水海(古河市総和地区)(2016 Facebook記事を修正)

 水海(みずうみ)は、戦国時代からの地名で、『角川日本地名大辞典』によれば、「湖沼等に囲まれた水辺水郷の地」に由来。戦国時代には、古河公方家の宿老・簗田氏の居城・水海城がありました。

 簗田氏は関宿城が有名ですが、もとからの拠点はこの水海でした。足利成氏が古河に来て古河公方になった享徳4年(1455)直後、簗田氏は水上交通支配の新たな拠点として、関宿城を整備。そして天正2年(1574)、小田原北条氏に敗れて関宿を失い、ふたたび水海が簗田氏の本拠地に。このときには新しい水海城が築かれ、新旧2つの城が並んでいたようです。
 その後、小田原北条氏滅亡後に簗田氏は水海を離れ、城も廃城となりました。現在城跡は消滅しています。

 地名や史料から内山俊身先生が、中世水海の姿を再現しています。(『総和町史 通史編 原始・古代・中世』)
 水海南部の小字名【内城(うちしろ)】・【蔵屋敷(くらやしき)】は、城の存在を示唆します。さらに江戸時代の史料にも、字名「御城」・「御城横手」が見られ、内城の西には「馬通筋」があることから、「御城」「内城」「蔵屋敷」という三つの曲輪から構成され、「内城」の西側に大手口が開かれた構造の水海城が推定されました。

 寺院の記録からは、城の西側「柳原」と俗称される【蔵屋敷】から【八幡道東(はちまんみちひがし)】に、正蔵寺・吉祥寺・実相寺・普舜院が集中したことが分かります。 近くには「弘法河岸」という字名もあり、水海城とその西側にまたがる「港湾都市」・水海が再現できます。
 しかし天正18年(1590)、小田原合戦の際に、この町は豊臣秀吉により焼き払われました。寺院はのちに内水海で再建されます。

 内水海は江戸時代に「内城分」とも呼ばれました。小字名【神明耕地(しんめいこうち)】は、「城の内」とも呼ばれます。水海小学校の南にある神明神社のところです。隣の小字名は【堀ノ内(ほりのうち)】。これらの地名は内水海にも城があったことを示唆します。
 実際に、平成2~4年(1990~92)の発掘調査にて城郭跡を確認。堀跡の特徴から天正期(戦国時代末期)の新しい城と推定されます。これに対し、前述の水海南部の城は旧城となります。

 小字名【戎内(ゑびすうち)】・【如来堂(にょらいどう)】・【新善光(しんぜんこう)】が、この城跡の周囲にあります。町人の信仰と関わりが深かった「えびす堂」、善光寺式阿弥陀如来を安置する「新善光寺」があったことを示唆しており、新しい城は、町水海住民の寺院・堂舎を取り壊し、そのあとに建てられていると推定されました。

 町水海は、江戸時代には「町分」と呼ばれ、内城分と対になっていました。城と城下町の関係だった記憶が、地名に刻み込まれています。 小字名【宿裏】・【宿前】からは、城下の街道沿いに発展した宿町だったことが分かります。城に隣接し、道沿いの町屋が立ち並ぶ景観が想定されます。
 小田原合戦の際、こちらの城は残りましたが、簗田氏が水海を去ると放棄されたようです。

参考文献
 『総和町史 通史編 原始・古代・中世』
 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)
 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典 8 茨城県』角川書店(昭和58年)

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