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かつて古河公方が拠り東都と謳われた古都・古河。
この歴史あふれる古河をもっともっと楽しんじゃおう!!という団体です。

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古河史楽会
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古河史逍遥(No.51〜No.74)

投稿2016/7/22


No.74 こじり通し国光


古河公方家から、豊臣秀吉・徳川家康・紀州徳川家・西条松平家へ伝えられた名刀「こじり通し国光」について。

今回で『古河史逍遥』全74話の紹介は終ります。

これまでお付き合い頂きありがとうございました。

なお史楽会の『古河史逍遥』転載は、筆者から許可をいただいています。著作権にもご留意ください。

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 天下人豊臣秀吉が愛蔵した刀剣類は当然ながら、質といい量といい、当時天下一のものでありました。これは秀吉ばかりでなく、当代の最高権力者であった、室町将軍家、織田信長・徳川将軍家も同様であります.又、それに準ずる権力者群も同様にそれなりの刀剣を保持しておりました。

 これ等権力者は武家でありますから、刀剣に代表される武具を尊重したのでありますが、武具を実際に使用すると云う点ばかりでなく、各武将間で贈答しあったり、軍功として授与したり、授与されたりしておりました。又、武家ばかりではなく、皇室、公卿等も実はかなりの名刀剣を保持しておりました。

 現在でも、皇室を始めとして、旧き家柄を伝える旧大名家では中世より伝来する名品が存在しております。

 古河公方家も室町時代には、この例に洩れるものではありませんでした。「古河市史・中世編」の文書史料を通して見ても、その遣り取りをした刀剣の数は、誠に多数であります。ただし、刀剣の贈答の例は多数でありますが、古河公方家文書では、いちいち刀剣の銘が記されて無い事は、はなはだ残念であります。これは当時の書札礼の悩例により、刀銘は書かない事を、定め事とした事によると推定出来ます。ですからどの位のランクの刀剣が、贈答の対照になったかは不明であります。

 ただ僅かばかりの例でありますが、公方とその関係者の相互の贈答の時の刀剣銘。正真・国信・景光・一文字・吉家・師光・新藤吾国光・兼元・ないし簗田高助が諏訪大宮司に贈った正宗・等が判明致します。古河公方家ではありませんが、室町将軍義政が、古河公方成氏と離反させくく、成氏に属していた武将や上杉氏に贈った刀剣銘も正恒・友成・国吉等であります。これ等の刀剣は皆、最上級の刀剣でありました。

 数少ない例より、他を比較する事は危険でありますが、古河公方関係の贈答刀剣類は、大変に質の良い物であった訳です。ただし、現代の様に、これ等の刀剣を誰かが、真偽を鑑定する訳ではありませんので、多少の偽物も有った事は否定出来ないのであります。

 所で六代古河公方義氏(筆者は五代公方藤氏の存在を認めております。何故ならば(1)父親の晴氏は、藤氏の家督を認めている。(2)朝廷も近衛前久を通して、藤氏の公方就任を認めている(3)室町幕府も藤氏を上杉謙信を通して認めている(藤氏の藤は将軍義藤(後の義輝)の一宇拝領)(4)公方は管領とワンセット体制で成立を認められるものであるが、管領上杉憲政、及び上杉謙信の両管領も藤氏を関東公方と推載している。(上杉家伝来の相州広光の現重文の脇差は?[1]に永禄四年「自古河様被下」とあり、この古河様を上杉家では義氏と伝えているが、永禄四年より古河様は当然藤氏を指す文字であります。)(5)北条氏に属しない、東国大名は永禄九年の藤氏死去までは、藤氏の関東公方を支持している。等々であります。)の没後、その娘氏姫(氏女)より、秀吉に天正十八年の末頃、こじり通し国光が贈られています。これは天正十八年五月の小田原落城により、北条氏は没落しますが、北条氏に属していた古河公方家は、本来ならば全領地を没収になる所を、堪忍分として三百三十二石の土地とその家臣達の住居地等を給与・安堵されて、その御礼として国光の脇差を贈ったものです。

 この国光は関東公方家重代の刀剣で、足利持氏が応永三十一年(一四二四)十一月に、叔父の稲村御所足利満直に贈りました。満直も永享の乱で自刃しますが、この刀は古河公方成氏の手元に帰り、以降代々古河公方家に伝わったものです。

 この刀が秀吉の物になると、彼は大変に寵愛して、大阪城にある愛刀保存箱の第一位である「一の箱」に入れる程、重宝視されています。大阪御物と云われる秀吉愛刀三十一振の内の一本でありました。

