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かつて古河公方が拠り東都と謳われた古都・古河。
この歴史あふれる古河をもっともっと楽しんじゃおう!!という団体です。

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古河史楽会
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古河市の旧地名

投稿2016/5/3


古河市の旧地名・その33 八俣と山田、二つのヤマタと五十塚古墳 new


 五十塚古墳群(いそづか こふんぐん)は、古河市東山田のKDDI八俣送信所敷地内にあります。昔は円墳十数基・前方後円墳2基がありましたが、現在は円墳2基、前方後円墳1基が残っています。

 五十塚は、「八十塚(やそつか)」、「磯塚(いそつか)」とも呼ばれたそうです。50あるいは80基もの古墳群、石の多い水辺・磯にある古墳という意味あいでしょう。

 ここにはどんな人が埋葬されているのでしょうか? 古墳がある八俣(やまた)という地名が、ヒントになるかもしれません。

 八俣は平安期にさかのぼる古い地名です。八俣郷(八侯郷)には、現在の山田、東山田、北山田、谷貝が含まれます。そして、百済国(朝鮮半島南西部)からの渡来人氏族のなかに「八俣部」があることから、当地との関連が想定されています(『地理志料』)。

 事実なら、古墳の主は渡来人かもしれませんね。発掘調査や専門家による分析がさらに進めば明確になるでしょう。

 この古墳は飯沼に面する台地の縁に築かれました。飯沼は南北に細長く、南端で鬼怒川と今の利根川下流との合流部につながりました。江戸期の享保年間、新田開発のため干拓されましたが、古墳が築かれた頃には、水辺で暮らす人々が集まり、漁業もさかんで、舟の往来も頻繁だったことでしょう。こうした人々の首長が葬られているとも考えられます。

飯沼の周囲には、塚山古墳・秋葉神社古墳(どちらも八千代町)他、多くの古墳があります。時代は下りますが、坂東市逆井の逆井城も、飯沼のほとりでした。五十塚古墳群の背景については、飯沼をめぐる歴史全体を俯瞰しながら、考えたいと思います。

 ところで、古代の地名「八俣」は、のちに「山田」と書かれるようになり、江戸期には山田村(大山田村)、東山田村、北山田村が定着します。このために山田は「やまだ」ではなく、「やまた」と呼ばれます。

 明治22年(1889)、この地域の村々が合併したとき、古代の地名「八俣」が復活。そして昭和15年(1939)、八俣村東山田に送信所の建設が始まりました。

 八俣と山田、どちらも「ヤマタ」と呼び、地名が地域の歴史を掘りおこす手掛かりとなっています。

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参考文献

 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)

 『三和町史 通史編 原始・古代・中世』三和町(平成8年)

 『三和町史 資料編 原始・古代・中世』三和町(平成4年)

 『八千代町史 通史編(第二版)』八千代町(昭和63年)







投稿2016/4/29


古河市の旧地名・その32 仁連 new


 現在の古河市東部から、仁連(にれい/にれ)を紹介します。

 仁連は戦国期からの地名です。古くは「仁礼」と称し、第4代古河公方・足利晴氏安堵状写(年未詳11月3日)に 「幸嶋荘・・・若林・仁礼両郷」、第5代・足利義氏が田代三喜斎に充てた朱印状(天文22年(1553) 12月11日)にも「仁礼郷之事、・・・」と見えます。戦国期は古河公方の御料所でした。

 天正18年(1590)9月20日、豊臣秀吉から山川晴重への知行充行状では「幸島郷之内 二十五貫 仁連」でした。

 江戸期になると、日光東街道(日光関宿通多功道)の宿場として「仁連町」と呼ぶことが許されました。(慶安元年(1648)11月6日)(猿島郡郷土大観)

 ところで、仁連にも宿場によく見られる上町と下町が残っていて、今でもときどき見かけます。北側に上町、南側に下町が配置されています。

 ここで前回紹介した諸川を思い出してください。南から順に上町・中町(仲町)・下町でした。なぜ仁連と諸川は順序が逆なのでしょうか? 何か理由がありそうですね。

 ここの小字名を紹介します。

 宿場や街道によるものとしては、まず【町並東側】【町並西側】【横町西側】【横町東側】。他にも【小山道西】は小山へ向かう古道から。興味深いのは【奥州道西】。江戸期の日光東街道整備以前から、ここに奥州・東北地方に続く古道があったことを示唆します。【仲山】は近年の研究で、中世の交通・交易活動に関する境界地名とされており、街道に起因した地名と考えられます。なお別説として、奈良時代の僧・行基が故郷の「仲山」に景観が似ているこの地に、仲山観音堂を創設したという伝説もあります。

 【大膳屋敷】【門畑】【堂ノ前】【堀ノ内】は、中世に城館あるいは寺院があったことを示唆すると考えられています。今後の研究課題でしょう。

 【天神脇】【天神前】は【御辺】の天満宮から。【御辺山】【御辺本田】も天満宮の近く。この場所を「御辺」と呼ぶ理由は分かりませんでしたが、天満宮と関係あるのでしょうか。

 他にも古い神社にちなむ地名として、【浅間前】【稲荷台】【稲荷山】【稲荷久保】【稲荷下】【香取】【香取脇】【山王下】【宗前越】(蒼前宮)【太子】【太子前】【太子下】【地蔵前】【榛名後】【弁天山】【弁才天】【鷲宮】【鷲東】【鷲ノ東】とたくさん挙げられます。

 その他にも以下の小字があります。

 【合ノ田】(【相ノ田】)【相畑道北】【相畑道下】【亥ノ新】【石塚】【梅の本】【内山添】【江口】【江口山】【江口道北】【江口道南】【大境】【亀尻】【小山】【小栗山】【観音後】【上高野】【海道端】【北原】【庚申】【庚塚】【庚申塚】【庚塚中道】【申田】【志部】【申ノ改】【新山】【新山根】【新屋敷】【下高野】【申改】【常光塚】【瀬戸尻】【竹ノ下】【立出添】【大膳前】【田向】【塚越】【出口池ノ端】【通ノ神】【通神】【当脇屋】【長塚】【中久保】【野合】【呑内】【花見堂】【東田】【東田向】【フゴガシベ】【前久保】【又木戸】【町山添】【丸山】【丸山下】【南原】【道下】【向高野】【本山】【山合】【山ノ下】【屋敷下】【屋敷脇】【屋敷添】【脇屋】【脇屋南坂】


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参考文献

 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)

 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典 8 茨城県』角川書店(昭和58年)

 『三和町史 資料編 原始・古代・中世』三和町(平成4年)、本文・付図II

 『三和町史 通史編 原始・古代・中世』三和町(平成8年)

 『日光東街道 諸川・仁連・谷貝町』古河市三和資料館(平成24年)

 『茨城県歴史の道調査事業報告書中世編 鎌倉街道と中世の道』 茨城県(平成27年)



投稿2016/4/14


古河市の旧地名・その31 諸川


 今回は現在の古河市東部、諸川(もろかわ)を取り上げます。

 諸川は鎌倉期からの古い地名。元享元年(1321)8月7日の山川貞重寄進状案に「毛呂河」、室町期と推定される年未詳10月1日の山川景貞寄進状写には「茂呂河」、永正十五年(1518)道者日記に「もろか八」、天正十八年(1590)9月20日の山川晴重充豊臣秀吉知行充行状に「もろ川」と見えます。師河・師川・室川とも書かれました。

 江戸期になると、日光東街道(日光関宿通多功道)の宿場・諸川宿がおかれました。

 小字名にも宿場の町割りによる【上町】【中町】(【仲町】)【下町】【下出口】【新町】【新町合】【新町浦】(【新町裏】)、

 街道との位置関係によると思われる【海道東】【海道西】、

 古い神社にちなむものも、【愛宕前】【山王下】【大日前】(【大日南】)(【諏訪下】)【諏訪ノ宮】のように多く、昔から町として整備されていたことが伺えます。

 他にも小字名は以下があります。

【井耕地】【一丁田】【浦無】【大砂】【大竹】【大竹原】【大竹下】【柏木】【片田道】【上根】【上根前】【上根下】【川中子】【木苅道 】【五階塚】【辰田】【田淵】【塚ノ下】【土鍋】【津久井】【手水添】【十日山】【鳥井戸】【中町谷】【中上根】【西浦】【仁連境】【ニツ谷】【細田】【前原】【前渋】【前ジツケ】【宮久保】【明神山】【明神下】【向田】【山合】【谷津】【柳島】。


参考文献

 『三和町史 資料編原始・古代・中世』付図II、三和町(平成4年)

 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)

 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典 8 茨城県』角川書店(昭和58年)



投稿2016/4/1


古河市の旧地名・その30 間中橋(と小山市間中の関係)


 現在の古河市では最東端の間中橋(まなかばし)について。八千代町との境界付近です。

 興味深いのは、平成17年(2005)、合併による新古河市誕生時、他の地域は住居表示や大字名がそのまま引き継がれましたが、間中橋だけは東間中橋・西間中橋・南間中橋・北間中橋と分割されました。理由は「同地区内に同地番が存在していたため」だそうですが、合併前は同じ地番があっても問題なかったのでしょうか。

 前回紹介したように昭和30年(1955)、長左衛門新田、水口新田、尾崎新田が改名されて、間中橋となりました。住民自ら議会に陳情した改名です。理由は、旧八俣村にも「長左衛門新田」があること、3村が合併して戸数の多い行政区を作りだすためとのこと。

 新たな地名となった「間中橋」は、吉田用水にかかる橋の名称です。八千代町粕礼との間を結ぶ橋です。これがバス停留所の名称となり、周囲の地名として定着しました。

 古い村名の長左衛門新田は、野州間中村の名主・福田長左衛門が所有者だったことから。間中村は現在の小山市間中で、国道4号線の西堀(若盛)酒造がある粟宮南交差点から思川方面にあります。橋の名前の「間中橋」は、長左衛門の住んでいた村名から名づけられたので、古河の間中橋は小山市の間中を間接的な由来とした地名です。

