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加須市北川辺地域の麦倉の倚井陣屋について。
戦国時代(古河公方時代)に、石川権頭義俊(石川武蔵守)の居館(倚井陣屋)がありました。造られた年代は不明ですが、明応年間(1492-1501)には、義俊が住んでいたようです。場所は慈眼寺北側付近と言い伝わり、この近くには合ノ川跡があります。合ノ川は天保9年(1838)に浅間川呑口と同時に締め切られたので、当時は水が流れていたことになり、川を天然の堀として利用した城館だった可能性もあります。
石川権頭義俊は、源氏の末流・石川武蔵守権頭から13代目、第14代が左衛門正忠俊です。第15代勘解由左衛門俊重のとき、永禄十一年(1568)六月下旬、小田原の北条氏綱の命により、羽生城主の木戸相模守長照が倚井陣屋に攻め込みました。このとき木戸勢は、陣屋周辺のとうもろこし畑に隠れることで奇襲に成功。石川勢は抵抗しきれずに、陣屋は焼け落ち、俊重も討死します。鷲神社の西にあった正宝寺や民家も焼き払われたと言われています。
幸いにして、俊重の遺児たちや婦女子は陣屋を脱出。俊重叔父の石川将膳俊久が遺児を託され、家老の鳥海多津儀を従えて、戸津根郷(栃木市大平町伯仲の一部)に身を隠しました。
やがて天正二年(1574)二月、将膳らは麦倉に戻ります。将膳は戦死者の冥福を祈るため、本山宗門祈願寺にこもり、多津儀は神職となりました。多津儀の子孫が鷲神社の神官です。俊重の遺児たちは麦倉耕地を開発し、多くの石川家が繁栄しました。
(史実と整合ていない点があり、注意)
参考文献
鎗水柏翠『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)
『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)
大熊孝『利根川治水の変遷と水害』東京大学出版会(1981年)