 時代は降り、大阪夏の陣で大阪城は落城焼亡してしまいますが、その時に国光も他の多くの刀剣と共に焼けてしまいました。この焼けた刀(焼身と云う)群は、直後家康の元へ届けられて、幕府抱え鍛冶越前康継の手で再刃されています。(焼身になると焼きがもどって、刀剣の用をなさなくなる。ただし再刃しても、地鉄が緩んで本来の美しさが無くなる。)そして家康の駿府城の蔵に入りました。

 家康没後、これ等の刀剣も、将軍家と御三家へ分配されましたが、こじり通し国光は紀州家へ分配され、後年紀州家より分家の西条松平家に再分配されました。それより江戸時代には代々西条家が所有していたのであります。刃長一尺五厘。ただし現在は九寸七分五厘(二九・五cm)表裏ともに太い刀樋のなかに、差し表は三鈷柄の剣。裏は倶利迦羅[2]竜の浮き彫りされ、板目肌立った地鉄に、広直刃、小乱れまじりの焼刃。国光の二字銘。勿論「享保名物帳」所蔵の名物であります。こじり通しの異名は、この刀があまりに鋭利の為、ある日、鐺[3](鞘[4]の底部)より刃が前に付き出てしまった事に由来するものでありましょう。

 なお古河市史・中世編の岩上家文書「献上刀剣・脇差覚書」中の刀剣全品は解説にある、岩上氏が秀吉に献上した刀剣名ではなく、大阪落城の時に焼身になった刀剣を、大阪城より、上様(家康あるいは秀忠)のもとに届けたと云う覚書であります。

 国光銘の刀剣で、有名なものは両者があり、来国光と新藤吾国光です。ここで取り上げた国光は新藤吾国光です。新藤吾は正宗の師匠と云われ、鎌倉鍛冶の祖と称されています。


参考文献「豊臣家御腰物帳」「享保名物帳」

「本阿弥光徳押形」


脚注

[1] はばき

[2] くりから

[3] こじりさや

[4] さや


投稿2016/7/21


No.73 大阪のドンドロ大師


真田幸村(信繁)が作った大坂城・真田丸の周りは、江戸期に古河藩領となっていました。

ここにドンドロ大師として有名な善福寺があります。

土井殿大師が訛って、ドンドロ大師になったとも。

今回はドンドロ大師をめぐる話題。

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 大阪市天王寺区空堀町は大阪市の上町台地内に位置しています。空堀とは豊臣秀吉時代の大阪城総構えの南方の空堀があった所で、堀の前方には、有名な真田幸村が造った真田丸が存在した所であります。勿論この空堀は大阪冬の陣後に、徳川方によって、埋められてしまい、空堀は現存していません。

 この町内にある善福寺は、大阪ではドンドロ大師として有名な寺院です。ただし善福寺は明治四十二年に大阪近郊より当地に移って来た寺院で、それ以前は高野山岩本院派の鏡如寺と云う寺でありました。

 同寺は宝暦二年(一七五二)高野山の僧、法道が弘法大師を本尊として開いた寺院で、この大師像は、当所を所有していた土井大炊頭が(江戸時代当地は西成郡に属しており、古河藩領上方添地[1]名では西成郡堀村と出て来る。前に筆者は堀村を現淀川区十三本町附近と考察したが、誤りかもしれない。明治六年に清堀村と改め明治中期以降は清堀村から空堀村となる。)深く信仰していた所から、土井殿大師と呼んでいるうちに、訛[2]ってドンドロ大師と呼ばれていました。又一説には、この大師は土井邸内にあった大師堂に祀られていたものを移したとも、鏡如寺は土井邸の跡だともいわれています。境内には現在も土井氏と刻まれた石灯繩が存在しております。

 この土井大炊頭とは時代考証から、肥前唐津から古河へ転封となった土井利里公の事で、利里は明和六年(一七六九)?安永六年(一七七七)まで、京都所司代でありました。この時分京都より、自領のある大阪へ度々出向いて、領地を検分したものと思われます。(利里の京都所司代時代、禁裏[3]使用金不正支出事件を、幕府方の女スパイが、その操と引き換えて、不正役人の妻となり、不正を暴いた事件は有名です。ただ利里は所司代就任の期間が永く、終に老中就任出来なかった事は、この事件と関係があったかもしれません。)

 この前後、大坂では毎月二十一日の御大師さんの日に「大師めぐり」と云う信仰にこと寄せたレクリエーションの様なものが流行し、ドンドロ大師もその一つに選ばれ、大層な賑わいを見せております。

 これに眼を付けたのが、近松半二作の「傾城阿波鳴門」[4]と云う浄瑠璃芝居であります。これは近松門左衛門の名作「夕霧阿波鳴門」に、伊達騒動をからませて面白く、おかしくさせた作品で、阿波十郎兵衛という忠臣が御家騒動の悪人を倒す為、女房お弓と大坂へ移り、盗賊を働きながら財宝を得て、主家再興を計ろうとする十段物で、とりわけその八段目に、巡礼となって両親を探す娘おつるの所持金を奪う為に、実の娘とは知らぬ十郎兵衛が騙して殺し、後で女房お弓が気が付くという愁嘆場を仕組み、大いにヒットしました。

