投稿2016/6/5
13 下間頼廉と磯部勝願寺
古河市旧総和町の磯部にある勝願寺。
こちらの市指定文化財「勝願寺所蔵中世関連史資料」には
#下間頼廉 が勝願寺に出した檄文「下間頼廉奉本願寺御印書」も残っています。
1570~1580年の大坂石山合戦において本願寺側の元帥として全軍の指揮をして信長を苦しめた武将(坊官)。
信長の野望シリーズをプレイしたことのある人ならば恐らく知っている本願寺家の下間頼廉。
「鬼島津」島津義弘に匹敵する能力を持つ頼廉に散々手を焼いたゲーマーも多いのでは!!
石山合戦後、講和をした本願寺顕如と徹底抗戦を訴える長男教如での親子喧嘩が起こり、本願寺は真っ二つに割れます。現在の西本願寺と東本願寺のはしりです。
そんな石山合戦直後1581年、顕如側近であった下間頼廉が顕如派の一大拠点であった勝願寺に出したのが「下間頼廉奉本願寺御印書」です。
勝願寺門下の信州・越後の寺院が顕如派ではなく、教如派になろうとしている事について「言語同断である」、門下全て顕如派になるよう説得すべしと伝えているお手紙です。
磯部は今、のどかな農村風景ですが、戦国時代は梁田氏重臣岩瀬氏が居を構えたり、梁田氏菩提寺安禅寺があったり、あの「下間頼廉」から指示書を賜る勝願寺があったりと、総和の文化・政治の中心地のひとつであったことが伺われます。
位置情報(GoogleMap)
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%8B%9D%E9%A1%98%E5%AF%BA/@36.1651342,139.7350163,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x6018b4e6b4ec1953:0xc31abe6512b99a4d!8m2!3d36.1651342!4d139.737205
参考文献
・コーエーテクモゲームス出版部(2013)信長の野望創造武将FILE
・総和町教育委員会(2003)そうわの文化財9号
投稿2016/6/4
12 磯部館跡(まちかどの歴史点描
国道354号の旧総和町、磯部バス停より100mほど西側に、中世の方形館跡が見受けられます。
「磯部館跡」や「岩瀬館跡」と呼ばれたりするこの城砦跡。
言い伝えによると、水海城の梁田氏の重臣岩瀬豊前守の館であったと言われています。
土塁と堀が非常に良い保存状態で、堀の深さは1.5mほど、堀底からの土塁比高は3-4mに及ぶ、堅牢な中世武士の館の特徴をよく残す実戦的な防御施設。特に直角に曲がる堀は素晴らしいです。
また鎌倉街道沿いに立地することからも鎌倉時代から室町時代の重要拠点であったことは間違い無いと思われます。
これだけの良好な遺構が総和町指定文化財になっていない事が不思議でなりません。
※完全私有地ですので撮影・探訪の際は地主の方に許可を頂くなど、十分ご注意ください。
位置情報(Google Map)
https://www.google.co.jp/maps/@36.1684613,139.7388266,19.75z
(な)
参考文献
余呉くんのホームページ
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/6650/souwa.htm
投稿2016/6/4
11 日光街道古河宿道標
今回は有名な日光街道古河宿道標。二丁目通りと鍛冶町通りの交差点に、南面して建てられています。文久元年(1861)の常夜灯形式の道標で、古河市指定有形民俗文化財です。
かつては西に100mほど離れた位置にありましたが、平成23年(2011)秋に突然撤去され、平成26年秋に現在地へ移設。江戸期設置当初の位置に戻って来たことになります。
移設前は曲手通りの杉村整形病院、今の介護付老人ホーム「桃の里・古河」から道路を挟んだ正面にあり、向きも逆に北面していました。
子供のころ、この道票を見て「なぜ左が日光なのだろう」と不思議に思ったことを覚えています。本来の位置ではないことを知ったのは、かなり後になってからでした。
現在の位置と向きなら、「左日光」は納得できます。ちなみに昔の日光街道はクランク状になっていて、日光方面はこの交差点から西に折れ曲がっていました。いまは十字路ですが、道票の後ろ・北に延びる道路は、昭和8年に作られたもので、かつては丁字路だったのです。
