(2015 Facebook記事を修正)
いまから6000年くらい前、渡良瀬遊水地周辺は古東京湾の最奥部でした。貝塚が存在することから分かることは、
①貝塚が存在する場所は海辺の影響を受ける場所であった。
②縄文人の人工遺跡の為、集落が存在した。数が多ければ多いほど大規模集落であった事になる。
③貝塚が現存する場所は海辺ではあるが、海没していない土地である=台地(地震に非常に強い堅牢な土地)
まとめると貝塚=海辺で古代人が生活をした土地で、災害に強い場所、ということになります。
古河公方公園周辺には驚くほどの貝塚が集中しており、大規模集落があったと想像されます。 もし、大規模集落が弥生時代後期まで存続したとすれば、その集落の領主の墓が頼政郭古墳に祭られていた可能性があるのです。また、これも空想の域を脱しないけれども、古河公方館跡などの鹿角状谷に囲まれた台地には、数多くの古墳が未だ眠っているかもしれません。(あくまで推定です)
出典 「日本における縄文海進の海域環境と人間活動(一木絵里)」より、奥東京湾最奥部の貝塚分布図に加筆
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