 同様に水口新田は水口村(八千代町)の持添新田であったことから。尾崎新田も同様に、尾崎村の村講新田だったことによる地名です。

 ここの小字名は、【草倉北】、【三角】、【篠原】、【外平間】、【辰巳入(辰日入?)】、【八反田東】、【平間】、【東山】、【南前(南側?)】、【村西】、【結姓寺西】。なお「?」は、角川日本大辞典の表記が三和町史付図と異なっているものです。


参考文献

 『三和町史 通史編 近現代』三和町(平成13年)

 『三和町史 資料編原始・古代・中世』付図II、三和町(平成4年)

 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)

 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典 8 茨城県』角川書店(昭和58年)

 伊藤巌『古河史逍遥』(1997) No.71




投稿2016/3/21


古河市の旧地名・その29 幸島村・八俣村・名崎村 


今回は現在の古河市東部、合併前の旧三和(さんわ)町です。

 前回と同様、まずは旧三和町全体から大字まで。

 昭和30年(1955)2月11日、幸島(こうじま)村・八俣(やまた)村・名崎(なさき)村の3ヵ村が合併して三和村(みわむら)が誕生、昭和44年(1969)1月1日に町制施行・三和町となりました。

 「三和」も瑞祥地名のひとつ。旧3ヵ村の融和と提携の願いを込めた新しい地名です。

 もとになった幸島村は、明治22年(1889)4月、諸川(もろかわ)、五部(ごへい/ごへ)、上和田(かみわだ)、諸川新田(もろかわしんでん)、下片田(しもかたた)、大和田(おおわだ)、上片田(かみかたた)、駒込(こまごめ)、新和田(しんわだ)、仁連(にれい/にれ)の各村が合併して成立。新しい村名は、中世の地名「上幸島(かみさしま)」から。

 なお、諸川新田は昭和30年(1955)に東諸川と改名、現在の大字名に。その他の古い村名は、そのまま現在の大字名になっています。

 八俣村も同じ明治22年、北山田(きたやまた)、山田(やまた)、東山田(ひがしやまた)、谷貝(やがい)、長左衛門新田(ちょうざえもんしんでん)の各村が合併。新しい村名は、古代『倭名類聚鈔(倭名抄)』に見える地名「八俣郷(八侯郷)」から。

 山田は「やまた」と読みますが、八俣が語源だから。古い村名は、現在の大字名になっています。

 名崎村も明治22年、恩名(おんな)、長左衛門新田(ちょうざえもんしんでん)、江口(えぐち)、尾崎(おさき)、尾崎(村)新田(おさきしんでん)、成田新田(なりたしんでん)、水口(村)新田(みのくちしんでん)の各村が合併。新しい村名は、恩名と尾崎から一文字をとったもの。

 なお昭和30年、成田新田は下結城村(今の八千代町)に編入。長左衛門新田、水口新田、尾崎新田は間中橋に改名されました。その他の古い村名は、そのまま現在の大字名です。


参考文献

『三和町史 通史編 近現代』三和町(平成13年)

竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)



投稿2016/2/17


古河市の旧地名・その28 岡郷村・香取村・勝鹿村・桜井村(と情報提供のお願い)


 今回は合併前の旧総和(そうわ)町です。

 実は資料が少なくて困っています。特に水海以外の小字情報は、ほとんど見つかっていません。みなさんの力を借りて、情報を集めたいところです。

 とりあえずは、旧総和町全体から大字までをみて行きましょう。

 昭和30年(1955)3月16日、岡郷(おかごう)村・香取(かとり)村・勝鹿(かつしか)村・桜井(さくらい)村の4ヵ村が合併して総和村が誕生し、昭和43年(1968)1月1日に町制施行・総和町となりました。

 「総和」は瑞祥地名のひとつ。総は旧国名「下総」から、和はなごやかにという願いを込めた新しい地名です。

 同じ瑞祥地名としては、いまは古河市東部の旧三和町、そして近隣市町村では八千代町、旧明野町、旧協和町、旧千代田村などがあります。つくばみらい市も諸説ありますが、広い意味での瑞祥地名でしょう。

 もとになった岡郷村は、明治22年(1889)4月、上大野(かみおおの)、稲宮(いなみや)、小堤(こづつみ)、関戸(せきど)の各村が合併して成立。新しい村名は、上大野・稲宮・関戸が古くから「岡郷」と呼ばれたことから。江戸時代は、旧古河藩領の村々のうち、古河城の東側を「岡郷」と称したことが知られています。

 香取村も同様に明治22年、釈迦(しゃか)、磯部(いそべ)、上砂井(かみいさごい)、砂井新田(いさごいしんでん)、駒羽根(こまはね)、水海(みずうみ)、前林(まえばやし)の各村が合併して成立。新しい村名は合併前の各村が「香取ノ神ヲ以テ氏神」としていたことから。

 勝鹿村も、上辺見(かみへいみ/かみへみ)、下辺見(しもへいみ/しもへみ)、西牛谷(にしうしがや)、大堤(おおつつみ)、東牛谷(ひがしうしがや)、女沼(おなぬま)の各村が、明治22年に合併して成立。新しい村名は地域の古名「勝鹿」を採用したようです。詳細は分かりませんが、ここは葛飾郡に属していたので、古い郡名が由来でしょうか。『角川日本地名大辞典』によれば、郡名の葛飾は勝鹿と表記することもあったようです。

 桜井村も、久能(くのう)、下大野(しもおおの)、柳橋(やぎはし)、葛生(かずろう)、高野(こうや)の各村が明治22年に合併して成立。新しい村名は古くからの地名・桜井郷から。桜井郷は戦国時代に見える地名で、ここから五霞町山王までの地域に比定されています。

 以上の古い村名は、いまの大字名に引き継がれました。

 なお未紹介の大字、丘里は、関戸・小堤・東牛谷の一部を割いて、昭和43年の町制施行時に設けられました。北利根も、釈迦・久能・水海・高野の一部を割き、同時に設けられました。


<<< 情報提供のお願い >>>

 旧総和町の小字地図をご存知の方があれば、情報をご提供いただけませんか。また小字名の由来に関わる情報、資料などについてもお寄せください。整理してみなさんに紹介する予定です。

 小字名の由来について、例えば『そうわの伝説』によれば、葛生の【鍋隠(なべかくし)】には、応仁の乱のころ、十一面観音を戦火から守るため、村人が鍋に入れて地中に埋めたという伝説があります。久能の【陣場(ぢんば)】は、平将門が陣を敷いて、東牛谷に布陣した藤原秀郷と対峙したところ。東牛谷の【木ノ下(きのした)】には、弘法大師が榎の下で一休みしたときに、持っていた釈迦如来像をまつったところだそうです。

 他の地域もこんな情報を集めています。


参考文献


『総和町史 通史編 近代・現代』総和町(平成17年)


『そうわの伝説』総和町(昭和58)


竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)



投稿2016/2/11


倚井陣屋(北川辺・麦倉)


 先日(2/7)、埼玉県加須市北川辺地域の麦倉が「倚井(よりい)」と呼ばれたこと、ここに倚井陣屋があったことを紹介しました。今回はその続きです。

 戦国時代すなわち古河公方の時代に、石川権頭義俊(石川武蔵守)の居館(倚井陣屋)がありました。建てられた年代は不明ですが、明応年間(1492-1501)には、義俊が住んでいたようです。場所は慈眼寺北側付近と言い伝わります。この近くには合ノ川跡があります。栗原良輔『利根川治水史』(昭和18年)によれば、合ノ川は天保9年(1838)に浅間川呑口と同時に締め切られたので、当時は水が流れていたことになり、川を天然の堀として利用した城館だった可能性もありそうです。

 石川権頭義俊は、源氏の末流・石川武蔵守権頭から13代目。次の第14代が左衛門正忠俊、第15代が勘解由左衛門俊重です。代々この倚井陣屋に住み、領民は3万余名を数え、陣屋には100余名の武士が詰めていたと伝えられます。

 第15代俊重のとき、永禄十一年(1568)六月下旬、小田原の北条氏綱の命により、羽生城主の木戸相模守長照が倚井陣屋に攻め込みました。このとき木戸勢は、陣屋周辺のとうもろこし畑に隠れることで奇襲に成功。石川勢は抵抗しきれずに、陣屋は焼け落ち、俊重も討死します。鷲神社の西にあった正宝寺や民家も焼き払われたと言われています。

 幸いにして、俊重の遺児たちや婦女子は陣屋を脱出。俊重叔父の石川将膳俊久が遺児を託され、家老の鳥海多津儀を従えて、戸津根郷(栃木市大平町伯仲の一部)に身を隠しました。

 やがて天正二年(1574)二月、将膳らは麦倉に戻ります。将膳は戦死者の冥福を祈るため、本山宗門祈願寺にこもり、多津儀は残された人々の幸福を祈るため、神職となりました。多津儀の子孫が鷲神社の神官です。俊重の遺児たちは麦倉耕地を開発し、多くの石川家が繁栄しました。

(史実と整合しない点は、今後の課題としましょう)


参考文献

鎗水柏翠『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「古河とその周辺の小字地名考・北川辺」

『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)、「四 北川辺史談、一 倚井陣屋の盛衰と麦倉耕地の開発」、「付 北川辺地名考」

大熊孝『利根川治水の変遷と水害』東京大学出版会(1981年)



投稿2016/2/7


古河市の旧地名・その27 麦倉・飯積(埼玉県加須市北川辺地域)