この道票をよく眺めると、昔の道路の配置もイメージできますね。
位置情報(Google Map)
https://goo.gl/maps/cQrS1j3V7Ro
36°11'47.0"N 139°42'21.5"E
参考文献
『古河市の文化財』古河市(平成5年)
投稿2016/5/20
10 谷中湖から望む古河、谷中村と古河の歴史
谷中湖から見た古河市街地の風景です。古河駅周辺の高層マンションがはっきりと見えますね。
良く知られている通り、古河の旧市街地は、渡良瀬川沿いの「川辺のまち」です。しかし、こうして見ると「湖畔のまち」。ちょっとした発見です。
ところで、この谷中湖の場所は、百数十年前まで、たくさんの人が暮らす村でした。1906年(明治39)に廃村になった谷中村、これに反対し続けた田中正造の話は有名です。
谷中村に住んでいた人たちは、その後、どうしたのでしょうか? 移転先の集計があります。
古河市 120戸
藤岡町 90戸
野木町 66戸
那須郡・塩谷郡 46戸
板倉町(海老瀬) 33戸
北川辺町 18戸
その他、小山・東京・壬生・北海道など。各々数戸から十数戸。
最大の移転先は、実は古河でした。江戸期の谷中村は古河藩に属し、名実ともに古河のまちと生活圏を共にしていました。
谷中村の歴史は、古河にとっても、自分自身の歴史です。
田中正造は、政治活動で上京する際、古河駅を利用することを常とし、古河町内にも多くの支援者がいました。
明治40年、谷中村の強制立ち退きが始まると、栃木県庁は谷中村打ち壊しの人夫を古河で募集しました。このとき、当時の古河町長・鷹見銈吾は町民に呼びかけます。「谷中村ブチコワシの人夫に雇わるるなとは云わず、されどこれが募集に応ずる人には立ち退き料を与うる故、古河町より他に移転して貰わん」。
古河では募集に応じる人はいなかったそうです。
ラムサール条約に登録された渡良瀬遊水地は、今後ますます注目されるでしょう。しかし、なぜ人が住まない広大な湿地が、ここに残されているのでしょうか? そして、なぜ遊水地はここに造られたのでしょうか?
過去を知ることで、現在、私たちの目の前に広がる何気ない風景に、意味があることに気づきます。それは未来を描くためにも大切なこと。歴史を学ぶとは、そんな気づきの積み重ね、かもしれませんね。
位置情報(Google Map)
https://goo.gl/maps/ynvDdGmCZnw
36°12'51.2"N 139°40'25.2"E
参考文献
『古河市史 通史編』古河市(昭和63年)
久野 俊彦「谷中村移転村民の伝承―復元・谷中村民俗誌―」『古河歴史博物館紀要 泉石』第7号(2004年)
投稿2016/5/8
09 間中橋と吉田用水
先日(4/1)、古河市の旧地名・その30として、間中橋を紹介しました。地名のもとになった「間中橋」は古河市・八千代町粕礼の境界にあり、吉田用水に架かっているそうです。
この間中橋を探しに行きました。国道125号の小さな橋のようです。しかし、橋の名前の標識がどこにも見当たりませんね。粕礼との間の橋はここだけなので、多分、間違いないとは思いますが。国道を車で走るときは、気をつけないと見落としそうです。
間中橋は、江戸期の享保年間(1716~1735)、飯沼が干拓されたときに架けられました。当時の将軍・徳川吉宗は新田開発を奨励(享保の改革)、飯沼の干拓が始まります。この沼は、古河市・八千代町・坂東市・常総市にまたがり、広大で南北に細長く、北は古河市尾崎付近、南は坂東市大口付近に相当します。
干拓工事は享保10年(1725)に始まり、2年後に完了。新しい農地のうち、この付近にあった旧「長左衛門新田」は、野州間中村の名主・福田長左衛門が購入したところです。間中村は現在の小山市間中。「間中橋」はこの間中村から名づけられました。
橋が架かる吉田用水も干拓と同時に作られました。実は300年もの歴史がある古い水路です。農地が生まれただけでは農作はできません。大量の水が必要です。吉田用水は享保10年7月に通水。下野国河内郡吉田村(下野市)で鬼怒川から取水し、結城を経由して、干拓地に農業用水を供給しました。
新しい土地での農作は楽ではなかったそうです。水量が十分ではなく、村々の間に水争いが起きたり、周囲より低地で排水が悪く、水害に苦しむことも。その後も改良工事が繰り返され、昭和期まで続きました。
