川戸台遺跡が語る古代の古河(2015 Facebook記事を修正)

 2010/3/10の東京新聞に「国内最大級の製鉄作業場か 古河・牧野地川戸台遺跡」、毎日新聞に「川戸台遺跡:大量の鋳型破片、出土国内最大級の製鉄遺跡か--古河/茨城」と記事があります。遺跡の場所は古河公方公園のすぐ西隣。当時はかなり注目されましたが、今は埋め戻されて道路と田畑になっています。このとき発掘調査が行われたのはごく一部で、遺跡の全体像はまだ解明されていません。面積400平方メートルを掘っただけで、4,500kgもの製鉄関連遺物が出土し、その密度の高さなどから日本最大級と推定されました。

 この遺跡には様々な可能性が埋まっています。

 ひとつは、8-9世紀の律令国家による「征夷事業」。出土品から工房が稼働したと推定される時期は8-10世紀。これは「征夷事業」が活発だった8-9世紀と一致します。このとき、関東地方から多くの兵士や武器・食糧が東北地方に送られたことが知られています。そして、川戸台遺跡から出土した鉄鍋と、陸奥・多賀城、出羽・秋田城で出土した鉄鍋との共通性が指摘されました。このことは、朝廷による東北地方征服戦争の中で、古河地域が物資を補給する兵站基地とされた可能性を示しています。

 もうひとつは、10世紀に起きた平将門の乱。高橋修先生は、乱の遠因になった平将門と平良兼の「女論」(『将門略記』)について考察し、良兼の娘を妻とした将門が、「女婿」の立場から下総介・良兼が持っていた猿島郡・豊田郡権益を要求して起きた争いと考えました。将門の父・良持(良将)は鎮守府将軍だった人物で、将門自身も奥州(東北地方)と深い関係を持っていました。 将門は「関東の人や物を集約して奥州に送る結節点となる猿島郡(含古河地域)」が何としてでも欲しかった。しかし良兼にとっては、上総・下総から常陸・下野に及ぶ勢力圏が中央で分断されるため、容認できなかったのです。

 川戸台遺跡の発掘がさらに進めば、征夷事業や平将門との関わりを具体的に示す、新たな遺跡・遺物が発見される可能性があります。また工房の大きさや生産規模など、遺跡の全体像が明確になれば、推定だった「国内最大級」という評価が正しく位置づけられます。全国的にも魅力的な史跡になるはずです。

参考文献 古河歴史シンポジウム実行委員会編『古河の歴史を歩く 古代・中世史に学ぶ』、高志書院

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