(2015 Facebook記事を修正)
「友沼」(ともぬま)は野木町の日光街道(現在の国道4号線)沿いにあり、南は大字野木、北は小山市に接します。地名のもとは「トメヌマ」、水の流れが止まった・淀んだ沼の意味と考えられているようです。「トメ」を「トモ」にすると、泊(とまり)すなわち舟の停泊地の意味になりますが、地形から推定すると可能性が小さいそうです。
友沼の小字
まずは現在の思川の東岸:
日光街道沿いとその西側について、最初は【新城(しんじろ)】から。ここの南西は逆川、北西は思川の河畔。 逆川は松原大橋の北、近くある小さな川です。さらにその北には、友沼城あるいは逆川城とも呼ばれる中世の城がありました。『日光道中略記』に「小山氏の臣、在城せし跡なりと云い伝ふ」とあり、小山城の南方を守る砦だったようです。残念ながら、遺構は失われており、地名だけが城跡のなごりです。
【牧野地(まきのぢ)】は、新城の南西・逆川対岸。
【台林(だいばやし)】は牧野地の南西で、昔は古河藩の御用林がありました。ここも思川沿いです。
【松原(まつばら)】は、台林・牧野地から南東・街道周辺とその東・高良神社までの地域。街道沿いには松が植えられていました。
【南(みなみ)】は台林の南です。
【宿通(しゅくどおり)】は、新城北隣の街道沿いの地域。
【西浦(にしうら)】は、宿通の西で、思川に面した地域。
【羽毛田(はけた)】は宿通の北にあり友沼の北端。「ハケ」は崖の意味。崖地の下に水田がある景観が想定されます。
街道の東に目を転じると、【大境(おおさかい)】は、羽毛田の東隣・同じく友沼の北端。谷状の湿原があり、東隣の潤島との境界となりました。
その南は【塚田(つかだ)】。「塚」は通常は古墳や小丘の意味ですが、ここでは砂州を意味する「スカ」が転じたと考えられます。
さらに南の【牛馬(ごめ)】は、カモメの意味だそうです。海が関東平野の奥まで入り込んでいた古代のなごりでしょうか。
その南は【久保田(くぼた)】。もとの字は窪田で低地の意味。
久保田の西・街道に近いところが【轟(とどろき)】。轟の西は前述の新城で、逆川はこの両地域を西に流れます。
【卯の木(うのき)】は、久保田の南、前述の小字・南からもさらに南で、野木第二中学校の北東に広がる地域。「ウノキ」は大きい野の意味。この地域の北西にある日光街道を起点とし、南東方向に伸びた舌状台地の上でした。
次に現在の思川の西岸:
昔はここも思川の東でした。近代の河川改修工事により、大きく屈曲していた思川を直線にした結果、今の流路となっています。
【川岸(かし)】は、友沼の北端。いまの友沼の地図では飛地のように見える地域です。今と昔の流路の分岐点で、ここから下流は、思川流路が大きく変貌しています。
【角新田(ますしんでん)】は川岸の南西。新田は江戸時代に開拓された土地です。
【本新田(もとしんでん)】は角新田の南西。角新田に先だって拓かれた新田と思われます。
【下影(しもかげ)】は、本新田からは思川下流にある地域。
参考
『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年
『野木町史 歴史編』野木町(平成元年)