 さて十郎兵衛が娘とも知らず、おつるを殺す場所でありますが、最初はどことも知れず、十郎兵衛が自分の家に、おつるを引きずり込んだとなっていましたが、何回目かの上演の時に、背景を大師詣りで賑わう、ドンドロ大師前の路上に設定しました所、大評判となり、おつる殺しの場所を一度見ようと押し掛ける者が多数出て、ドンドロ大師は益々有名になりました。

 勿論以上の話しは創作であり、虚構でありますが、「性放蕩にして、流浪して阿波より大坂に住み、常に大酒、口論し、悪事がつのり盗賊となり、住居は玉造のほとりにあったと言う、十郎兵衛なる者が、巡礼娘がいささかの所持金を持っている事を知り、欺きて我家に連れ帰り、なぶり殺して所持金を奪った。しかし後に露顕して召捕れ、死罪になった。」と云う所が史実のようであります。ただし十郎兵衛義人説もありますから、真実は不明であります。十郎兵衛一家は実在の様子です。

 この十郎兵衛が銀十郎と仮名して住んだと伝説のある玉造岡山町(一説元伊勢町)はドンドロ大師のある空堀町(江戸時代は堀村)の近くであります。ですから芝居を観た人々がドンドロ大師と十郎兵衛元住居を見学に行ったのでした。(史実と演劇が入れまじる)

 十郎兵衛の処刑は元禄十一年(一六九八)十一月であって、「傾城阿波鳴門」の初演は明和五年(一七六八)ですから八十年のへだたりがありました。利里の京都所司代就任が明和六年でありますから、数回目の上演をドンドロ大師前の路上に設定した事は、時代的に適合します。

 鏡如寺は江戸末期には次第に衰え、明治六年に住職義等は僧籍を離れ、帰農したため廃寺になってしまいました。それで明治四十二年善福寺移転の際、旧本尊の弘法大師像も引き取って安置したので、再びドンドロ大師の名も戻り、今日では善福寺の事を、ドンドロ大師と呼んでおります。

 境内には日羅[5]を象[6]った勝軍地蔵があり、戦災でとけた剣も補修され見事です。他に昭和二十年六月一日の空襲で死亡した、空堀町民百余名の霊を祀る観音像、本尊を形どった金属製の大師像、門前の元佐藤詮大阪知事のドンドロ大師碑等があります。


参考文献「大阪史跡辞典」「大阪の町名」


脚注

[1] そえち

[2] なま

[3] きんり

[4] けいせいあわのなると

[5] にちら

[6] かたちど


投稿2016/7/20


No.72 剣豪菊地為之助


幕末古河藩の剣士・菊地為之助。

慶応四年、古河藩主・土井利与が勤皇誓約のために、京都に上った際には、選抜されて護衛役に。しかし江戸在住が長かったためか、古河では、あまり知られていませんでした。

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 古河土井藩の幕末の剣士についての研究は前に阿部仁之丞氏等が詳細に研究している。しかし全国的著名な古河出身の剣士菊地為之助については、今までだれも言及していない。

 小沢愛次郎は行田市出身の政治家で県識・代議士を歴任した人物であるが、剣道をこよなく愛し、幼年よりこれを修業し、後年は大日本武徳会の重鎮として、九段範士となり、軍や警察の師範を兼ね、大正六年五月の天覧試合にも出場した程の剣士であった。

 翁は最初旧忍藩剣道指南役松田十五郎に小野派一刀流を学び、二十五才以降の県議時代には旧古河藩の直真影流菊地為之助について指導を受けたと話されている。菊地はその当時仕事につかず、小沢邸に寄宿してそのまま三・四年程客分として暮らしていたようである。

 所で菊地が最初に古河の史料に登場するのは文久頃の分限帳で、江戸住まいの藩士で「給人・十人扶持・菊地為之助」と出て来る。彼がだれの子息かと筆者は調べたが不明である。ただし上級藩士の子息である事は間違いのない所で、天保十一年の江戸表分限帳に出て来る「用人役弍百五拾石菊地勘左衛門直政」の関係者だと思われる。多分大塩事件で活躍した菊地鉄平の子息であろう。次の史料は「慶応四年御上京一件」で、家老小杉監物が幼君土井利与を擁して、京都の天皇に勤皇誓約の為強上京する事件を記録したものであるが、この時は江戸屋敷の腕に自信のある者を選抜して、誰衛役として上京せしめたと伝えられている。この警誰の人員の中に「御小納戸・菊地為之助」と彼は従者一人を従えて登場する。次は明治三年の「藩役員名画」の記録に「前従五位様御附・現米拾四石菊地為之助」として東京曙町屋敷住居の土井利則附家臣であった事が判明する。以降の記録は無い。当然翌年の廃藩置県、さらに秩禄処分によって藩士としての身分は消滅したのである。