 ふたたびお隣の北川辺から。今回は麦倉(むぎくら)と飯積(いいづみ)です。

 麦倉と飯積の由来は諸説あります。

 ひとつは御諸別王(おもろわけおう)の伝説。四世紀ごろ、大軍を率いて蝦夷と戦ったとき、兵糧を集めたところが「麦倉」、飯をたいたところが「飯積」となったというもの。近くの樋遣川には御諸別王の墓と伝わる塚も残っています。(*1,*2) (*3)

 もうひとつは、昔の地形によるもの。「ムギ」は麦ではなく、段丘や砂丘などムキ出しになってよく見える地形、「クラ」は互いに腕前を比べることとし、合ノ川沿いに砂丘が波状になっていた景観から麦倉と呼ばれたとします。(*1,*2) (*3)

 飯積については、「イー」は自然堤防や段丘など小高いところにある田や土地、「ヅミ」は住みの意味という説 (*3)と、「ヅミ」については、隅という意味の「ツマ」・「スマ」で、館林をのせたローム層の隅とする説 (*1,*2) がみられます。

 この麦倉は昔、倚井(よりい)と呼ばれたようです。明応元年(1492)には現在の麦倉ですが、その前の延徳年間(1489-91)は倚井とされています。柳田國男 (*4) によれば、ヨリイは、寄居とも表記され、根小屋(ネゴヤ)・箕輪(ミノワ)と同様に城下の民の意味。つまり、ここにもかつて城館があったことを示唆します。中世には、今の慈眼寺北側に石川権頭義俊(石川武蔵守)の居館(倚井陣屋)があったと伝わっています。(*2) この話題は後日、改めて紹介しましょう。

 麦倉の小字名は、【飯積伯楽(いいずみはくらく)】【内野(うちや)】【大島(おおじま)】【大塚(おおつか)】【曽根(そね)】【築道(つきみち)】【土部(どべ)】【中輪葉(なかっぱ)】【火打沼(ひうちぬま)】【細間(ほそま)】【埋田(まれだ)】など。(*1,*2)

 飯積の小字名は、【姥島(うばじま)】【五反田(ごたんだ)】【須賀(すか)】【戸羽打(とばうち)】【山越(やまごえ)】など。(*1,*2)

 【大塚】は通常、古墳や土盛に由来する地名ですが、ここの地形には該当しないので、オオスカが転訛したと考えられます。オオスカの「スカ」は【須賀】と同じで河川の近くに多い地名。「洲処(すか)」、すなわち砂がある場所の意味。【曽根】のソネは砂質でやせた土地、【大島】のシマも自然堤防上の微高地に島状に点在した集落の意味。【山越】は群馬に通じる往還が砂丘にさえぎられて、これを越して行ったことから。これらは全て河川沿いの地形に起因します。(*1,*2) (*4) (*5)

 こうして見渡すと、砂地に関連した地名が多いことに気付きます。昔はこのあたりでも、川の近くに砂地が多く見られました。現在は上流にダムが増えて、砂もせきとめられ、砂地が少なくなっています。

 【火打沼】は「樋内沼」と表記されました。樋を設けて川から水を引いたところに、弘化3年(1846)の洪水で沼ができたことが由来。【土部】は排水の悪い土地の「ドブ」から。【内野】は堤防の内側にあって、水田を拓き、水湿の地をひかえたところ。【細間】の「マ」は「舟がとまるところ」の意味で、小さな河港だったところ。【戸羽打】は「渡場内」で、大越と飯積を結ぶ渡し場から。【中輪葉】は「中輪端(なかわはた)」つまり川に囲まれた輪中の端とも考えられています。これらも水にゆかりが深い地名です。(*1,*2)

 【姥島】は洪水のときに流れ着いた「姥の像」が祀られたことに由来します。(*1,*2)


参考文献

*1 鎗水柏翠『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「古河とその周辺の小字地名考・北川辺」

*2 『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)、「四 北川辺史談、一 倚井陣屋の盛衰と麦倉耕地の開発」、「四 北川辺史談、二 御諸別王の遺跡」、「付 北川辺地名考」

*3 竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)

*4 柳田國男『地名の研究(講談社学術文庫)』講談社(2015)(底本は1936年出版)

*5 黒田祐一『地名で知る自然』小峰書店(2011)




投稿2016/1/16


古河市にあった、もうひとつの城下町・水海 

(古河市の旧地名・その26)


 今回は古河市南部の水海(みずうみ)から。

 戦国時代からの地名で、『角川日本地名大辞典』によれば、「水海沼等に囲まれた水辺水郷の地」に由来。

 戦国時代には、古河公方の宿老・簗田氏の居城・水海城と、水運で栄えた町がありました。

 古河市の城下町は、まずは旧古河町でしょうが、今の古河市全体を見わたすと、もうひとつの城下町があったことになります。

 簗田氏の居城は関宿城が有名です。しかし、もとからの拠点はこの水海でした。足利成氏が古河に来て古河公方になった享徳4年(1455)直後、簗田氏は水上交通支配の新たな拠点として、関宿城を整備。そして天正2年(1574)、小田原北条氏に敗れて関宿を失い、ふたたび水海が簗田氏の本拠地に。このときには新しい水海城が築かれ、新旧2つの城が並んでいたようです。

 その後、江戸時代になると、簗田氏は水海を離れ、城も放棄されました。いまでは現地に行っても、城跡は全く分からない状況です。

 このように城跡がない場合、往時の姿を再現するには、地名が手がかりです。内山俊身先生が地名や史料から、中世水海の姿を再現しています。(『総和町史 通史編 原始・古代・中世』)

 水海南部の小字名【内城(うちしろ)】・【蔵屋敷(くらやしき)】は、城の存在を示唆します。さらに江戸時代の史料にも、字名「御城」・「御城横手」が見られ、内城の西には「馬通筋」があることから、「御城」「内城」「蔵屋敷」という三つの曲輪から構成され、「内城」の西側に大手口が開かれた構造の水海城が推定されました。

 古い寺院の記録からは、城の西側「柳原」と俗称される【蔵屋敷】から【八幡道東(はちまんみちひがし)】に、正蔵寺・吉祥寺・実相寺・普舜院が集中したことが分かります。近くには「弘法河岸」という字名もあり、水海城とその西側にまたがる「港湾都市」・水海が再現できます。

 しかし天正18年(1590)、小田原合戦の際に、この町は豊臣秀吉により焼き払われました。寺院はのちに内水海で再建されます。

 内水海は江戸時代に「内城分」とも呼ばれました。小字名【神明耕地(しんめいこうち)】は、「城の内」とも呼ばれます。水海小学校の南にある神明神社のところです。隣の小字名は【堀ノ内(ほりのうち)】。これらの地名は内水海にも城があったことを示唆します。

 実際に、平成2〜4年(1990〜92)の発掘調査にて城郭跡を確認。堀跡の特徴から天正期(戦国時代末期)の新しい城と推定されます。これに対し、前述の水海南部の城は旧城となります。

 小字名【戎内(ゑびすうち)】・【如来堂(にょらいどう)】・【新善光(しんぜんこう)】が、この城跡の周囲にあります。町人の信仰と関わりが深かった「えびす堂」、善光寺式阿弥陀如来を安置する「新善光寺」があったことを示唆しており、新しい城は、町水海住民の寺院・堂舎を取り壊し、そのあとに建てられていると推定されました。

 町水海は、江戸時代には「町分」と呼ばれ、内城分と対になっていました。城と城下町の関係だった記憶が、地名に刻み込まれています。小字名【宿裏】・【宿前】からは、城下の街道沿いに発展した宿町だったことが分かります。城に隣接し、道沿いの町屋が立ち並ぶ景観が想定されます。

 小田原合戦の際、こちらの城は残りましたが、簗田氏が水海を去ると放棄されたようです。

 江戸時代以前には、城とその隣に発展した港(河岸)町、そして宿町の家並みが水海の風景でした。今では失われましたが、古い地名というピースを集めて組み合わせることで、かつての風景を思い浮かべることができます。


参考文献

『総和町史 通史編 原始・古代・中世』総和町(平成17年)「第三編第四章・鎌倉街道と中世都市」

竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)

竹内理三(編)『角川日本地名大辞典 8 茨城県』角川書店(昭和58年)



投稿2016/1/2


古河市の旧地名・その25 古河の由来


 ここまで古河とその周辺地域の地名をみてきましたが、振り返ってみると、肝心の「古河」について紹介していませんでした。あらためて確認してみましょう。


 古河(コガ)という地名は、有名な奈良時代『万葉集』巻14の「許我」の他にも、『吾妻鏡』養和元年(1181)閏2月23日条(野木宮合戦)に「古我」と見えるので、少なくても平安時代末期からの古い地名でしょう。由来としては、角川日本地名大辞典などにあるように、未開地を意味する「空閑」(クガ)の転訛という説がよく知られています。

 しかし郷土史研究家の鎗水氏は、柳田國男の『地名の研究』を引用しながら、古河は渡津の衝で未開の地ではないので、空閑を起源とするのは不自然とし、芝生や草原を意味する「カガ」の転訛とする仮説を立てました。さらに、古代の古河の地形の特徴を考慮すると、水に囲まれた狭縊な土地であったことから、この仮説も決め手に欠けるとして、もうひとつの仮説を立てます。


 古代の古河は、海が内陸部まで広がってできた奥東京湾に面し、南側には防波堤となる立崎(当時の立崎は長谷から古河城本丸方面に伸びた舌状台地とした)、北側は代官町や田町方面に入江を形成した天然の良港であり、秋季の台風による南東の強風、冬季の西からの強風のときには、風がやむのを待つ舟の停泊地・仮の宿泊場だったと考えました。そうであれば、万葉集に歌われた通り、かりそめの恋の舞台にもなりえます。

 そして、「ほとり」や「水辺」を意味する「滸」と、「さおさす」・「ふねをすすめる」の「找」から、「滸找」(コガ)すなわち「水辺にさおさすところ」という地名が生じ、滸找から「許我」という表記が派生したとします。