車で移動することが当たり前になった現代では、見落としそうな目立たない水路ですが、吉田用水はこの地域の農業の歴史を物語っています。
位置情報(Google Map)
https://goo.gl/maps/ZHuEYgW7duR2
36°11'52.2"N 139°51'47.4"E
(て)
参考文献
『三和町史 通史編 原始・古代・中世』三和町(平成8年)
『八千代町史 通史編(第二版)』八千代町(昭和63年)
八千代町歴史民俗博物館編『吉田用水のあゆみ―苦闘の三百年―』八千代町(2015年)
投稿2016/4/21
08 大欅と小蓋宮
古河駅から北東に300mほど離れたところに、小蓋宮(こぶたのみや)と御神木の大欅(おおけやき)があります。ここは簡易裁判所の隣で、住宅街の一角です。
近くに来ると、まず目につくのは大きな欅の木。欅(ケヤキ)は「古河市の木」に指定されており、ここの欅も市指定文化財(天然記念物)で、まちを代表する名木のひとつ。境内に2本あった欅のうち、南側の一本は、昭和53年に枯れて伐採されたそうですが、平成2年、その跡に新しい欅の苗木が植えられました。
昔から今に至るまで、人々に大切にされ続けてきたことが分かります。
大欅の足元には、小蓋宮の小さな祠が南面しています。創建年代は不明ですが、大欅の樹齢が600年と推定されており、目安になるかも。
江戸時代に書かれた『古河志』にも「鍛冶町 町末畑中小祠 小蓋宮」として紹介。昔からこの付近では畑作の害になる雹(ひょう)除祈祷が行われ、これを「畑に蓋をする」と言ったそうです。そこで、この祠は雹害から畑を護る「小蓋宮」と呼ばれました。
そう言えば、ここの祭神はお稲荷様でした。五穀以下、全ての食物の神様です。その意味でも、昔からこの地域の畑作を護ってきた小祠でした。
現代では、周囲は住宅街に変わりましたが、雹は相変わらず困りもの。今でもこの地域を守り続けているのでしょう。
位置情報(Google Map)
https://goo.gl/maps/Si5xpPsHwGE2
36°11'45.1"N 139°42'48.3"E
参考文献
『古河市史 民俗編』古河市(昭和58年)
『古河市史 資料 別巻』「古河志」古河市(昭和48年)
『古河市の文化財』古河市(平成5年)
鎗水柏翠『古河通史下巻』「古河地方誌探訪」柏翠会(平成4年)
投稿2016/4/10
07 静町の石敢當
旧松原交番から北東へ延びる旧道を国道4号線のアンダーパスをくぐるまで道なりに進むとアンダーパスをくぐったところにある個人のお宅に石敢當があります。
石敢當(いしがんとう)は琉球特有の魔除けの石碑です。江戸時代、琉球文化と触れ合うことの多かった学者識者のお宅に残存していることが多いそうです。
ちなみにこのお宅のお名前は文化人に多いお名前。もしかしたらそうかもしれませんね…
また、野木宮の参道がこの旧道までつながっていたという伝承があるとともに、静町のこのあたりは足利成氏親衛隊『竜巻十騎』が住んでいた場所であると比定されています。
みなさんのご近所にも石敢当があったら是非教えてください。
情報ご提供いただいたY様、本当にありがとうございます。
石敢當の位置情報(Google Map)
https://www.google.co.jp/maps/place/36%C2%B012'31.9%22N+139%C2%B042'50.8%22E/@36.2088521,139.7135498,19z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x0:0x0
投稿2016/4/7
06 天神町と天満宮
横山町から雀神社へ続く参宮道路を歩いていくと、徳星寺前に天神町由来記という石碑があります。
元和五年(1619)、奥平忠昌が古河藩主になったとき、この一帯に町並みが形成されたこと、天満宮が祀られたため、天神町と名付けられたことなどが記されています。
また、江戸時代には石碑の近くに木戸があり、武家地と町人地の境界にもなっていました。
ここから南に伸びる町通りが天神町。古河で最大の繁華街だった横町の西隣にあり、近年まで多くの料理屋が軒を並べていました。いまでもその名残が感じられる界隈です。
