伊賀袋・駒場(加須市北川辺地域)(2015 Facebook記事を修正)

 北川辺地域から、伊賀袋(いがふくろ)と駒場(こまば)を紹介。
 伊賀袋は、かつては渡良瀬川左岸(東岸)にあり、いまの古河市と地続きでした。しかし、明治末に始まった河川改修工事により、西側に蛇行していた流路が直線に。 そのためこの一帯は川の右岸・古河の対岸になりました。昭和5年(1930)には正式に当時の川辺村に編入されます。昔の流路の名残が旧川・ふるさと公園です。
 新田氏の一族の江田伊賀守政氏は、延元元年足利氏との戦に敗れ、この地に隠れ住んだと伝えられています。 袋と呼ばれていた地が、江田氏の受領名から伊賀袋と呼ばれるようになったそうです。また、フクロは水流が屈曲して作られた平地のことです。

伊賀袋の小字名
【立崎(たつざき)】は、いまの伊賀袋北部・渡良瀬川近く。なお対岸の古河市にも立崎があります。まさに川に分断された形です。この地名は柳田国男氏の解釈によれば「低地にのぞんだ丘陵の端で、城砦の適地になった場合が多い」。 事実もその通りで、ここは古河城があった場所でした。 また、崎は海岸の地名ですが、古代には奥東京湾に面していた名残と考えられています。
【芝原(しばはら)】は、伊賀袋の南西部。高燥な草原を示す地名です。
【吉原(よしはら)】は、伊賀袋の東部。ヨシは葦・芦・葭であり、渡良瀬川の後背湿地に繁茂している様子から生じた地名でしょう。
【下窪(しもくぼ)】は、伊賀袋の南東部。クボは低湿地の意味。渡良瀬川の後背湿地による地名と考えられています。

 駒場は、自然堤防上に馬の牧場があったことが起源と考えられますが、確かなことは分かりません。『新編武蔵風土記稿』には、「三軒家」と記されています。

参考
 『古河市史 通史編』古河市(昭和63年)
 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)
 『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)

地図

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