久しく当国を守りて門葉の棟梁たるなり。今、義廣が謀計を聞きて、忠を思い、命を軽んずるが故に戦場に臨みて勝つに乗ることを得たり。
参考:吉川弘文館(1973)新訂増補国史大系吾妻鏡第一
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