(2015 Facebook記事を修正)
古河にある日光街道ゆかりの史跡は、二丁目通り・鍛冶町通り交差点の古河宿道標が有名ですが、他にも「左筑波」という名所がありました。
江戸から日光に向かって街道を北上していくと、筑波山は右に見えます。ところが古河宿北端の横町口には、道をさえぎる土手が設けてあり、野木への出口が右側にあったため、旅人は右折を強いられました。ここで筑波山が左に見えたと言うものです。
千賀覚次『古河史蹟と古河藩のおもかげ』にこんな一節があります。
「即ち古河の城下の出外れる横町口の、桝形を松原に出る所であって、横町を南から北に歩んで本成寺の前から其北隣の専蔵院の前にかかると、此処で真正面に堅地でつんだ土手に突き当ることになるが、其土手が更に右に南に折れてかねの手になって、松原への出口を作って居るので、道行く人はいやでも右に向き直さなければならず、此処で始めて今まで右に許り見えた筑波が、遂に左手に見えるようになるので、此処六、七軒を歩む間を左筑波と称して、・・・」
横町口は、現在の横山町と松並町の間にある三叉路です。横町(横山町)の通りを北に進み、三叉路の箇所で直角に曲がると、地図上では確かに筑波山が左側にあります。家が建ち並び見えませんが、斜め左前方に見えたはずです。
しかし、地元には別の説があります。地図を見ると、近くに専蔵院がありますが、ここは古河公方・足利成氏に仕えた筑波別当が開山した寺院と伝わります。つまり、筑波別当の専蔵院が左手に有ることから「左筑波」と呼ばれたそうです。
今となってはどちらが正しいのか分かりません。
前のページに戻る