 明治十七年警視庁では武術世話掛に対して撃剣等級を定めたが、これは二級より八級まで各級があるが、菊地は神蔭流剣士として三級を受けた記録がある。

 明治二十年六月の水上警察署撃剣大会には「元町署・菊地為之助」として出場している。同僚の元町署剣士では有名な高野佐三郎も出場している。

 話は前後しますが、明治十七年山岡鉄舟・鷲尾隆聚・中山信安等が創立した「剣槍柔術永続社」の発会開場式には、剣術教授方として菊地は二刀流の奥村左近太と模範試合とし立ち合っている。十一月十七日付「東京日日」には「両者の術の熟練に驚かざるはなし」と書かれている。後年剣聖と云われた高野佐三郎も修業時代は警視庁で菊地を、師と仰いで稽古に励んでいる。その後いく年もなくて彼は警視庁を辞職した様子で、明治二十五年頃には前述の行田の小沢宅に寄宿するのであった。明治三十年以降の消息は一切不明である。

 菊地は古河藩士といっても江戸生まれの、江戸育ちであり、古河にあまり知音もなかったと思われる。彼の師については全く不明であるが、神蔭流あるいは直真影流としての流派が伝わっている。当時の当流の代表者は男谷下総守信友。島田虎之助・榊原健吾・藤川兄弟等が存在した。これ等いずれかの門下であったと思われる。(一説東軍流も習めたと記録あり)

 為之助は天保十一年の「古河藩親類書」に該当する人物が見つけ出されないので、弘化から嘉永時代の生れと推定出来る。さすれば慶応四年の上京時には二十才前後であり、明治三十年頃には五十才位であったと思う。

 彼については前述の如く古河に住んだ事がなかったと思われ、その為か古河地方の史料や記録から漏れてしまった人物であったが、東京近辺においては武名の高い剣士であったのである。


投稿2016/7/19


No.71 福田英子(ひでこ)と間中村


明治期の社会運動家で、婦人解放運動の先駆者として有名な福田英子について。

英子が再婚した福田友作は、今の小山市間中の大地主で庄屋を勤めた家の出身。短期間ですが間中に住んだこともありました。

福田家は江戸期に、今の古河市東部・間中橋で新田開発。間中橋の地名は、小山市間中が元になっています。

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 福田英子(景山英子)と云えば日本女性史のなかでも、社会運動家として誠に著名な人物である。例えば新人物往来社発行「日本女性史人物総覧」の社会運動家編のタイトルは「福田英子から市川房枝まで女性の地位を向上させた51人」と題される程の人物であった。

 この英子が古河地方と関係があった人である事を知る者は少ないと思う。女史は慶応元年岡山藩士景山確の次女として生まれた。十七才の頃、岸田俊子の演説を聞き自由民権運動を志し、明治十八年二十一才の時に、それまで父母と共に開いていた私塾を投げ出して、自由党の大井憲太郎等の「朝鮮改革運動」(大阪事件)に加わり、四年間投獄される。大阪事件では古河地方の自由党員であった、館野芳之助・小久保喜七・淵岡駒吉も逮捕されている。女史は出獄後大井憲太郎と愛情を高め、大井の「妻とは離婚する」の言葉を信じ、内縁の妻となり、男児をもうけるのであった。しかし大井は女史の他にも親しき女性があって、女史はその不実を大いに攻めたて、断固として大井と別離してしまったのである。

 その後女史は再び東京で私塾を開いていたが、二十七才の明治二十五年に栃木県下都賀郡穂積村間中(現在小山市間中)の出身の福田友作と知り合い、結婚したのであった。友作は十八才の時米国へ渡り、ミシガン大学に入学している。後の衆議院議長粕谷義三はその当時の友人であった。友作は渡米以前すでに自由民権の運動家で、明治十六年五月十三日、古河二丁目共立座で開かれた演説会には代表者として出席しているのである(古河市史通史編)

 両人は結婚後朝鮮政府の法律顧問として渡韓を計画するが、福田家両親の妨害にあって挫折してしまった。一時福田の実家の間中に引き込んで生活もするが、田舎に馴染まず、短期間で東京へ再び出て行ったのであった。出府後の家庭生活は福田家からの仕送りも止まり貧困を極め、友作はその上に明治三十一年頃より脳を病み、翌年には発狂し、三十三年四月二十三日に三十六才の若さで病死してしまった。結婚生活は八年間で二人の間には三人の男児が生まれていた。この事により女性にも経済的自立力が必要である事を確信し、翌年の亡夫の命日を記念して角筈女子工芸学校を設立し、又授産所を設立したのであった。女史の自伝「妾[1]の半生涯」に依ると二人の結婚生活は貧しかったが、大変に幸福であったと自述している。互いに尊敬しあった事が理解出来るのである。

