麦倉・飯積(加須市北川辺地域)(2016 Facebook記事を修正)

北川辺の麦倉(むぎくら)と飯積(いいづみ)について。

 麦倉と飯積の由来は諸説あります。
 ひとつは御諸別王(おもろわけおう)の伝説。四世紀ごろ、大軍を率いて蝦夷と戦ったとき、兵糧を集めたところが「麦倉」、飯をたいたところが「飯積」となったというもの。近くの樋遣川には御諸別王の墓と伝わる塚も残っています。(*1,*2) (*3)
 もうひとつは、昔の地形によるもの。「ムギ」は麦ではなく、段丘や砂丘などムキ出しになってよく見える地形、「クラ」は互いに腕前を比べることとし、合ノ川沿いに砂丘が波状になっていた景観から麦倉と呼ばれたとします。(*1,*2) (*3)

 飯積については、「イー」は自然堤防や段丘など小高いところにある田や土地、「ヅミ」は住みの意味という説 (*3)と、「ヅミ」については、隅という意味の「ツマ」・「スマ」で、館林をのせたローム層の隅とする説 (*1,*2) がみられます。
 麦倉は昔、倚井(よりい)と呼ばれたようです。明応元年(1492)には現在の麦倉ですが、その前の延徳年間(1489-91)は倚井とされています。柳田國男 (*4) によれば、ヨリイは、寄居とも表記され、根小屋(ネゴヤ)・箕輪(ミノワ)と同様に城下の民の意味。つまり、ここにもかつて城館があったことを示唆します。中世には、今の慈眼寺北側に石川権頭義俊(石川武蔵守)の居館(倚井陣屋)があったと伝わっています。

小字名

 【大塚】は通常、古墳や土盛に由来する地名ですが、ここの地形には該当しないので、オオスカが転訛したと考えられます。オオスカの「スカ」は【須賀】と同じで河川の近くに多い地名。「洲処(すか)」、すなわち砂がある場所の意味。【曽根】のソネは砂質でやせた土地、【大島】のシマも自然堤防上の微高地に島状に点在した集落の意味。【山越】は群馬に通じる往還が砂丘にさえぎられて、これを越して行ったことから。これらは全て河川沿いの地形に起因します。

 こうして見渡すと、砂地に関連した地名が多いことに気付きます。昔はこのあたりでも、川の近くに砂地が多く見られました。現在は上流にダムが増えて、砂もせきとめられ、砂地が少なくなっています。

 【火打沼】は「樋内沼」と表記されました。樋を設けて川から水を引いたところに、弘化3年(1846)の洪水で沼ができたことが由来。【土部】は排水の悪い土地の「ドブ」から。【内野】は堤防の内側にあって、水田を拓き、水湿の地をひかえたところ。【細間】の「マ」は「舟がとまるところ」の意味で、小さな河港だったところ。【戸羽打】は「渡場内」で、大越と飯積を結ぶ渡し場から。【中輪葉】は「中輪端(なかわはた)」つまり川に囲まれた輪中の端とも考えられています。これらも水にゆかりが深い地名です。

 【姥島】は洪水のときに流れ着いた「姥の像」が祀られたことに由来します。

参考文献
 鎗水柏翠『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)
 『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)
 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)
 柳田國男『地名の研究(講談社学術文庫)』講談社(2015)
 黒田祐一『地名で知る自然』小峰書店(2011)

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