野木町(2015 Facebook記事を修正)

 野木町は古河に隣接し、戦国時代には古河公方御料所・公方領国、江戸時代には古河藩領でした。古河の歴史を知るには、この地域も欠かせません。
 野木という地名は「ノゲ」さらには「ヌケ」が転訛したと考えられています。「ヌケ」は崖地の意味で、実際に思川に面する西側は崖地になっています。野が灌木におおわれていたとの説もあるようです。また、「ノゲ」は栃木県の古代名の毛野国(けのくに)が変化したという説もあります。

野木の小字
【台手箱/台手筥/大手箱(だいてばこ)】は、野木神社南西の台地、旧下野煉瓦製造の工場(煉瓦窯)があったところ。ここからは多数の土師器が出土しました。「台手筥」は五領式の台付土器です。野木神社は当初ここにあったとも伝わります。
【御休塚(おやすみづか)】は、野木神社からは南西・台手箱の手前にある畑地で、坂上田村麻呂が東北遠征の帰途に輿を止めて休息したと伝わります。ここでも多数の土師器が出土し、古墳があったと考えられています。
【宮本(みやもと)】は野木神社の社殿があるところ。
【宮裏(みやうら)】は神社西側の台地で、現在の杏林製薬です。
【御手洗(みたらし)】は神社の南西にある谷。参拝者が身を清めた場所かもしれません。
【別所(べっしょ)】は宮本の北にあり、台手箱から社殿が移転したとき、神主の住居が移ってきました。
【馬場西(ばばにし)】は、日光街道まで伸びた参道とその周辺。もとは馬場でしたが、江戸時代に街道が整備されたとき、参道になりました。
【馬場東】はこの参道の東側です。
【堀切(ほりきり)】は神社の東南にある低地で、ここを埋め立てて街道が設けられました。
【御櫛内(おくしない)】は、参道の南西側にあり、マーケットシティ古河と挟まれた地域。
【身隠塚(みかくしづか)】は、参道入口から街道で隔てられた東側、旧日光街道と国道4号との三叉路付近です。 昔はここに円墳があり、その上は稲荷神社でした。葬式の列が野木神社前を通るとき、神社から見えないように、この塚の東側を迂回するきまりでした。
【宿(しゅく)】は、日光街道沿いの野木神社参道入口から野木第二中学校付近まで。江戸時代に宿場があったところで、南半分は元野木、北半分は新野木とも呼ばれていたようです。
【元宿(もとじゅく)】は宿よりさらに北側ですが、由来は異なり、旧鎌倉街道沿いにあった古くからの居住地です。旧鎌倉街道は日光街道より古い中世の道です。

宿場の西側では、
【清水谷(しみずや)】は、野木神社の北にある低地、今の水辺の楽校あたり。
【稲荷谷(いなりや)】清水谷北の低地で、この二つの低地にはさまれた舌状台地が野木城と言い伝わります。
【羽毛田(はけた)】は、野木宿北端の西隣り。
【坂下(さかした)】は、羽毛田の南です。
宿場の北側には、
【西上谷(にしかみや)】、【小金橋(こがねばし)】、【向島(むこうじま)】、【精進場(しょうじんば)】、【卯の木】。このうち小金橋は日光街道にかけられた橋にちなみます。
宿場の東側には、
【台(だい)】、【クセ】、【韮窪(にらくぼ)】、【合の谷(あいのや)】、【捨松(すてまつ)】、【三軒在家(さんげんざいや)】という小字名がみられます。

参考
 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)
 『野木町史 歴史編』野木町(平成元年)

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