 これもまだ仮説ですが、空閑よりは説得力がありそうな気もします。どの仮説が正しいでしょうか? みなさんも考えてみませんか。


参考文献

鎗水柏翠『古河通史 上巻』柏翠会(昭和61年)、「原始・古代・中世 まくらがのこが」

柳田國男『地名の研究(講談社学術文庫)』講談社(2015)(底本は1936年出版)

竹内理三(編)『角川日本地名大辞典』角川書店(オンライン版)


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図は鎗水柏翠『古河通史 上巻』P.41 から作成。本地形は古河市史通史編などの古代地形図とやや異なります。個人的にも、中世古河城の構造を考えると、もう少し検討したい点がありますが、古河の地形が「水辺にさおさすところ」という結論は変わらないと思います。


投稿2015/12/31


古河市の旧地名・その24 柳生・小野袋(埼玉県加須市北川辺地域) 


 今回もお隣の北川辺からです。柳生(やぎゅう)と小野袋(おのぶくろ)を紹介します。


 柳生は、『新編武蔵風土記稿』に「柳樹多く茂りたる原野なりしを、元亀年間開発して一村となせし故」とあり、柳樹が繁茂していたことが由来とされています。

 これに対して郷土史研究家の鎗水氏は新しい説を提示。柳樹が繁茂した条件は小野袋や柏戸も同じで、この土地だけの特徴とはならない、地名の由来とするのは不自然として、「ヤ」は「八」(数が多い)、「ギュウ」は「キューブ」(狭い自然堤防等に囲まれた土地)の転訛とし、渡良瀬川・矢田川・合ノ川等が乱流して作った自然堤防上の開発地を意味するとしました。


 小野袋の「フクロ」は、伊賀袋と同様に、「水流が屈曲して作られた平地」の意味。河川改修工事の前は、ここもフクロと呼ぶにふさわしい地形でした。「小野」については、一般的には柳田国男氏の説くように、「ノ」は山の裾野の緩斜地で、山深く開発が困難な大野に対して、開発しやすい小野は日本各地に見られる地名となったそうです。ただし、北川辺の地勢からは、ここの由来として、ピンと来ないような気もします。

 ちなみに東武日光線の柳生駅の住所は小野袋です。ここはちょうど境界線あたりで、少し複雑です。


 この地域の小字名として、

【久保山(くぼやま)】のクボは、湿地や窪地の意味。ヤマはここの地形から「山」ではなく、谷間・野間・地表面の盛り上がったところ(自然堤防)という意味と考えられます。

【小屋口(こやぐち)】の小屋は、柳田国男の説では、屋形・殿の対義語で、領民の住む小屋という意味。この土地には、麦倉の中耕地にある倚井陣屋に対する小屋があり、その出入口に相当するなどと推定されていますが、まだよく分かっていません。

【田切元(たぎりもと)】の「タギリ」は「激り」の意味で、水流が激しいところ。田切元は氾濫時の破堤箇所を表すことが多いようです。

【庚塚(かのえづか)】は、鎗水氏は「カノー」(加納・嘉納・金生・賀名生)と、耕地の単位面積(五畝)の「塚」との組み合わせとし、合ノ川・渡良瀬川の後背地に開発された新田の意味と推定。一方で、柳田国男氏は、武蔵に多い庚塚は「金鋳塚」の意味で、かつて製鉄が行われたことが起源という説を提唱しました。古代の渡良瀬川は砂鉄の供給源であったことを考えると、こちらも魅力的な仮説です。

【西浦(にしうら)】は、谷田川(合ノ川)にのぞむところの意味と考えられています。

【下宿】は、渡良瀬川・谷田川・合ノ川が相交錯して蛇行する激しい住地条件から生じた呼称と考えられています。

【仕出(しで)】は、渡良瀬川に谷田川と合ノ川が合流するところで、下宿に対する下手に位置することから、下手(シズ)が転訛した呼称と考えられています。あるいは、水勢を抑えるために繁茂させた柳の「シゲミ」から転訛したとも考えられます。

【藤畑(ふじばたけ)】は、植物の「藤」ではなく、渡良瀬川・谷田川・合ノ川が合流・蛇行してつくられた「淵(フチ)」にのぞむ土地に、畑が開発されたことが由来と考えられています。


参考文献

鎗水柏翠『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「古河とその周辺の小字地名考・北川辺」

『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)、「付 北川辺地名考」

柳田國男『地名の研究(講談社学術文庫)』講談社(2015)(底本は1936年出版)


(本文中、柳田国男と明記した記述は『地名の研究』を参照。特に記載のないものは、鎗水氏の解説『古河通史 下巻』・『北川辺の民俗(一)』を参照。)



投稿2016/12/21


古河市の旧地名・その23 柏戸(埼玉県加須市北川辺地域)


 今回もお隣の北川辺からです。柏戸(かしわど)を紹介します。


 柏戸は字義通り「柏の木があるところ」と考えられています。ちなみに「ド」は「場所」の意味をもつ古語。また一説には、「河岸和土」とも。「河岸」は船着き場、「和土」は農村の意味です。この場合は川にちなんだ地名です。

 戦国時代末の天正10年(1582)、第五代古河公方・足利義氏が亡くなり、古河公方領が小田原北条氏に吸収されたとき、家臣だった武士たちのなかに、野木からここに移り住んで、農民となった一団があったそうです。慶長4年(1599)の記録には、新井内直・小倉弥惣右衛門・橋本新兵衛・野本七右衛門・青崎外記・谷田貝主水・野口世右衛門・小倉兵庫・鴻野主膳・桜井将監・長谷川藤右衛門・出井数馬・橋本監物・根岸隼人・金井勘解由・金井主税・小沼縫之助・峯岸丹後・持木志摩・茂手木図書・渡辺加賀・川島右近の22名がみられます。なかでも根岸家は、初代古河公方・足利成氏に従って、武蔵国比企郡菅谷村根岸から古河に移り、当時の根岸道照は、成氏が古河城に移ったあとの鴻巣に住んでいたそうです。

 またこの地名は相撲の世界で有名。江戸時代の寛政期(1789-1800)、大関だった初代柏戸(村衛門)は柏戸村の出身でした。村衛門自身は、のちに伊勢海を襲名しますが、「柏戸」は特別な四股名として現代まで引き継がれています。


 柏戸の小字名としては、【八城(やしろ)】があります。「ヤ」は湿地の意味、「シロ」は丘の上や中腹の平坦地の意味だそうです。


参考文献

 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「古河とその周辺の小字地名考・北川辺」

 『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)、「四 北川辺史談、九 柏戸の旧家者治右衛門」、「四 北川辺史談、十 柏戸開発の人々」、「四 北川辺史談、二五 相撲力士柏戸村衛門」、「付 北川辺地名考」



投稿2015/12/8


古河市の旧地名・その22 向古河(加須市北川辺地域) new


 昔の地名を知ることは、土地の記憶をたどること。今回もお隣の北川辺からです。向古河(むかいこが)を紹介します。


 向古河は言葉通り「川の向の古河」。古河城からみたとき、渡良瀬川対岸にある地域です。戦国時代末期の古河公方家・氏姫が真光寺に宛てた寄付状にも「むかひこが」とあり、このころには定着していた地名でした。また向古河は、古河公方の親衛隊として活躍し、戦場では足利成氏の側に控えた足河(タリカワ/タリツカ)十騎が住む土地でもありました。まさに古河公方の膝下という土地柄です。


 向古河の小字名は以下の通りです。

【塚越(つかごし)】は、いまの東武日光線・新古河駅の南西。ツカは古墳等を意味する場合が多いのですが、ここでは渡良瀬川自然堤防の小丘と考えられています。コシは腰が転じたもので、塚越は小丘の斜面の下という地形に由来するようです。

【丁張(ちょうばり)】は、堤防の形を縄で張ることの意味。築堤工事との関係が伺える地名です。位置は柏戸との境界付近、塚越の西側です。

【沖谷(おきや)】は、丁張の南、塚越の南西。オキはやや広くなった平野、ヤは湿地の意味で、沖谷は渡良瀬川の後背湿地として、やや広くなったところの意味だそうです。

【越中(えっちゅう)】は、栄との境界付近。昔、ここに越中沼(大曽沼)がありました。

【帳免(ちょうめん)】は、東武鉄道・新古河駅の南側・渡良瀬川沿い。定免(じょうめん)のあて字ですが、定免はその年の収量の多少に関わらず、一定量の年貢を納める方法。川が乱流し水害が多かったかわりに、土地が肥沃で、水害がない年は豊作だったことに由来するそうです。

【風張(かざはり)】は、渡良瀬川沿いで帳免の南側。カザは「上の方」を意味するカサから、ハリは「墾り」「原」の意味と考えられています。

【蛭田(ひるた)】は、塚越の南、沖谷の東、風張の西。「蒜田」の意味と考えられています。蒜はネギやニンニク等のユリ科の作物です。

【追立(おいたち)】は、蛭田の南、沖谷の東。オーエタチあるいはオーエダチから。エタは、湿田の意味。オーエダチは大枝地であり、古河城主の被保護者がいる土地と解釈されるようです。


参考

 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「古河とその周辺の小字地名考・北川辺」

 『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)、「四 北川辺史談、六 向古河のタリツカ組と神仏」、「付 北川辺地名考」



投稿2015/12/1


古河市の旧地名・その21 伊賀袋・駒場(加須市北川辺地域)


 今回もお隣の北川辺から、伊賀袋(いがふくろ)と駒場(こまば)を紹介。


 伊賀袋は、古河から北川辺に移動した地域。かつては渡良瀬川左岸(東岸)にあり、いまの古河市と地続きでした。しかし、明治末に始まった大規模な河川改修工事により、西側に蛇行していた流路が直線に。工事が完了した大正14年(1925)、この一帯は川の右岸・古河の対岸になりました。そして、昭和5年(1930)には正式に当時の川辺村に編入されます。昔の流路の名残が旧川・ふるさと公園です。