 その後は堺利彦・幸徳秋水・石川三四郎等の影響により女性解放・社会主義に傾倒して行き「平民社」創立に参加、明治四十年には日本初の社会主義女性新聞「世界婦人」を創刊する。厳しい弾圧と生活苦のなか同紙を三年半余持ち続けたのであった.その後も平塚雷鳥の「青踏」などを舞台に、女性解放論を展開し後進の育成にあたった。又足尾鉱毒事件の谷中村は亡夫友作の郷里近くであった事もあり、田中正造翁等を潮田千勢子等と共に支援続けるなど、生涯を通じて社会運動家であった。昭和二年五月風邪がもとで心臓病を併発し、死亡する。行年六十三才。

 昭和四十一年五月に「福田英子を記念する会」によって英子の眼る豊島染井墓地に記念碑が建てられ、同年には郷里岡山市笠井山公園にも英子の記念像が建設され、平塚雷鳥女史による文章が書かれている。

 なを友作との間の子供・哲郎・侠太・千秋の内長男哲郎は幼児の内に、結城町の親類に預けられて成人し、その子息福田友一氏は古河第二小学校校長や結城市教育長を歴任して、現在も結城市で健在で活躍している。

 友作が実家は昔より大地主で庄屋を勤め、享保時代には福田長左衛門が出現し、飯沼開拓に関係し、北陸地方より浄土真宗の移民を勧誘して一村を開拓した。これが現在の三和町尾崎長左衛門新田である。今でも長左衛門には出身地の名を取った間中橋が存在する。

 これ等北陸の移民は当初総和町下大野の真宗長命寺の檀徒としたが、明治になってから、信徒の多い三和町尾崎にも新寺を造りそこの檀徒となっている。

 かくなる訳で古河地方は社会運動家の男・女の先駆者である前述の片山潜・福田英子の両者と深く関係するのであった。しかも両人とも岡山県人とはいかなる緑にや。

※小山市間中は間々田粟宮[2]の若盛酒造の所を左に折れて進み、思川を渡った所である。福川家は現存する。


参考文献 岩波文庫「妾の半生涯」


脚注

[1] わらわ

[2] あわのみや


投稿2016/7/18


No.70 足利市にある成氏夫人の墓


足利市は、古河の歴史にとっても、ゆかりの深いまちです。特に、足利市街の北西方向にある板倉・松田は興味深い地域。

光明寺跡(北台観音堂)は、古河公方・足利成氏夫人の墓があると伝わります。近くの喜福寺は成氏開基。足利市は成氏が完全に掌握していた土地ではありませんから、この地域には特別な背景がありそうですね。さらに、養源寺は古河藩主・土井利勝が中興し、雷電神社にも利勝が石段を奉納。板倉には土井氏が造ったとされる堤もあるそうです。

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 足利市の東部に板倉・松田と云う地区が存在する。この板倉は江戸時代の大名板倉氏の名字の地として有名である。板倉氏は足利源氏系渋川氏の一族である。

 ところで板倉の北部に松田の村落があり、そこの旧光明寺跡(現在は北台観音堂と称されている)に足利成氏の室と云われる墓石が現存している。墓石に文字は刻されていないが、寺の記録では光明寺殿春山富公大禅定尼の墓とされ、土地の口伝によれば、成氏公の旗本柏瀬丹後守が明応六年(一四九七)に主命により岡田某と共に公の室萩野を擁して、古河より松田の里不入に土着し、室の没後この墓と寺を造り厚く菩提を回向したとされている。又一説では光明寺殿は成氏の夫人ではなく、公の二の姫宮であったともされている。

 この北台光明寺は新義真言宗の寺院で明治七年に廃寺となってしまったが、現存する観音堂に安置されている本尊聖観音は台座共五尺七寸の十一面木造観音で、台座の内面には簗田氏云々の文字が残されているそうである。そして寺伝では吉良家代々の守本尊であったとされ、当地ではそれで成氏室は吉良氏出身の女性であったかと推定されている。

 成氏は関東公方であったのだから、貴人の常として正室の外に多くの側室が存在していたのは当然であると考えられる。現在判明しているのは上杉持朝の娘と云われる正室と、政氏を生んだ簗田氏出身の女性である。ここにもう一人吉良家出身の女性が出現するのであろうか。この本尊には胎内仏の金銅十一面観音(六寸)が存在し、こちらは成氏の守り本尊とされている。

