(2015 Facebook記事を修正)
柳生(やぎゅう)と小野袋(おのぶくろ)について。
柳生は、『新編武蔵風土記稿』に「柳樹多く茂りたる原野なりしを、元亀年間開発して一村となせし故」とあり、柳樹が繁茂していたことが由来とされています。
これに対して郷土史研究家の鎗水氏は新説を提示。柳樹が繁茂した条件は小野袋や柏戸も同じで、この土地だけの特徴とはならない、地名の由来とするのは不自然として、「ヤ」は「八」(数が多い)、「ギュウ」は「キューブ」(狭い自然堤防等に囲まれた土地)の転訛とし、渡良瀬川・矢田川・合ノ川等が乱流して作った自然堤防上の開発地を意味するとしました。
小野袋の「フクロ」は、伊賀袋と同様に、「水流が屈曲して作られた平地」の意味。河川改修工事の前は、ここもフクロと呼ぶにふさわしい地形でした。「小野」については、一般的には柳田国男氏の説くように、「ノ」は山の裾野の緩斜地で、山深く開発が困難な大野に対して、開発しやすい小野は日本各地に見られる地名となったそうです。 ただし、北川辺の地勢からは、ややピンと来ないような気もします。
ちなみに東武日光線の柳生駅の住所は小野袋です。ここはちょうど境界線あたりで、少し複雑です。
小字名
【久保山(くぼやま)】のクボは、湿地や窪地の意味。ヤマはここの地形から「山」ではなく、谷間・野間・地表面の盛り上がったところ(自然堤防)という意味と考えられます。
【小屋口(こやぐち)】の小屋は、柳田国男の説では、屋形・殿の対義語で、領民の住む小屋という意味。この土地には、麦倉の中耕地にある倚井陣屋に対する小屋があり、その出入口に相当するなどと推定されていますが、まだよく分かっていません。
【田切元(たぎりもと)】の「タギリ」は「激り」の意味で、水流が激しいところ。田切元は氾濫時の破堤箇所を表すことが多いようです。
【庚塚(かのえづか)】は、鎗水氏は「カノー」(加納・嘉納・金生・賀名生)と、耕地の単位面積(五畝)の「塚」との組み合わせとし、合ノ川・渡良瀬川の後背地に開発された新田の意味と推定。 一方で、柳田国男氏は、武蔵に多い庚塚は「金鋳塚」の意味で、かつて製鉄が行われたことが起源という説を提唱しました。古代の渡良瀬川は砂鉄の供給源であったことを考えると、こちらも魅力的な仮説です。
【西浦(にしうら)】は、谷田川(合ノ川)にのぞむところの意味と考えられています。
【下宿】は、渡良瀬川・谷田川・合ノ川が相交錯して蛇行する激しい住地条件から生じた呼称と考えられています。
【仕出(しで)】は、渡良瀬川に谷田川と合ノ川が合流するところで、下宿に対する下手に位置することから、下手(シズ)が転訛した呼称と考えられています。あるいは、水勢を抑えるために繁茂させた柳の「シゲミ」から転訛したとも考えられます。
【藤畑(ふじばたけ)】は、植物の「藤」ではなく、渡良瀬川・谷田川・合ノ川が合流・蛇行してつくられた「淵(フチ)」にのぞむ土地に、畑が開発されたことが由来と考えられています。
参考文献
鎗水柏翠『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)
『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)
柳田國男『地名の研究(講談社学術文庫)』講談社(2015)