 言い伝えによれば、建治年間(1275-77)、下河辺行平を頼ってこの地にやってきた江田氏が、のちに浅間神社の神官となり、その子を伊賀守と称したそうです。

 また、フクロは水流が屈曲して作られた平地のことです。


 伊賀袋の小字名は以下の通りです。

【立崎(たつざき)】は、いまの伊賀袋北部・渡良瀬川近く。なお対岸の古河市にも立崎があります。まさに川に分断された形です。この地名は柳田国男氏の解釈によれば「低地にのぞんだ丘陵の端で、城砦の適地になった場合が多い」。事実もその通りで、ここは古河城があった場所でした。また、崎は海岸の地名ですが、古代には奥東京湾に面していた名残と考えられています。

【芝原(しばはら)】は、伊賀袋の南西部。高燥な草原を示す地名です。

【吉原(よしはら)】は、伊賀袋の東部。ヨシは葦・芦・葭であり、渡良瀬川の後背湿地に繁茂している様子から生じた地名でしょう。

【下窪(しもくぼ)】は、伊賀袋の南東部。クボは低湿地の意味。渡良瀬川の後背湿地による地名と考えられています。


 駒場は、自然堤防上に馬の牧場があったことが起源と考えられますが、確かなことは分かりません。『新編武蔵風土記稿』には、「三軒家」と記されています。


参考

 『古河市史 通史編』古河市(昭和63年)

 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「古河とその周辺の小字地名考・北川辺」

 『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)、「付 北川辺地名考」

明治時代の地図

投稿2015/11/29


古河市の旧地名・その20 本郷・栄(加須市北川辺地域


 今回も前回同様にお隣の北川辺から、本郷(ほんごう)と栄(さかえ)を紹介。


 本郷は渡良瀬川と利根川が合流するあたり。本郷という地名は通常、新郷に対する元の村という意味らしいのですが、北川辺の場合は異なり、小丘を意味する「本江」だろうと考えられています。確かに渡良瀬川沿いの小高い自然堤防上にあるように見えます。

 本郷の小字名として、【丑持(うしもち)】は河畔沿いの後背湿地から生じた地名。【根河原(ねがわら)】は河原沿いの自然堤防に連なる低地であり、湿地との間の砂地だった地形より。【古反前(こたんまえ)】は湿地・泥地を意味する「コタ」の前が転訛したと考えられています。

 このあたりは、川と関係した地名が多いようです。


 次の栄は、利根川沿い・本郷の北西。かつての前谷村と大曽村が明治9年8月に合併したときに定められた嘉名(おめでたい名前)です。

 栄の小字名として、【高野(たかの)】は山と無縁な地形から考えると、もとは「鷹野」で、古河城主の鷹狩りに関係した地名。【鷹匠(たかじょう)】も同じく古河城主の鷹狩りに関係した地名。【居尻(いじり)】は、「イ」が水路・井の意味、シリが末・終点の意味なので、昔ここにあった大曽沼(越中沼)の端の意味と考えられています。なお現在の大曽沼はほとんどが農地に変わっています。オニバス自生地もその一部でした。


参考

 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「古河とその周辺の小字地名考・北川辺」

 『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)、「付 北川辺地名考」

明治時代の地図

投稿2015/11/25


古河市の旧地名・その19 北川辺(加須市) 


 今回はお隣の北川辺。2010年の合併により、いまは加須市北川辺地域ですが、歴史的には古河とゆかりが深いところです。北川辺のなかにも興味深い大字名・小字名がありますが、まずは北川辺という地名について、


 『新編武蔵風土記稿』によれば、「本郷村は北方郷太田庄と唱ふ」とあり、このあたりは、古くは北方郷と呼ばれていたそうです。

 中世には源頼政が治承四年(1180)に平氏に敗れたのち、渡辺氏が向古河に、平井氏が飯積に入ってきました。

 川の向かいには古河城が目前にあり、古河公方の時代にも、親衛隊として活躍した足河十騎の武士たちが、ここを拠点としています。


 近世・江戸時代になると古河藩ができて、古河領川部(かわべ)と呼ばれるようになりました。本郷・前谷・大曾・駒場・柏戸・向古河・小野袋・柳生・麦倉・飯積の10ヵ村が含まれます。

 元和七年(1621)、利根川の新川通が開削されたため、利根川の南岸になった地域(中・下新井13ヵ村)が向川辺領、北岸が古河領川辺・今の北川辺になります。

 このうち飯積・麦倉・柳生・小野袋は明治22年(1889)に合併して麦倉村、さらに明治26年(1893)に利島(としま)村と名称を改めます。

 また前谷・大曾は明治9年(1893)8月に栄村となります。明治22年には柏戸・向古河・駒場・本郷・小野袋・栄が合併して、川辺村となりました。


 そして昭和30年4月、利島村と川辺村が合併して北川辺村となります。


参考

 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「古河とその周辺の小字地名考・北川辺」

 『北川辺の民俗(一)』北川辺町(1984年)、「付 北川辺地名考」


投稿2015/11/14


古河市の旧地名・その18 友沼(野木町)とその小字


昔の地名を知ることは、土地の記憶をたどること。今回もお隣・野木町からです。今日は「友沼」(ともぬま)を紹介。日光街道(現在の国道4号線)沿いにあり、南は大字野木、北は小山市に接します。


友沼という地名のもとは「トメヌマ」、水の流れが止まった・淀んだ沼の意味と考えられているようです。「トメ」を「トモ」にすると、泊(とまり)すなわち舟の停泊地の意味になりますが、地形から推定すると可能性が小さいそうです。


友沼の小字名もみていきましょう。


まずは現在の思川の東岸:

日光街道沿いとその西側について、最初は【新城(しんじろ)】から。ここの南西は逆川、北西は思川の河畔。逆川は松原大橋の北、近くある小さな川です。さらにその北には、友沼城あるいは逆川城とも呼ばれる中世の城がありました。『日光道中略記』に「小山氏の臣、在城せし跡なりと云い伝ふ」とあり、小山城の南方を守る砦だったようです。残念ながら、遺構は失われており、地名だけが城跡のなごりです。【牧野地(まきのぢ)】は、新城の南西・逆川対岸。【台林(だいばやし)】は牧野地の南西で、昔は古河藩の御用林がありました。ここも思川沿いです。【松原(まつばら)】は、台林・牧野地から南東・街道周辺とその東・高良神社までの地域。街道沿いには松が植えられていました。【南(みなみ)】は台林の南です。


一方、新城の北では、まず【宿通(しゅくどおり)】が、新城北隣の街道沿いの地域。【西浦(にしうら)】は、宿通の西で、思川に面した地域。【羽毛田(はけた)】は宿通の北にあり友沼の北端。「ハケ」は崖の意味。崖地の下に水田がある景観が想定されます。


街道の東に目を転じると、【大境(おおさかい)】は、羽毛田の東隣・同じく友沼の北端。谷状の湿原があり、東隣の潤島との境界となりました。その南は【塚田(つかだ)】。「塚」は通常は古墳や小丘の意味ですが、ここでは砂州を意味する「スカ」が転じたと考えられます。さらに南の【牛馬(ごめ)】は、カモメの意味だそうです。海が関東平野の奥まで入り込んでいた古代のなごりでしょうか。その南は【久保田(くぼた)】。もとの字は窪田で低地の意味。久保田の西・街道に近いところが【轟(とどろき)】。轟の西は前述の新城で、逆川はこの両地域を西に流れます。【卯の木(うのき)】は、久保田の南、前述の小字・南からもさらに南で、野木第二中学校の北東に広がる地域。「ウノキ」は大きい野の意味。この地域の北西にある日光街道を起点とし、南東方向に伸びた舌状台地の上でした。


次に現在の思川の西岸:

昔はここも思川の東でした。近代の河川改修工事により、大きく屈曲していた思川を直線にした結果、今の流路となっています。

【川岸(かし)】は、友沼の北端。いまの友沼の地図では飛地のように見える地域です。今と昔の流路の分岐点で、ここから下流は、思川流路が大きく変貌しています。【角新田(ますしんでん)】は川岸の南西。新田は江戸時代に開拓された土地です。【本新田(もとしんでん)】は角新田の南西。角新田に先だって拓かれた新田と思われます。【下影(しもかげ)】は、本新田からは思川下流にある地域。


その他:

【蟹内(かにうち)】、【保土内(ほどうち)】、【石原(いしはら)】、【外河原(そとがわら)】、【袋(ふくろ)】、【蛭沼(ひるぬま)】、【田荒久(たあらく)】、【箕輪(みのわ)】、【金倉(かなくら)】、【悪戸(あくと)】、【沢尻(さわじり)】という地名が見られます。


参考

 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「古河とその周辺の小字地名考・野木西地区」

 『野木町史 歴史編』野木町(平成元年)


投稿2015/11/8


古河市の旧地名・その17 野渡(野木町)とその小字


昔の地名を知ることは、土地の記憶をたどること。

今回もお隣・野木町からです。今日は「野渡」(のわた)を紹介。野木町の南西端で、西は思川、南と東は古河市に接する地域です。


野渡の由来については、野木端説・野木渡説・野木渡部説・野畑説があります。野木端は野木の端の意味。野木渡は古河宿から野木宿へ渡るところ。野木渡部は、古代に渡船をなりわいとしていた人々を「渡部」と称し、その渡部が居宅を構えたことから。野畑は早くから開発され畑地となっていたことから。まだどれが正しいとは言えないようです。