 光明寺殿が吉良氏出身の女性であるかどうかは不明であるが、上杉持朝と足利地区は深く関係している。古河市史中世編の83号文書は宝徳二年五月に成氏が持[1]に対して「足利荘代官早速可被差下事」とあって判明する。足利地区は足利氏の本貫の地であるから、代々京都将軍の直轄地であったが、持氏段階では関東府の管理となり、永享の乱後再び京都将軍の御料所となって、上杉氏が代理管理していたと思われ、享徳の乱後成氏は足利荘に強入部するが、結果再度寛正末年には上杉氏が押さえる所となり、上杉氏被官の長尾景人が文正元年に(一四六六)に幕府の代官職として勧農城へ入部するのである。

 前述口伝に明応六年に成氏室が松田へ逃れたと書きましたが、一説では文明六年(一四七四)とも伝えられていて、こちらの説では上杉氏に古河城を攻められた成氏が、身の危険を感じて、上杉持朝の娘である成氏室を当時上杉氏一門が管理する足利地区に逃して、室の安全を保つ策に出たとも考えられる。どちらにしても確実な史料がないので、時代、人物共に不明であって推定の域を出ません。ただ観音台座に簗田氏云々の文字が書かれている事は古河足利氏との関係はうかがえると思える。

 又松田には松田山喜福寺と云う臨済字の寺院があり、寺記によれば「明応六年九月の草創にして、古河公方足利成氏公当荘の松田郷にありし時伽藍を建立し、正庵禅師を請じて開山とす」となっておる。本尊の釈迦如来像は野渡満福寺の本尊と同じく、円覚寺系の宝冠をかぶる如来像であって、両寺の関係もうかがわれる。の正庵和尚とは松田近くの行道山浄円寺が永和二年(一三七六)に足利義満によって開基し、大喜法忻の弟子偉山方裔が開山であるので、彼の法孫であると思われる。

 当地には又、養源寺と云う臨済宗の寺院もあって、こちらは中世の板倉家代々の菩提寺であったようで、江戸初期の中興に当っては当地の領主であった土井利勝の力が大きかったと伝えられる。

 旧板倉城跡は要害山と云われる山頂にあり、急勾配を持った山城で、現在は雷電神社が頂上に鎮座している。この参拝道の二百四十九段の石段は土井利勝が奉納したもので、伝説によれば、雷ぎらいの利勝が江戸の屋敷で雷に会い、火鉢ごとそれを獲えた家臣に「それなる、暴れ雷を自分の領地の板倉雷電神社の床下へ深く埋めよ」と命じたと伝えられる。現在でもその火鉢は前述の喜福寺に現存する。

 利勝が雷嫌いであった事は本当らしく、大阪市にあ

るドンドロ大師も利勝の大阪屋敷内に奉った雷電社が

草創であって、正式名は土井殿大師であったと伝えら

れている。

 このような訳で松田・板倉地区は中世より古河と大変に関係のある土地である事が理解出来る。江戸期にも足利市街区を含めて元和八年の永井氏時代より天和元年(一六八一)の土井能登守利房の越前大野移封まで、古河藩領が大部を占めていたので深い関係があったのである。現に板倉には土井氏が造った堤が現存している。


参考文献「柏瀬家の歴史」


[1]転載者註 「持朝」の朝が脱落したものと思われる


投稿2016/7/17


No.69 古河の長尾家


戦国期には上杉家の家宰として活躍していた長尾家。

有名な上杉謙信も元は長尾家で、上杉憲政に家督を譲られ、名を改めました。

長尾五家のうち、足利長尾氏の後裔は土井利勝の家臣となり、江戸期を通じて、古河土井藩の重臣として活躍。

古河市と足利市の歴史の接点でもあります。

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 古河土井藩に長尾家が存在しました。筆頭家老の小杉家に次ぐ重臣(城代の土井内蔵允家は別格)で、歴代とも成人後は家老職に就任する家柄でした。

 この長尾家の初代は宣景といい、父親は足利・館林の城主であった長尾顕長であります。顕長は実は太田市金山城主由良(横瀬)成繁の次男で(幼名熊寿丸)当時足利・館林の城主長尾景長(政長)が永禄十二年七月十五日に死没した後、婿入して長尾氏を継いだのです。

 足利長尾家の先祖は相模国長尾郷(鎌倉市大船地区長尾台)を本拠とした平氏流鎌倉権五郎景正で、平安末期から同族・大庭・三浦・俣野・梶原氏と共に鎌倉党を形成していました。景正は歌舞伎〃暫″の主人公。

 長尾氏は景茂時代宝治合戦で三浦氏に与党して滅亡し、孫の景為は上杉氏を頼ってその家臣となりました。南北朝期には長尾景忠は足利家内の上杉家重臣として活躍し、上杉氏が上野・越後の守護職に補任されると、その守護代となり両国に足場を築いたのであります。

