(2016 Facebook記事を修正)
横山町から雀神社へ続く道(参宮道路)を歩いていくと、徳星寺前に天神町由来記という石碑があります。元和五年(1619)、奥平忠昌が古河藩主になったとき、この一帯に町並みが形成されたこと、天満宮が祀られたため、天神町と名付けられたことなどが記されています。また、江戸時代には石碑の近くに木戸があり、武家地と町人地の境界にもなっていました。
ここから南に伸びる町通りが天神町。古河で最大の繁華街だった横町の西隣にあり、近年まで多くの料理屋が軒を並べていました。いまでもその名残が感じられる界隈です。石碑から南に200mほど歩くと天神町と杉並町・紺屋町の境界。ここで東に目を向けると、町名の由来となった天満宮が鎮座しています。
江戸時代、この一角には薬王山地福院という寺院がありました。天満宮は地福院の第六代住職・宥伝が創建したとも伝わります。地福院は天満宮の別当寺でした。 この天満宮は一説では、土井家の家臣・日暮七郎左衛門の屋敷にあって、移転時に残されたともされ、日暮天神とも呼ばれました。
古河の昔話のひとつに、地福院の大狢(むじな)があります。寂しい雨の日の夜になると、この寺の竹林に住む大狢がお化けになって通行人を脅かしたというもの。当時はこの近辺にも狢が出そうな雰囲気が残っていたのでしょう。
明治初期には地福院も廃寺となり、尊勝院に吸収。いまは天満宮だけが当時の名残です。能書で有名な市川泰溜による安永八年(1779)の扁額があります。
参考文献
『古河市史 民俗編』古河市(昭和58年)
『古河市史 資料 別巻』「古河志」古河市(昭和48年)