野渡(野木町)(2015 Facebook記事を修正)

「野渡」(のわた)は野木町の南西端で、西は思川、南と東は古河市に接する地域です。

 野渡の由来については、野木端説・野木渡説・野木渡部説・野畑説があります。野木端は野木の端の意味。野木渡は古河宿から野木宿へ渡るところ。野木渡部は、古代に渡船をなりわいとしていた人々を「渡部」と称し、その渡部が居宅を構えたことから。野畑は早くから開発され畑地となっていたことから。どれが正しいかは不明です。

野渡の小字
【古河境(こがさかい)】は、文字通り、野渡と古河の境界。ここは川沿いの雀神社北方から東に伸びた谷状の湿地帯で、本成寺の台地北縁を経て、日光街道にまでつながっていました。急峻な崖がつくる景観は、まさに境界と呼ぶにふさわしいもの。近くで貝塚が出土しており、古東京湾最奥部のひとつでした。
【中の沖(なかのおき)】は、古河境の北東、日光街道近く。
【狐塚(きつねづか)】も古河境北側ですが、台地となっていたところで、かつては古墳があり、墳頂は稲荷神社でした。
【中島(なかしま)】は、狐塚の西にあるひときわ高い島状の台地。現在の第五小学校の北西にある小高い丘が相当します。
【神山(かみやま)】は、熊野神社とその周辺。熊野神社は大宝3年(703)3月の創建、紀州熊野郷からの移住者が故郷の熊野神社を分霊、お祀りしたことが始まりと伝わります。
【寺山(てらやま)】は、満福寺とその周辺で、神山の西隣りです。昔の思川の東岸でした。『古河志』には、満福寺創建時にここにあった古い寺を他に移した、とあります。
寺山の南には【上宿(かみじゅく)】と【下宿】。その南には【細谷(ほそや)】。細谷の東側には、古河境の低湿地から分岐して北に延びる細い谷がありました。
細谷の南は【蔵の下(くらのした)】。蔵の下の南は、雀神社の北側にあたり、江戸時代に野渡御蔵と呼ばれる古河藩の米蔵がありました。白壁土蔵造りで17棟あったそうです。
【鶴巻(つるまき)】は、前述の狐塚の北隣り、やや低くなっている地域。マキは濁流の意味。
【坪内(つぼうち)】は、鶴巻の北で前述の細谷の東。鶴巻よりやや高くなっている地域。渕の縁(ふち)が転訛したもので、渕に臨むところの意味と考えられています。

参考
 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)
 千賀覚次『古河の史蹟と古河藩のおもかげ』古河市(昭和30年)

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