 長尾氏はその後、五家に分かれますが、足利長尾氏は鎌倉に住んでいた長尾氏で代々新五郎を称する長尾氏です。享徳三年(一四五四)に長尾実景は上杉憲忠と共に、足利成氏に謀殺され、享徳の乱が開始されました。その子景人の時代に戦功によって幕府より足利荘の代官職に補任され、文正元年(一四六六)以降足利庄の支配者になったのであります。長尾氏の嫡流は代々新五郎を名乗っていますので、足利長尾氏が同族中の嫡流であると云われています。(足利入部前は上野藤岡近辺に住居すると云われる)

 戦国時代になり、上杉謙信(長尾景虎)は永禄五年二月には館林城を攻め、城主赤井文六照康は降伏して城を出て忍の成田氏を頼り退出します。謙信はその跡を同族である長尾景長に預けました。(景長は最初は主君上杉憲當[1]の一字を受け當長を名乗り、永禄四年から長尾景虎の景を拝領して景長と名乗る。一説政長とも称したとされるが史料上は疑問)景長は足利より館林城へ身を移したのでした。(館林城の方が戦略上重要地だった為です。足利・館林領は合計で十八万石ありました。)

 顕長が長尾氏を継いだ時点は、太田の由良氏の勢力が最大の時期で、父成繁は同年の越相同盟の成立にやや北条氏側として上杉氏との交渉に尽力中で、この長尾家襲継には上杉・北条両方からの支持があったと思われます。

 時代が降り、上杉・武田・北条の三つ巴の均衡の上に辛うじて独立性を保ってきた、由良・長尾氏に対して、謙信死去・武田の滅亡の後に北条氏の圧力が強まって来ます。天正十二年二月に、厩橋城の滝川一益を追ってその城を手にした北条氏直は、顕長とその実兄由良国繁を招いて両者をそのまま城へ幽閉してしまいました。そして佐竹氏攻撃の為に、金山城と館林城の借上げを強要し、勝手に両城に攻撃をしかけて来ました。城主の存在しない両城は天正十三年正月には降伏しています。両人は氏直と会見して忠誠を誓っておりますが、館林城は没収され、そこには北条氏の武将が入り、顕長は足利城へ退去したのです。国繁も金山城から元亀三年に父成繁が奪った桐生城へ退去させられたのです。

 天正十八年の秀吉による小田原攻めの際には、両者は氏照の配下に属して城内竹ノ鼻の守りに付くが、両者の母である成繁未亡人妙印尼は北条氏に属さず、孫の貞繁と共に、信濃から確水峠を越えて小田原へ進軍する前田・上杉等の軍勢を迎えて、道案内として従軍した功が秀吉に認められ、由良国繁は常陸牛久に五千石を宛行われました。一方顕長は領地を没収され、常陸の佐竹義宣に一時預けられました。しかし佐竹に預けられた事は史料になく、疑問であり、兄等と共に牛久へ移住したものと思われます。そして元和七年(一六一二)五月八日(あるいは八月五日)に死没します。

※由良成繁室妙印尼は館林青柳城主赤井家堅の娘(一説館林城主赤井重秀の娘)

 顕長の子息が長尾修理宣景であります。彼は領地没収後、上野国に住んでいましたが、慶長年代末に土井利勝に仕えております。この仲介は徳川家康の臣近藤石見守秀用がしたと伝わっております。(近藤は当時上州青柳一万五千石の藩主であり、顕長とは青柳出身の母を通して関係が深い。)宣景は両度の大阪の陣では土井勢の武者奉行として軍勢を指揮しています。知行高は千二百石でありました.寛永十六年六月四日に死去しています。行年は不明ですが、長命であったと思います。彼の妻は由良国繁の娘ですから、いと子問の結婚です。

 土井家の重臣となった長尾家は刀剣と縁の多い家柄です。当家には古来より蝶丸と呼ばれる三尺近い宝刀があり、(三条宗近作)遠祖鎌倉権五郎景正の所持していたものと伝えられています。長尾家の宝刀として有名なもので、当家が長尾嫡流を示したもので、正月には太刀の前に「しめなわ」を張り、藩中の家臣等が拝見にいったものです。(蝶丸とは平家の家紋に由来する。一説朝霧丸とも言われていたらしい。)

 新刀の開祖である堀川国広は顕長の求めにより同家所蔵の備前長義写しの刀剣を足利で作っており、天正十八年には足利学校でも短刀を作っております。

 足利長尾家の当主は代々文化的な領主で、自画像や山水絵で重要美術品に指定される物を製作しております。一説によれば狩野正信とは血縁関係があり、画家の血が流れている様子です。(正信は景長より絵を学ぶと云う伝説もあり、正信の父景信の景は長尾氏の景の字也。)

