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かつて古河公方が拠り東都と謳われた古都・古河。
この歴史あふれる古河をもっともっと楽しんじゃおう!!という団体です。

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古河史楽会
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古河公方とは・その2《京と鎌倉の対立・古河公方登場前夜》

投稿2015/3/6


古河公方が生まれたのは、室町時代に関東全体を巻き込んだ大規模な乱【享徳の乱】のときです。


この乱は、鎌倉府の長だった鎌倉公方・足利氏と、その補佐役だった関東管領・上杉氏との戦い。しかし、単なる鎌倉府の内部抗争ではありませんでした。

鎌倉公方から東国統治の実権を奪おうとした京都・室町幕府が大きく関わります。

古河公方が戦った相手は、主に関東管領の山内上杉氏と京都・室町幕府。これに扇谷上杉氏と堀越公方などが加わりました。


享徳の乱に先立つ、文安4年(1447)3月、【足利成氏】が第5代鎌倉公方となります。このときから成氏は、鎌倉府内勢力争いの渦中に。

この争いの主役は、まずは鎌倉時代からの東国(関東)武士。すなわち、小山氏、結城氏、千葉氏、宇都宮氏、那須氏、小田氏(常陸)たちです。もう一方は、新興勢力の山内上杉氏や扇谷上杉氏でした。両者は関東各地で所領をめぐり争っていました。


本来は調停役となるべき成氏でしたが、次第に関東武士たちの期待を背負うようになります。上杉氏は以前から、東国の直接支配を目指す室町幕府と関係が深かったことも影響したかもしれません。

さらに享徳元年(1452)、幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わり、鎌倉公方に対する姿勢が強硬化したことにも、成氏は苦しみました。


享徳3年(1454)12月27日、成氏はついに行動を起こします。

鎌倉で関東管領・上杉憲忠を謀殺。以後、30年近く続いた【享徳の乱】の始まりです。


続きは次回。古河公方の登場です。