(2015 Facebook記事を修正)
明治期以降の比較的新しい町名のうち、現在は公式に使用されなくなったものを紹介します。
七軒町(しちけんちょう)は現在の本町二丁目大聖院の向かい側付近。
青物横丁の東側の町屋です。元々は大聖院前と呼ばれ、新町に属していました。現在の本町二丁目・四丁目の一部で、、県道250号古河総和線(通称七軒町通り)沿いの町です。明治以降に人が増えましたが、江戸時代には家が少なく、七軒しかなかったことに由来すると云われています。
表新町・裏新町(おもてしんちょう、うらしんちょう)
廃藩置県により、古河に戻って来た江戸詰めの藩士のために、明治期に新しく作られた屋敷町です。 日光街道の東側にあった新町(しんまち)と混同しないように、しんちょうと呼ばれました。表記も新町ではなく「新丁」とする場合もあったようです。現在の宮前町と横山町三丁目の一部に相当します。鳥見町、すなわち横山町から雀神社に向かう通りの北側に隣接してあり、南側を表新町、北側を裏新町と呼びました。
三丁目・四丁目・五丁目(さんちょうめ、よんちょうめ、ごちょうめ)
昭和12年(1937年)、二丁目通りと鍛冶町通りの交差点から、今の松並町に抜ける国道(通称三丁目通り)が作られました。神宮寺と尊勝院の間を通って、北に延びる道路です。この道路の両側につくられた町なので、一丁目・二丁目の延長として、名付けられたものでしょう。現在の本町一丁目、横山町一丁目・二丁目・三丁目の一部に相当します。
参考
『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)
初出 篠原静男「市内町名由来記」『古河市史料集第一集』