ここでも小字名をみていきましょう。


【古河境(こがさかい)】は、文字通り、野渡と古河の境界。ここは昔、川沿いの雀神社北方から東に伸びた谷状の湿地帯で、本成寺の台地北縁を経て、日光街道にまでつながっていました。急峻な崖がつくる景観は、まさに境界と呼ぶにふさわしいもの。近くで貝塚が出土したことから分かるように、ここも水辺の地域で、古東京湾最奥部のひとつでした。【中の沖(なかのおき)】は、古河境の北東、日光街道近く。その西にある【狐塚(きつねづか)】も古河境北側ですが、台地となっていたところで、かつては古墳があり、墳頂は稲荷神社でした。【中島(なかしま)】は、狐塚の西にあるひときわ高い島状の台地。現在の第五小学校の北西にある小高い丘が相当します。


【神山(かみやま)】は、熊野神社とその周辺。熊野神社は大宝3年(703)3月の創建、紀州熊野郷からの移住者が故郷の熊野神社を分霊、お祀りしたことが始まりと伝わります。【寺山(てらやま)】は、満福寺とその周辺で、神山の西隣りです。昔の思川の東岸でした。『古河志』には、満福寺創建時にここにあった古い寺を他に移したとあるので、古河公方・足利成氏の創建前から、この地名だったのでしょう。


寺山の南には【上宿(かみじゅく)】と【下宿】。その南には【細谷(ほそや)】。細谷の東側には、古河境の低湿地から分岐して北に延びる細い谷がありました。細谷の南は【蔵の下(くらのした)】。蔵の下の南は、雀神社の北側にあたり、江戸時代に野渡御蔵と呼ばれる古河藩の米蔵がありました。白壁土蔵造りで17棟あったそうです。


【鶴巻(つるまき)】は、前述の狐塚の北隣り、やや低くなっている地域。マキは濁流の意味。【坪内(つぼうち)】は、鶴巻の北で前述の細谷の東。鶴巻よりやや高くなっている地域。渕の縁(ふち)が転訛したもので、渕に臨むところの意味と考えられています。


参考

 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「古河とその周辺の小字地名考・野木西地区」

 千賀覚次『古河の史蹟と古河藩のおもかげ』古河市(昭和30年)、「83 野渡の熊野神社」


投稿2015/11/4


古河市の旧地名・その16 野木とその小字


昔の地名を知ることは、土地の記憶をたどること。今回はお隣・野木町の「野木」です。


野木は古河に隣接し、戦国時代には古河公方御料所・公方領国、江戸時代には古河藩領でした。古河の歴史を知るには、この地域も欠かせません。野木という地名は「ノゲ」さらには「ヌケ」が転訛したと考えられています。「ヌケ」は崖地の意味で、実際に思川に面する西側は崖地になっています。野が灌木におおわれていたとの説もあるようです。


野木の小字名をみていきましょう。


【台手箱/台手筥/大手箱(だいてばこ)】は、野木神社南西の台地、旧下野煉瓦製造の工場(煉瓦窯)があったところ。ここからは多数の土師器が出土しました。「台手筥」は五領式の台付土器です。野木神社は当初ここにあったとも伝わります。【御休塚(おやすみづか)】は、野木神社からは南西・台手箱の手前にある畑地で、坂上田村麻呂が東北遠征の帰途に輿を止めて休息したと伝わります。ここでも多数の土師器が出土し、古墳があったと考えられています。


【宮本(みやもと)】は野木神社の社殿があるところ。【宮裏(みやうら)】は神社西側の台地で、現在の杏林製薬です。【御手洗(みたらし)】は神社の南西にある渓谷。参拝者が身を清めた場所かもしれません。【別所(べっしょ)】は宮本の北にあり、台手箱から社殿が移転したとき、神主の住居が移ってきました。【馬場西(ばばにし)】は、日光街道まで伸びた参道とその周辺。もとは馬場でしたが、江戸時代に街道が整備されたとき、参道になりました。【馬場東】はこの参道の東側です。【堀切(ほりきり)】は神社の東南にある低地で、ここを埋め立てて街道が設けられました。【御櫛内(おくしない)】は、参道の南西側にあり、マーケットシティ古河と挟まれた地域。【身隠塚(みかくしづか)】は、参道入口から街道で隔てられた東側、旧日光街道と国道4号との三叉路付近です。昔はここに円墳があり、その上は稲荷神社でした。葬式の列が野木神社前を通るとき、神社から見えないように、この塚の東側を迂回するきまりでした。


【宿(しゅく)】は、日光街道沿いの野木神社参道入口から野木第二中学校付近まで。江戸時代に宿場があったところで、南半分は元野木、北半分は新野木とも呼ばれていたようです。【元宿(もとじゅく)】は宿よりさらに北側ですが、由来は異なり、旧鎌倉街道沿いにあった古くからの居住地です。旧鎌倉街道は日光街道より古い中世の道です。


その他にも、

宿場の西側では、【清水谷(しみずや)】は、野木神社の北にある低地、今の水辺の楽校あたり。さらにその北には【稲荷谷(いなりや)】があり、この二つの低地にはさまれた舌状台地が野木城と言い伝わります。【羽毛田(はけた)】は、野木宿北端の西隣り。【坂下(さかした)】は、羽毛田の南です。

宿場の北側には、西から【西上谷(にしかみや)】、【小金橋(こがねばし)】、【向島(むこうじま)】、【精進場(しょうじんば)】、【卯の木】。このうち小金橋は日光街道にかけられた橋にちなみます。

宿場の東側には、北から【台(だい)】、【クセ】、【韮窪(にらくぼ)】、【合の谷(あいのや)】、【捨松(すてまつ)】、【三軒在家(さんげんざいや)】

という小字名がみられます。


参考

 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「古河とその周辺の小字地名考・野木西地区」

 『野木町史 歴史編』野木町(平成元年)


投稿2015/10/24


古河市の旧地名・その15 牧野地とその小字


昔の地名を知ることは、土地の記憶をたどること。今回は旧城下町の南にある牧野地(まきのじ)を紹介。古河総合公園の北西、渡良瀬川との間です。


牧野地の地名は、江戸時代の慶安期(1648-1651)に牧之内から槙野地に改めたもの(『中葛飾郡村志』)とされています。一方で、江戸時代後期の『古河志』(1830)・『許我志』(1808)には牧野地村と紹介されています。

「槙野地」と「牧野地」は、どちらも馬や牛などを放し飼いにする土地の意味。ここに牧場があったという記録は見つかりませんでしたが、戦国時代の古河公方家臣のなかには、大坪氏・村上氏という馬具作りの専門家がありました。古河城の近くに馬の放牧地があっても不思議ではありません。


牧野地にも、歴史を感じさせる小字名がたくさん残っています。


【カノイ塚】は、古河支所スペースU裏から国道354号(ダンプ道路)周辺。武蔵国に多く見られる地名で、柳田国男『地名の研究』によれば、庚申塚があった、あるいは、金鋳(かねい)塚があったことが由来という二説があるそうですが、川戸台の製鉄遺跡が近いことを考えると、金鋳塚説に魅力を感じます。

【鳳桐寺前(ほうとうじまえ)】は、語意通り鳳桐寺の前(東側)の台地。鳳桐寺は古河公方ゆかりの寺です。一方で【内道府】は鳳桐寺周辺。

【ラントウ裏】は、「鳳桐寺前」の東に隣接する台地。干拓前の御所沼はこの台地の下にまで広がっていました。【ラントウ前】は「鳳桐寺前」の南側。ラントウは「卵塔」で、丸みを帯びた石塔(無縫塔)。僧侶の墓として用いられます。この地名はここにある墓地に由来します。

【御所塚東】は総合公園から西に少し離れた「松月院御所塚」の周辺(東側)。さらに他にも【松月院東】という小字名もあります。場所は鳳桐寺やばんどう太郎の北隣。いまは新三国橋につながる国道354号(バイパス)がある一帯。その隣には【松月院前】【松月院裏】という小字も。松月院は明治初期に廃寺になり、いまは正確な位置が分かりませんが、小字名から「松月院御所塚」は、松月院中心部から、やや南東に離れていることが分かります。

【川戸台(かわとだい)】は、総合公園の西側、「御所塚東」の東隣。牧野地台地の南縁にあたります。古代の製鉄遺跡が発見されたことで有名。「川戸」は川渡や川の合流点に多い地名ですが、渡良瀬川から少し離れているので、地名の由来については要検討。


その他にも、

【長谷向台】、【香取東】、【香取北】、【十念寺下】、【神明東】は、寺社名が由来。【組向(くみむこう)】は、今の古河支所南東部で、足軽屋敷(鴻巣組)が近くにあったことから。【往還南】、【往還西】、【往還北】は、鳳桐寺〜御所塚の屈曲した古道から。【橋戸(はしど)】は総合公園敷地の北西部で、昔の御所沼がここまで広がっていたことから、橋がかかっていたと推定。その西にある【トラエモン(虎右衛門)裏】、【トラエモン前】は、おもしろい地名ですが、由来は不明。【押切(おしきり)】と【廿割囲内(にじゅうわりかこいうち)】は御所塚の南側・堤防の手前。【新田坪(しんでんつぼ)】は、総合公園と御所塚の間にある小字のひとつです。


参考

 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「旧新郷小字名考」


投稿2015/10/13


古河市の旧地名・その14 鴻巣とその小字名


昔の地名を知ることは、土地の記憶をたどること。今回は旧城下町の南にある鴻巣を紹介。古河総合公園とその周辺です。


【鴻巣の起源】

戦国時代に書かれたとされる『鎌倉大草紙』に「成氏は総州葛飾郡古河縣こうのすと云所に屋形を立」とあるので、かなり古い地名。起源はよく分かりませんが、埼玉県鴻巣市の地名研究では、韮塚一三郎氏が、河川にある「高の洲」(こうのす)起源説を唱えています。


古河の郷土史家・鑓水氏はこの韮塚説をもとに考察を進め、古河の鴻巣は南西北の三方が低地となっていたこと、そして東には、かつて流量が豊富だった向堀川があり、ここを水源とした大量の淡水が滲出して、周囲の低地に流れ込んだことから、

