投稿2015/11/16
今年は家康公逝去400年ということで、日光社参にちなんだイベントが開催されています。日光街道をたどるウォーキングイベントは、10/27、11/14 に古河を通過し、わたしたち史楽会もお手伝いさせていただきました。
古河にある日光街道ゆかりの史跡は、二丁目通り・鍛冶町通り交差点の古河宿道標が有名ですが、他にも「左筑波」という名所がありました。
江戸から日光に向かって街道を北上していくと、筑波山は右に見えます。ところが古河宿北端の横町口には、道をさえぎる土手が設けてあり、松並町や野木への出口が右側にあったため、旅人は右折を強いられました。ここで筑波山が左に見えたと言うものです。
千賀覚次『古河史蹟と古河藩のおもかげ』にこんな一節があります。「 即ち古河の城下の出外れる横町口の、桝形を松原に出る所であって、横町を南から北に歩んで本成寺の前から其北隣の専蔵院の前にかかると、此処で真正面に堅地でつんだ土手に突き当ることになるが、其土手が更に右に南に折れてかねの手になって、松原への出口を作って居るので、道行く人はいやでも右に向き直さなければならず、此処で始めて今まで右に許り見えた筑波が、遂に左手に見えるようになるので、此処六、七軒を歩む間を左筑波と称して、・・・」
しかし、いくら進行方向が変わるとしても、来た道を戻るわけでもないのに、右にあったものが左になるとは本当でしょうか? さっそく実証してみました。
地図は今の横町口、横山町と松並町の間にある三叉路です。横町(横山町)では街道は南から北へと通じていますが、北端の横町口に来ると、少しばかり北東方向へ向きを変えます。ここで直角に曲がると、確かに筑波山が左側に。さすがに真左ではなく、斜め左前程度ですが、当時の旅人には新鮮な驚きがあったのでしょう。
残念ながら、現在は横町口の土手はあとかたもなく消滅していて、江戸時代の名残はありません。筑波山も周囲の建物にさえぎられています。しかし「左筑波」という言葉を知っているだけでも、ちょっとしたタイムトリップ感覚を楽しめるのではないでしょうか。
|