投稿2015/10/1
直木賞作家である歴史小説家・海音寺潮五郎の『かぶき大名』(2003年文春文庫)という歴史小説傑作集の中に『乞食大名』という目次があります。約30ページ程度ですが、今日はこの本の紹介です。
『乞食大名』と聞いてどんなことを想像するでしょうか?昔大名だった人物が落ちぶれて乞食になりさがった....当たらずも遠からずでしょうか。ただそれだけでは終わらない、家臣思いの大名の良いお話です。
この小説の主人公は鮭延秀綱(さけのべひでつな)と言います。この人物自体古河市ではあまり有名ではありませんが、古河市にはなかなか関係がある人物です。
秀綱は奥州の雄・最上家に最上義光の代から仕え、家親・義俊と仕えます。義俊の代に義俊の政の失敗から、義俊に代わり最上義光の四男・山野辺義忠を推す動きがあり(最上騒動)、これにより最上家は徳川幕府に改易されてしまいます。この時、鮭延秀綱は最上家から1万5千石の禄高を受けており、石高としては大名並みでした。騒動の首謀者とされた山野辺義忠、小国日向、鮭延秀綱は諸藩にお預けの身となり、秀綱は大老の土井利勝のもとへ預けられます。そこから数年が経過し、秀綱は赦免され、土井利勝から5千石で士官の誘いを受けるのですが、昔の石高以上でないと士官は断ると意地になり、山形からついて来た20名の家臣とその家族とともに江戸へ出て乞食となります。この20名の家臣は秀綱が無禄であるにもかかわらず、自分達が秀綱を養うと秀綱を慕ってついて来た家臣達でした。
乞食をして数年が経ち、秀綱には士官の話が何件も来るのの、秀綱の要望をみたす口はありませんでした。そうこうしているうちに、お家騒動の際に秀綱と一緒にお預けの身となった小国日向の息子が事件を起こしてしまい、晒し首の刑になります。この事件をきっかけに、秀綱は考えを改め、土井利勝に5千石で士官することとなります。
土井利勝に士官した後には、秀綱は家臣20人に自分の家禄を250石ずつ与えることを許してもらい、1646年84歳で亡くなるまで一日おきに家臣の家に寝泊まりします。
家臣20人は鮭延越前秀綱の死後、亡主の冥福を祈るためにお寺を建立します。そのお寺が鮭延寺(けいえんじ)、古河の名刹として今も残っています。
という鮭延秀綱のお話でした。上記の話はあくまで小説なので詳細についてはここでは触れませんが、秀綱は最上騒動の後、5千石で土井利勝に仕え、自分の家禄を20名の家臣に分けたのは史実です。家臣思いの武将だったんですね。
ちなみに鮭延秀綱がなぜ最上家で1万5千石、土井家で5千石を受けていたのか気になる点と思いますが、折を見て鮭延秀綱について書きたいと思います。
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