入江に囲まれ淡水の集まった「江の洲」(こうのす)と呼ばれ、さらに後には「鴻巣」に転じたと考えました。面白い見方です。鑓水氏にお会いできるなら、もっと詳しくお話を聞いてみたいですね。


【鴻巣の小字名】

いまはほとんど使われませんが、鴻巣にも歴史を感じさせる小字名がたくさん残っています。ちなみに小字は「こあざ」と読みます。どこかで聞いたような地名があるかも。。。


【城の地(しろのち)・古城跡】は古河公方の館があったところ、その東には【宿(しく)】と【出口】。城の構造を知る手掛かりになります。さらにその東には【古街道東(ふるかいどうひがし)】があり、古河公方館の東には南北に延びた古道があったことが分かります。


【徳星寺下・徳星寺山・徳星寺前】は宿の北隣。いまは横山町の徳星寺も、かつては鴻巣にありました。


【徳源院・徳源院下】は、第五代古河公方・足利義氏の娘、氏姫の菩提寺があったところ。いまは古河総合公園の敷地内です。


【中山(なかやま)】は、徳源院跡と公方館跡の間にある台地。ここも総合公園の中。芝生の広場と遊具・水遊びができる小川のあたりです。ここには徳星寺と同様に、公方ゆかりの寺院・竜樹院がありました。


【元屋敷(もとやしき)】は、国道354号線が三国橋方面と新三国橋方面とに分岐する交差点の南側。かつて足軽屋敷があったと考えられています。


【ザラメキ】は三桜工業などがある一帯。水音が起源。湧水が豊富だったことが伺えます。


【茶屋下(ちゃやした)】はラーメン店の「麺堂 稲葉」がある交差点付近。昔からここは南北に通じる「ふる街道」と野道の交差点で、通行人の休憩所が設けられました。


その他にも、

【大谷(おおや)】は坂間村との境界にあった大きな谷。【築道(つきみち)】は御所沼の一部を埋め立てた道。【八反田】は一町に満たない小さな水田。【源兵衛坂】は坂にあった関所の番人名から。【原境(はらさかい)】は原村との境界。【腰巻(こしまき)】のマキは牧で、馬を飼っていた「腰」(半円状の地形)。【北の内】は未開発だった舌状台地、いまもある香取神社はこの地域の西南端でした。【新山(あらやま)】のヤマは「谷間」、御所沼の干拓により田畑になったところ。【巣の崎】は「洲崎」の意味で、流入した向堀川の水が砂州を形成。【古道東(ふるみちひがし)】は古い野道があったことから。【臼繰谷(うすくりやつ)】のウスはウチやアサが転じたもの、クリは浅瀬の意味、【釜田(かまた)】は蒲(ガマ)が自生した低湿地、【八幡前(はちまんまえ)】と【虚空蔵東(こくぞうひがし)】は寺社から。【二入(にいり)】は、東北方向に延びた昔の御所沼の一部が先端で二股になっていたところ。


城下の町名と比べると、地形にもとづく地名が多いようです。


参考

 『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「旧新郷小字名考」

 鑓水柏翠「古河とその周辺の古代地名」『古河市史研究』No.8、古河市史編さん委員会(1983)


投稿2015/9/27


古河市の旧地名・その13 七軒町・表/裏新町・三/四/五丁目


明治期以降の比較的新しい町名のうち、現在は公式に使用されなくなったものを紹介します。


七軒町(しちけんちょう):

明治期に家屋が増えて、町並みを形成しました。一丁目通りから分岐して、上辺見村方面に延びた町通りです。もとは家が七軒あったことから生じた町名と思われます。現在の本町二丁目・四丁目の一部に相当します。


表新町・裏新町(おもてしんちょう、うらしんちょう):

廃藩置県により、古河に戻って来た江戸詰めの藩士のために、明治期に新しく作られた屋敷町です。日光街道の東側にあった新町(しんまち)と混同しないように、しんちょうと呼ばれました。表記も新町ではなく「新丁」とする場合もあったようです。

現在の宮前町と横山町三丁目の一部に相当します。鳥見町、すなわち横山町から雀神社に向かう町通りの、北側に隣接してあり、南側を表新町、北側を裏新町と呼びました。


三丁目・四丁目・五丁目(さんちょうめ、よんちょうめ、ごちょうめ):

昭和13年(1938年)、二丁目通りと鍛冶町通りの交差点から、今の松並町に抜ける国道が作られました。神宮寺・尊勝院の間と横町東側の空地を通って、北に延びる道路です。この道路の両側につくられた町なので、一丁目・二丁目の延長として、名付けられたものでしょう。現在の本町一丁目、横山町一丁目・二丁目・三丁目の一部に相当します。


参考

『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「旧古河町名由来記」

  初出 篠原静男「市内町名由来記」『古河市史料集第一集』


投稿2015/9/23


古河市の旧地名・その12 三神町・東鷹匠町・西鷹匠町


前回に続いて武家屋敷の町です。今回は城の東側、日光街道の西側にあった今の中央町から。


三神町(さんじんちょう):

 町内とその付近にあった社祠に由来。三神町の稲荷神社、大工町の恵比須神社(蛭子神社)、および、かつては古河城諏訪曲輪(現在の古河歴史博物館周辺)にあった諏訪八幡神社を指していると考えられます。諏訪八幡神社は北新町に移転しています。


東鷹匠町・西鷹匠町(ひがしたかしょうまち、にしたかしょうまち):

 藩の鷹匠役人が住んでいました。徳川家康が鷹狩りを好んだことから、その伝統が徳川家と家臣に受け継がれたため、城下町にはよく見られる町名です。例えば、館林市や土浦市、佐倉市などにも鷹匠町があります。


参考

『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「旧古河町名由来記」

  初出 篠原静男「市内町名由来記」『古河市史料集第一集』


投稿2015/9/4


古河市の旧地名・その11 片町・仲ノ町・白壁町・厩町


前回に続いて武家屋敷の町です。今回は城の北側。


片町(かたまち):

石町・江戸町から渡良瀬川・三国橋方面に続く、東西にのびた町通り。江戸町との境界には、藩主・土井家の菩提寺、正定寺があります。

通りの片側に建物が立ち並び、町を形成したことが由来。

江戸時代の片町は、南側に古河城の水掘と土塁が続き、追手門もありました。そして、北側には家屋が立ち並びます。

城があった風景の名残りともいえる町名です。


白壁町(しらかべちょう):

片町から垂直に北へ向う町通り。江戸時代に白壁が目立つ屋敷があったようですが、正確な由来は不明。いまでは静かな住宅地です。


厩町(うまやちょう):

白壁町と平行にのびる町通り。

江戸時代に藩の馬屋があったことが由来です。

城下町の西端にあり、雀神社が今でも鎮座しています。


仲ノ町(なかのちょう):

厩町と白壁町との間の「仲の通り」の意味だそうです。厩町・白壁町と同様、南北に長い町通りです。


投稿2015/9/2


古河市の旧地名・その10 天神町・東代官町・西代官町・鳥見町


江戸時代の古河は宿場町であると同時に城下町。商人だけでなく、屋敷町とよばれる武士のまちもありました。


天神町(てんじんちょう):

日光街道・横町の西隣りを南北に並行しています。数十年前までは、料亭や小料理屋が建ち並んでいたそうです。いまは住宅地が増えてきましたが、点在する飲食店は昔の名残りです。

由来は町の南にいまも鎮座する満宮。横山町から杉並町に向かうとき、クランク状に道路が折れたところです。江戸時代は地福院の境内にありましたが、お寺の方は明治に廃寺となりました。


東代官町(ひがしだいかんちょう)・西代官町(ひがしだいかんちょう):

どちらも天神町の西隣りを南北に並行する通り町。江戸時代初期、奥平忠昌が藩主の頃には、代官役の武家屋敷がありました。


鳥見町(とりみちょう):

日光街道・横町から、雀神社方面に向かって東西に走る町通り。天神町や東代官町・西代官町などの北端と接続しています。

江戸時代に藩の鳥見役がいました。鳥見役は鷹狩りをする主君専用の狩猟地(お鷹場)を巡見する役です。


これらはみな藩政時代の名残りを感じさせる地名です。


参考

『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「旧古河町名由来記」

  初出 篠原静男「市内町名由来記」『古河市史料集第一集


投稿2015/8/29


古河市の旧地名・その9 北新町・南新町・青物横丁・七軒町・八幡町


今回は旧古河城下のうち、日光街道の東側にある町通りを紹介します。


北新町(きたしんまち)・南新町(みなみしんまち):

日光街道と並行して南北にのびた町通りです。江戸時代のはじめごろは、新町と呼ばれましたが、宝暦年間(1750年ごろ)に北と南に分かれたようです。日光街道に面した町に対し、新しく形成された町という意味。北新町には諏訪八幡神社、南新町には大聖院があります。

江戸時代、古河の町が拡大していった様子を教えてくれる町名です。


青物横丁(あおものよこちょう)(青物町とも):

日光街道沿いの一丁目から、垂直に分岐して東の七軒町につながる町通り。一丁目との丁字路に青物の卸売をしていた八百四郎(八百屋四郎兵衛)がありました。今で言う青果市場です。


七軒町(しちけんちょう):

明治以降に人が増えましたが、江戸時代には家が少なく、七軒しかなかったことに由来すると推定されています。慶応年間の絵図には、「野道」と表記されており、意外と新しい町だったようです。


八幡町(やわたまち):

日光街道から境町方面へ東に分岐した町通り。八幡神社が名前の由来で、今でもこの町に鎮座しています。


参考

『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「旧古河町名由来記」

  初出 篠原静男「市内町名由来記」『古河市史料集第一集』

『古河市史 民俗編』古河市(昭和58年)

石川 治 監修 『目で見る古河・岩井・水海道の100年』郷土出版社(1998年)