石碑から南に200mほど歩くと天神町と杉並町・紺屋町の境界。ここで東に目を向けると、町名の由来となった天満宮が鎮座しています。
江戸時代、この一角には薬王山地福院という寺院がありました。天満宮は地福院の第六代住職・宥伝が創建したとも伝わります。地福院は天満宮の別当寺でした。この天満宮は一説では、土井家の家臣・日暮七郎左衛門の屋敷にあって、移転時に残されたともされ、日暮天神とも呼ばれました。
古河の昔話のひとつに、地福院の大狢(むじな)があります。寂しい雨の日の夜になると、この寺の竹林に住む大狢がお化けになって通行人を脅かしたというもの。当時はこの近辺にも狢が出そうな雰囲気が残っていたのでしょう。
明治初期には地福院も廃寺となり、尊勝院に吸収。いまは天満宮だけが当時の名残です。能書で有名な市川泰溜による安永八年(1779)の扁額があります。
参考文献
『古河市史 民俗編』古河市(昭和58年)
『古河市史 資料 別巻』「古河志」古河市(昭和48年)
石碑の位置情報(Google Map)
https://goo.gl/maps/e8mcBKTQUEo
36°11'56.7"N 139°42'13.4"E
投稿2016/4/3
05 雀神社から七ヶ原の桜並木
昔、雀神社北と本成寺西裏の間は、七ヶ原と呼ばれていました。通称「七ヶ原の桜並木」は第五小学校前にあり、毎年新しい入学生を温かく迎えています。
この桜は昭和27年(1952)、篠崎光一氏と数人の有志により植えられたものです。篠崎氏は「篠崎ポンプ製作所」を設立するなど、大正期から昭和初期の古河地域でさまざまな事業を展開していました。
今年の3月、桜の木が何本も切られていることに気が付きました。何か理由があったとは思いますが、この後はどうなるのでしょう。そのまま放置されるようだと、古河の諸先輩がつくりあげた風景も、次第に失われることに。。。
参考文献
『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)「郷土名木めぐり六〇撰」
投稿2016/3/24
04 桃まつりと土井利勝
いよいよ古河公方公園(古河総合公園)で桃まつりが始まりました。早くも花は見ごろを迎えているとのこと。ぜひお早めにおでかけください。
ここで知っておきたいのが、江戸時代の古河藩主・土井利勝(1573 - 1644)です。
ちなみに公園の名前は最近、「古河公方」を冠することになりましたが、戦国時代の古河公方と土井利勝は無関係。ここは古河公方だけではなく、様々な歴史が重層する公園でもあります。
土井利勝は、江戸時代初期の幕府大老でした。まだ成立したばかりの幕府を盤石にしようと心を砕き、さらに古河藩隆盛の基盤を固めた人です。
古河の桃林は、利勝が薪不足の対策として桃の植林を奨励したことが始まり、という話は、みなさん聞いたことがあると思います。これは享保12年(1727)に書かれた『落穂集』での逸話。実際に大正期の末までは、古河の鴻巣・長谷・牧野地・原に桃の老木があり、人々の目を楽しませていたそうです。残念ながら、この老木は病気のため全滅しましたが、昭和50年の総合公園造成時に再び植えられ、現在の古河に桃園が再現されました。
利勝には他にもエピソードがたくさんあります。代々の将軍、徳川家康、秀忠、家光に重用され、幕府の中で権勢をふるいましたが、あまりにも権力が集中したので、「利勝は家康の御落胤(隠し子)に違いない。だから家康に重用されたのだ」とも噂されました。
あるとき利勝は、家康に似ていると言われるのを嫌い、少しでも風貌を変えるため、髭を剃りました。(『土井家譜』)
しかもさらに話が広がって、事情を知らない周囲の武士たちは利勝をまねて、いっせいに髭を剃り落とした、それ以来、江戸の武士は髭を伸ばさなくなった、とも言われているようです。ここまで来ると真偽のほどは不明ですが、それだけ利勝の存在感が大きかったということでしょう。
桃の花を楽しむときには、ぜひ「土井利勝」も思い出してみてください。
【写真は ささき ゆういち さん 撮影】
参考文献
『古河市史 民俗編』古河市(昭和58年)
『歴史の散歩―鷹見泉石と古河藩―』「桃まつりと公方行列」古河市(平成8年)
鷹見安二郎『土井利勝―出自問題と事蹟―』古河市(昭和50年)
投稿2016/3/17
