正保日本図に描かれた古河近辺(2015 Facebook記事を修正)

 正保日本図とは江戸時代初期に作成された精巧な日本地図のことです。

 時は武断政治。幕閣は反乱を起こさせない為、また反乱が起こっても鎮圧が容易に出来るように各藩に国絵図・城絵図の提出を命じました。これらがあれば、反乱者の城をどこからどのように攻めれば良いか一目瞭然であるからです。そのため、国絵図には軍道となる街道の距離、また堀となり得る河川、砦となり得る丘陵、また古城などをすべて網羅させ、城絵図には堀の深さと巾から土塁の高さまで克明に記させました。それらを集約したのが正保日本図。1645年頃の完成だそうです。ちなみに、もし記述に誤りがあったのならば、その大名は当然改易、お家断絶の可能性も十分にありました。

 さて、そんな正保城日本図の古河周辺を見ると、河川が現在と違うことに気付きます。現在北川辺と加須を隔てる利根川は南に大きく湾曲し、また、関宿の西側の五霞は古河と陸続きになっています。北川辺と加須を隔てる利根川・新川通と古河と五霞を隔てる赤堀川はともに1621年着工、竣工は1650年代です。国絵図作成時点(1640年頃)には当然竣工している訳無いので、北川辺と大利根は陸続き、五霞と古河も陸続き。現在利根川の北にある北川辺が埼玉県、利根川の南にある五霞が茨城県である理由は、正保日本図を見ると良くわかります。

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