牧野地(2015 Facebook記事を修正)

 牧野地(まきのじ)は古河公方公園の北西、渡良瀬川との間にある地域。牧野地村は明治時代に周辺と合併して新郷村大字牧野地となる。新郷村は後に古河市と合併して古河市牧野地となった。

 牧野地の地名は、江戸時代の慶安期(1648-1651)に牧之内から槙野地に改めたもの(『中葛飾郡村志』)とされています。一方で、江戸時代後期の『古河志』(1830)・『許我志』(1808)には牧野地村と紹介されています。
 「牧(まき)」は、馬を放し飼いにする土地の意味。ここに牧があったという記録は見つかりませんが、周囲を沼や湿地に囲まれた土地なので、牧があっても不思議ではありません。

牧野地の小字
【カノイ塚】は、古河支所スペースU裏から国道354号(ダンプ道路)周辺。武蔵国に多く見られる地名で、柳田国男『地名の研究』によれば、庚申塚があった、あるいは、金鋳(かねい)塚があったことが由来という二説があるそうですが、川戸台の製鉄遺跡が近いことを考えると、金鋳塚説に魅力を感じます。
【鳳桐寺前】は、字の通り鳳桐寺の前(東側)の台地。鳳桐寺は古河公方ゆかりの寺です。
【内道附】は鳳桐寺とその周辺。
【ラントウ裏】は、「鳳桐寺前」の東に隣接する台地。 干拓前の御所沼はこの台地の下にまで広がっていました。
【ラントウ前】は「鳳桐寺前」の南側。ラントウは「卵塔」で、丸みを帯びた石塔(無縫塔)。僧侶の墓として用いられます。この地名はここにある墓地に由来します。
【御所塚東】は古河公方公園から西に少し離れた「松月院御所塚」の周辺(東側)。
【松月院東】は鳳桐寺の北隣で、いまは新三国橋につながる国道354号(バイパス)がある一帯。
松月院前】【松月院裏】は台地西側裾部の低くなった一帯。松月院は明治初期に廃寺になり、大正時代の渡良瀬川河川改修工事の際の土取り場となり、いまは正確な位置が分かりません。古河市の史跡となっている「松月院御所塚」は、松月院があった場所ではありません。
【川戸台(かわとだい)】は、古河公方公園の西側、「御所塚東」の東隣。牧野地台地の南縁にあたります。古代の製鉄遺跡が発見されたことで有名。「川戸」は川渡や川の合流点に多い地名ですが、渡良瀬川から少し離れているので、地名の由来については要検討。

その他にも、
【長谷向台】、【香取東】、【香取北】、【十念寺下】、【神明東】は、寺社名が由来。
【組向(くみむこう)】は、今の古河支所南東部で、足軽屋敷(鴻巣組)が近くにあったことから。
【往還南】、【往還西】、【往還北】は、鳳桐寺~御所塚の屈曲した古道から。
【橋戸(はしど)】は古河公方公園敷地の北西部で、昔の御所沼がここまで広がっていたことから、橋がかかっていたと推定。
【虎右衛門(とらえもん・こえもん)裏】、【虎右衛門前】は、村役人クラスの人名に由来するようです。
【押切(おしきり)】と【廿割囲内(にじゅうわりかこいうち)】は御所塚の南側・堤防の手前。
【新田坪(しんでんつぼ)】は、古河公方公園と御所塚の間にある小字のひとつです。

参考
 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)

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