03 関戸の蕃山堤・蕃山溜
丘里工業団地の南側に、気をつけていないと見落としそうな小さな公園と池があります。江戸時代の陽明学者、熊沢蕃山ゆかりの史跡「伝蕃山堤」です。
古河市のホームページにも「蕃山溜」と紹介。しかし説明が簡単で、これだけでは実際に訪れるのは難しそう。現地に行っても、知っていないと、蕃山ゆかりの史跡とは気付きません。
ここでは少し詳しく見て行きましょう。
現在の丘里工業団地一帯は昔、雑木林でした。その南側は、林を水源とした湧水が集まり、沼沢地になっていたそうです。言い伝えによれば、熊沢蕃山はここに堤を築くことで、水を集めて溜池とし、さらに南側の水田に導水して、米の増産を計りました。明治期にはまだ、北側3か所から水が入り、南側3か所から水が出ていたようです。
大正末期に池が掘り下げられ、公園化事業も行われたため、様相が変わっていますが、溜池北側の一部に堤の痕跡があります。
場所は、古河駅から十間道路を東に 4.5 kmほど進んだ丘里工業団地・ヤマザキナビスコの工場近辺、道路の南側です。ヤマザキナビスコ寮やパチンコ・ビッグマーチの南裏になるので、直接は目に触れにくいところですが、河口歯科の看板を目印にして十間道路から南に入り、150mほど進むと、左手に蕃山堤・蕃山溜の公園入口が見えてきます。
参考文献
『総和町史 通史編 近世』総和町(平成17年)
『そうわの文化財』6号、総和町(平成9年)
投稿2016/3/9
02 立崎村の庚申塔
古河駅から南に800mほど、住宅地の小さな公園の一角に立派な庚申塔と十九夜塔が一基づつ並んでいます。庚申塔は男性の庚申信仰者、十九夜塔は女性の十九夜観音信仰者が建てたもの。どちらも生活に密着した信仰でした。
これらは昔、立崎村にありました。立崎は古河城があった場所。立崎村は城の南隣で、明治末から大正年間の渡良瀬川改修工事のときに、新しい河道になるため廃村とされ、村民は古河八幡町と隣の伊賀袋村に分かれて移転します。
立崎村には庚申塔が2基、十九夜塔が1基あったそうです。移転のとき、村民は庚申塔を1基づつ分け合い、八幡町には庚申塔と十九夜塔がそれぞれ1基引き取られました。
当初は八幡町の東北本線踏切近くの農道にありましたが、やがて周囲に家屋が立ち並ぶようになるとまた移転。現在地に落ち着きました。
庚申塔は天保九年(1838)の造立。青面金剛が腹部に竜頭を巻き、三尸を両足で踏みつけている姿が彫られています。この三尸(さんし)は人間の寿命を縮める虫です。基底部には庚申塔につきものの三猿。いわゆる「見ざる、言わざる、聞かざる」です。ここの三猿は真ん中の「言わざる」が扇を持っている姿が特徴的。「三九郎(さんくろ)さんの庚申塔」と呼ばれ、親しまれたそうです。
十九夜塔は天保十四年(1843)の造立です。
参考文献
田代房春・秋葉敏子『古河城下の石仏順礼』北下総文化調査会(昭和60年)
投稿2016/2/29
01 タブの木
古河駅西口からまっすぐ西へ350mほど歩いて行くと、ジョイパテオ。そして、その中庭にはタブの木が枝を広げています。
タブの木は温暖な地に分布するクスノキの一種。このあたりではあまり見かけません。
以前は、マスダの西側・坂になった道路の反対側にあったと言います。
今はジョイパテオの隣「グリーンミユキ」というマンションがあるところが、昔のスーパー・マスダ。さらにその昔は料亭「百尺楼」でした。
このタブの木は、白銀稲荷の傍らにあったご神木でした。まちの風景の移り変わりを、ここで静かに見つめ続けてきたことでしょう。
個人で管理されていましたが、維持が困難になっていたところ、昭和54年(1979)にジョイパテオが譲り受けました。
この植替が大仕事で、鉢付の大きさは四畳半にもおよび、吊り上げるときは 30T クレーンを使用。移動の際には、夜間に道路を封鎖し、一旦、大木化粧品店前まで運んでから左折、さらに本町二丁目交差点で左折、そしてもう一度左折して現在の位置へ。250m ほどの移動距離ですが、電線を気にしながらゆっくりと移動。夜11時から早朝4時までかかったそうです。
費用も相当のものだったと思います。それでも、このまちの先輩は、昔からの名木を大切にしてきたのでした。
参考文献
『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)
|