八俣と山田、二つのヤマタと五十塚古墳(2016 Facebook記事を修正)

 五十塚古墳群(いそづか こふんぐん)は、古河市東山田のKDDI八俣送信所敷地内にあります。昔は円墳十数基・前方後円墳2基がありましたが、現在は円墳2基、前方後円墳1基が残っています。

 五十塚は、「八十塚(やそつか)」、「磯塚(いそつか)」とも呼ばれたそうです。50あるいは80基もの古墳群、石の多い水辺・磯にある古墳という意味あいでしょう。

 八俣は平安期にさかのぼる古い地名です。八俣郷(八侯郷)には、現在の山田、東山田、北山田、谷貝が含まれます。そして、百済国(朝鮮半島南西部)からの渡来人氏族のなかに「八俣部」があることから、当地との関連が想定されています(『地理志料』)。
 事実なら、古墳の主は渡来人かもしれません。発掘調査などが進めば明確になるでしょう。

 この古墳は飯沼に面する台地の縁に築かれました。飯沼は南北に細長く、南端で鬼怒川と今の利根川下流との合流部につながりました。江戸期の享保年間、新田開発のため干拓されましたが、古墳が築かれた頃には、水辺で暮らす人々が集まり、漁業もさかんで、舟の往来も頻繁だったことでしょう。こうした人々の首長が葬られているとも考えられます。

 飯沼の周囲には、塚山古墳・秋葉神社古墳(どちらも八千代町)他、多くの古墳があります。時代は下りますが、坂東市逆井の逆井城も、飯沼のほとりでした。五十塚古墳群の背景については、飯沼をめぐる歴史全体を俯瞰しながら、考えたいと思います。

 ところで、古代の地名「八俣」は、のちに「山田」と書かれるようになり、江戸期には山田村(大山田村)、東山田村、北山田村が定着します。このために山田は「やまだ」ではなく、「やまた」と呼ばれます。
 明治22年(1889)、この地域の村々が合併したとき、古代の地名「八俣」が復活。そして昭和15年(1939)、八俣村東山田に送信所の建設が始まりました。

参考文献
 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)
 『三和町史 通史編 原始・古代・中世』
 『三和町史 資料編 原始・古代・中世』
 『八千代町史 通史編(第二版)』

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