鴻巣(2015 Facebook記事を修正)

 鴻巣(こうのす)は古河公方公園付近から三桜工業・古河第二中学校付近までの地域。鴻巣村が明治時代に周辺と合併して新郷村大字鴻巣となり、新郷村は後に古河市と合併して古河市鴻巣となった。

鴻巣の起源
 戦国時代に書かれたとされる『鎌倉大草紙』に「成氏は総州葛飾郡古河縣こうのすと云所に屋形を立」とあるので、かなり古い地名。「高の洲」や「江の洲」が転化したとする説がありますが不明です。

鴻巣の小字
【城の地(しろのち)・古城跡】は古河公方の館があったところ、その東の【宿(しゅく)】と【出口】は、城館に付随する名前です。さらにその東には【古街道東(ふるかいどうひがし)】があり、古河公方館の東には南北に延びた古道があったことが分かります。
【徳星寺下・徳星寺山・徳星寺前】は宿の北隣。いまは横山町の徳星寺も、かつては鴻巣にありました。
【徳源院・徳源院下】は、第五代古河公方・足利義氏の娘、氏姫の菩提寺があったところ。いまは古河公方公園の敷地内です。
【中山】は、徳源院跡と公方館跡の間にある台地。ここも古河公方公園の中。芝生の広場と遊具・水遊びができる小川のあたりです。ここには徳星寺と同様に、公方ゆかりの寺院・竜樹院がありました。
【元屋敷(もとやしき)】は、国道354号線が三国橋方面と新三国橋方面とに分岐する交差点の南側。かつて足軽屋敷があったと考えられています。
【ザラメキ】は三桜工業などがある一帯。水音が起源。湧水が豊富だったことが伺えます。
【茶屋下】は通称公方通りの古河総合病院入口近くの交差点付近。昔からここは南北に通じる「ふる街道」と野道の交差点で、通行人の休憩所が設けられました。

その他にも、
【大谷(おおや)】は坂間村との境界にあった大きな谷。
【築道(つきみち)】は御所沼の一部を埋め立てた道。
【八反田】は一町に満たない小さな水田。
【源兵衛坂】は坂にあった関所の番人名から。
【原境(はらさかい)】は原村との境界。
【腰巻(こしまき)】のマキは牧で、馬を飼っていた「腰」(半円状の地形)。
【北の内】は未開発だった舌状台地、いまもある香取神社はこの地域の西南端でした。
【新山(あらやま)】のヤマは「谷間」、御所沼の干拓により田畑になったところ。
【巣の崎】は「洲崎」の意味で、流入した向堀川の水が砂州を形成。
【古道東(ふるみちひがし)】は古い野道があったことから。
【臼繰谷(うすくりやつ)】のウスはウチやアサが転じたもの、クリは浅瀬の意味。
【釜田(かまた)】は蒲(ガマ)が自生した低湿地。
【八幡前】と【虚空蔵東】は寺社から。
【二入(にいり)】は、東北方向に延びた昔の御所沼の一部が先端で二股になっていたところ。

城下の町名と比べると、地形にもとづく地名が多いようです。

参考
 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)
 鑓水柏翠「古河とその周辺の古代地名」『古河市史研究』No.8、古河市史編さん委員会(1983)

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