投稿2015/8/27


古河市の旧地名・その8 肴町・元肴町・大工町


今回は前回の続き。旧古河城下のうち、日光街道の西側にある町通りです。


肴町(さかなまち):

街道沿いの一丁目から、妙光寺・宗願寺のある西側へ向かう町通りで、大工町との交差点まで。いまは米銀などがあります。

江戸時代には「御馳走番所」がありました。中下級の大名が古河宿を通行するとき、藩の掛員がここで出迎えます。ちなみに上級大名は少し南に離れたところにある「御茶屋番所」でした。

町名の由来について、ネットで調べると「川魚を扱う御用商人がいた」ようです。確かに古河には川魚のお店がたくさんありますが、そのような商人が本当にこの辺りにあったのか良く分かりません。いまでも文献などの関連情報源を探しています。


元肴町(もとさかなまち):

元肴町は現在、足利銀行やその隣接マンションの南にある狭い町通りです。現在の本町二丁目交差点から、三国橋方面に抜ける通りは近代にできたものです。江戸時代には街道から石町・江戸町・古河城方面へと向かうとき、この元肴町をクランク状に通り抜けました。

町名の由来も肴町と同じでしょうか。マンションの敷地にはかつて「百尺楼」という料亭があったそうです。川魚と全く縁がない土地柄ではなさそうです。


大工町(だいくちょう/だいくまち):

石町から南に延びて、肴町と交差する町通りです。お城出入りの大工が住んでいたことが町名の由来。しかし、江戸時代の中頃には大工は転出し、商人の町に変わりました。現在、肴町との交差点に「お休み処 坂長」、もう少し南にいくと福法寺、了正寺があります。


参考

『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「旧古河町名由来記」

  初出 篠原静男「市内町名由来記」『古河市史料集第一集』

『古河市史 民俗編』古河市(昭和58年)

千賀 覚次『古河藩のおもかげ』

山崎 實「古河城下の町名由来」 古河郷土史研究会報No.40(2002)


投稿2015/8/24


古河市の旧地名・その7 紺屋町・田町


今回は旧古河城下のうち、日光街道の西側にある町通りを紹介します。


紺屋町(こんやまち):

現在、古河テクノビジネス専門学校(旧市役所)などがある界隈。江戸時代には、ここに紺屋職人がいました。紺屋の仕事は着物などの反物に色や柄を染めることです。テクノビジネス専門学校の敷地も、大正期まであった日野屋(「大紺屋」)の仕事場(乾場)でした。


田町(たまち):

紺屋町の西隣で、隆岩寺などがあります。行ってみると分かりますが、この界隈は周囲より低地になっています。江戸時代は低湿地で、田圃のようだったことに由来すると考えられています。


参考

『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「旧古河町名由来記」

  初出 篠原静男「市内町名由来記」『古河市史料集第一集』


『古河市史 民俗編』古河市(昭和58年)


投稿2015/8/22


古河市の旧地名・その6 原町(はらまち)・台町(だいまち)


原町・台町ともに、日光街道沿いにある町通りで、原町は古河宿の南端、そして北隣の台町が続きます。


原町は、元々は原村と呼ばれ、藩主・土井利勝のころ、古河城下に組み入れられて、原町になりました。

少し時代が古くなりますが、天正18年、豊臣秀吉から氏姫に与えられた所領のなかに「・・・・、原下すわの下まで二一四石三斗、・・」とあり、戦国時代にさかのぼる地名でした。ちなみに、氏姫は最後の古河公方・足利義氏の娘で、義氏逝去後は、古河足利家を背負っていた女性です。

地名の由来はよく分かりません。「野地が多い場所で、自然と住民に呼称されていたもの」と推量されています。


台町は、原町ができる前は、ここが古河城下の「台」にあったことから名づけられたもの。「台」は入口にあたります。


参考

そ『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「旧古河町名由来記」

初出 篠原静男「市内町名由来記」『古河市史料集第一集』)


投稿2015/8/19


古河市の旧地名・その5 石町(こくちょう)・江戸町(えどまち)


日光街道に面した一丁目・二丁目付近から、垂直に西へと延びる町通りです。


日光街道に近いほうが石町、さらに西へ続く正定寺までの町通りが江戸町。

ここにも大きな商家が連なり、江戸時代は城下でもっともにぎわう町通りのひとつでした。宿場の施設が多い一丁目・二丁目と異なり、石町・江戸町は流通業を営む商家が中心です。

さらに西に進むと、武家屋敷がある片町を経由して、渡良瀬川の船渡河岸があります。この町は陸上交通(日光街道)と水上交通を結んでいました。


石町は米穀商が集まりました。同じ読みの穀が石に転じたとされています。明治中期まで14軒の米穀商があったそうです。


江戸町は江戸のようににぎやかな町の意味だそうです。今は古河文学館・別館の永井路子旧宅があり、江戸時代後期の雰囲気を伝えてくれます。


なお、ここで出てきた地名の地図はWikipedia の記事「古河宿」のものが便利です。wiki 古河宿 で検索してみてください。


参考

『古河通史 下巻』柏翠会(平成4年)、「旧古河町名由来記」

初出 篠原静男「市内町名由来記」『古河市史料集第一集』


投稿2015/8/17


古河市の旧地名・その4 一丁目(いっちょうめ)・二丁目(にちょうめ)


江戸時代、古河城下・古河宿の中心は日光街道に面した町通りで、南から台町・一丁目・二丁目・横町。つまり、これらの町通りの中心部を2つに分けて、一丁目、二丁目としたものです。特に二丁目は、今では古河駅から西に直進した突き当り・足利銀行や常陽銀行付近からその北側に伸びた通りに相当しますが、本陣や高札場、脇本陣が集まっていました。また、城下で最大の商家とされた丸山儀左衛門、そして、神宮寺、尊勝院も二丁目です。


ちなみに、三丁目・四丁目・五丁目も聞いたことがある人も多いのでは? こちらは比較的新しい町名です。昭和13年(1938)、神宮寺・尊勝院の間から、横町東側の空地を通って、今の松並町に抜ける道路がつくられて生まれた町で、江戸時代にはありませんでした。一丁目・二丁目の延長として、名付けられたものでしょう。


投稿2015/8/14


古河市の旧地名・その3 杉並町(すぎなみちょう)


いまの横山町一丁目と中央町一丁目の境界周辺。旧日光街道が曲の手から横町へ北に折れる交差点を、そのまま直進するとやがて杉並町。ここにある旧武家屋敷の土塀は、よく観光案内で紹介されます。


ふと考えてみると、この界隈は、昔は武家屋敷の町で、今も大きな杉の並木とは縁がなさそうな雰囲気。何かありそうですね。


実は江戸時代の初期、藩主・奥平忠昌が城下町の拡張・整備を行う前には、この付近は町のはずれにあたり、杉の木が立ち並んでいたそうです。


戦国時代・古河公方のころの風景が町名の由来でした。


当時、古河の城下町は城北にあり、厩町・仲之町・白壁町、つまり、雀神社の南方から南東にかけて展開していたと考えられています。(*1) つまり、古河公方時代、古河の城下町は、雀神社と杉並町の間の狭い範囲に展開したことを、この町名は教えてくれます。


*1: 中島 茂雄 「古河城下町の形成と終焉」『北下総地方誌』創刊号、北下総文化調査会(1984)


投稿2015/8/12


まちの歴史を知るには、古い地名も知っておきたいもの。今日も昨日に引き続き。。。


古河市の旧地名・その2 横町(よこまち)


いまの横山町一丁目から三丁目のうち、旧日光街道沿いの町通りは、横町と呼ばれました。この「ヨコマチ」は今でもときどき使われます。

ここには、地域交流センター(はなももプラザ)、徳星寺、正麟寺、本成寺があります。ご存知の通り、古河城下で随一の繁華街でもありました。


ところで、なぜ横町と呼ばれたのでしょう?


江戸時代の前期・寛永年間の古い絵地図を見ると、いまの曲の手が横町、横町は野木町と呼ばれていたようです。

曲の手は、古河駅西から日光街道を北上し、鍛冶町と接する十字路を反対の西側に折れ曲がった先。かつての日光街道は、ここでクランク状になっていました。


つまり、日光街道がいったん横にずれる町通りがもとの「横町」。実は分かりやすい由来でした。


そして、江戸時代の後期・慶応年間の絵地図では、かつて野木町とされていた町通りが、おなじみの横町に変わっています。江戸時代のある時期から、現在まで続いてきた町名だということが分かります。


投稿2015/8/11


いまの住所は、本町・中央町・西町・北町など、機能性重視でやや機械的。

しかし、つい数十年前までは、江戸時代からの歴史を刻んだ古い町名が使われていました。まちの歴史を知るには、そんな古い地名もぜひ知っておきたいものです。

私自身はそんなに古い人間ではない・・ (^_^;) ので、人から聞いたり、読んだりした知識ですが、いくつか紹介していきたいと思います。

まずは、有名なところから。


古河市の旧地名・その1 鍛冶町(かじまち):

いまは本町一丁目。古河駅西部を南北に貫く旧日光街道は、神宮寺・尊勝院あたりで十字路になります。ここから東に延びる町通りが鍛冶町。昨年、拡幅・歩道整備され、市の文化財・日光街道道標もこの交差点に移されました。

みらい蔵や富岡蔵、宝輪寺がここにあります。

江戸時代初期、藩主・奥平忠昌は、野木神社南方の台手箱にいた鍛冶職人たちを、城下町の東端に移住させました。古河は冬になると、西風が激しくなることから、万が一に備えて、火を使う鍛冶職人は城下の東端に配置されたそうです。

ちなみに、鍛冶職人というのは、鉄の刃物や農具・工具を作る人たちです。

江戸時代の中頃には、職人たちは姿を消し、商人の町に変わっていきます。