 おかしな話しですが、長尾家の人達は代々皆美男・美女でありましたが、何故か顔面のどこかにアザがあったと伝わっております。

 何はともあれ長尾家と古河は南北朝以来関係深く、研究すればするほど興味がつきません。戦前まで長尾家墓地は大聖院にありましたが、戦後、先祖の菩提寺である足利の長林寺へ墓石を移して、史料一切は今日長林寺に存在します。

※長義の刀は顕長が北条氏直より賜わった山姥切と号するもので、本科・写しの両刀とも重要文化財


脚注

[1] まさ(転載者註 "当"の旧字体)


投稿2016/7/16


No.68 岡村司博士


明治大正期に活躍した古河出身の法学者、岡村司先生を紹介しています。フランス・ドイツ留学を経て、京都帝国大学の教授として、活躍されました。

古河の学生からは、目標とすべき先人として、尊敬され、明治大正期の古河文化を代表する人物の一人です。

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 古河出身者で最初に法学博士号を授与されたのは岡村司先生です。先生は又古河郷友会を創立した発起人の代表でもありました。

 先生の御名前は著名でありますが、経歴や業績については不明な点が多いので紹介しましょう。

 先生は旧藩時代弍百石御先手物頭(足軽大将)の岡村忠右衛門の次男(長男は登氏)として、慶応二年十二月に古河代官町の屋敷で誕生しました。

 明治十余年上京し主に漢学を教える二松学舎に学びます。修業後明治十九年司法省正則法律学校に官費生として入学します。先生は終生漢詩を作る事を趣味としていますが、その教養は二松学舎時代に出来たものです。

 この当時先生ははなはだ貧困であり、夜具がなく、冬の夜寒さに夏のカヤを体に巻き付けて寝についた事が日常であったと伝えられております。しかし学業は常にトップクラスであったそうです。司法省法学校の先輩には原敬・陸掲南[1]氏等がありますが両者は退学処分になっています。岡村が修学期間にこの学校は第一高等中学校と改称されています。ここを卒業後、創立まもない帝国大学法科大学に入学します。ここで専らフランス法を修めています。明治二十五年に卒業して、陸軍省に入り、陸軍士官学校の助教より正教授に昇格します。陸軍省に三年間在職した後、文部省に転じ帝国大学法科講師に就任します。二年後には助教授に進みました。

 明治三十二年京都帝国大学が設置されましたので、文部省より辞令を受け京都帝大の法科教授に就任して、同年七月私費にてヨーロッパ留学を志し、フランスはパリ大学に入学し、民法を修学しております。パリ大に一年間留学の後ドイツへ渡り、ベルリン大学及びエーナ大学にて一年半の問修学をしています。

 帰国は明治三十五年でありますが、その翌年には京都帝大総長の推薦を得て、法学博士号を授与されています。京大では主にフランス法を学生に教授しておりました。

 ところで大正三年一月十四日に京大法科教授である七人の博士が全員辞表を大学に提出した事件が起りました。この事件は時の京大総長であった沢柳柳太郎が教授会を無視して、人事を専らにした事に対する抗議の辞任であります。一月二十四日には中に入った文部大臣が教授会の人事権を認めた為、一件落着しまして、その後六人の教授は学校へ再勤しましたが、岡村先生のみは学校へ戻らず四月に辞任してしまいました。この事件は後世〃京大七博士事件″と称されております。

 その年五月先生は大阪へ居を移し、街の中心地に弁護事務所を開業しております。業務はかなり繁盛したのですが、数年経過すると、もともとの資質として学究の徒でありましたから、心より弁謹士業だけには満足しえないものが感じられた様子です。

 先生は史跡めぐりを好み、土地柄関西地方の史跡を訪ねては、その感情を漢詩に託しております。旧古河藩飛地の大阪平野郷町には度々訪ねております。平野には当時一族の岡村氏が住居しており(現在も御子係が存在するとのことです。この岡村家は平野郷代官で古河岡村忠右衛門の分家岡村林の御子孫)旧交を温めた事でしょう。

 かくて大阪にて業務に勤めていましたが、幸時魔多しのたとえのごとく、大正十年には最愛の大学生の子息が、病気で死去してしまいました。大変に父譲りの優秀な人物であったそうです。当然のごとく、先生も又ウツウツとして楽しまず、これが因で自身も病魔のおかす所となって、翌大正十一年三月二十三日に死去してしまいました。五十七才。(大阪弁護士会々長在職中)

 この報が古河に届くや、多くの関係者が惜別の情置きがたく、哀悼の文章を「古河郷友会雑誌」に多数書いております。特に先生と関係の深かった知久政太郎氏(横山町和泉陸出身)の文章は、今日お読みしても、大いに涙をさそうものがあります。

 明治の古河の学生は総からく岡村司先生、宮内省侍医原田豊先生等を目標として、各々の業を励んだとの事であります。


参考文献「古河郷友会雑誌」


脚注

[1] くがかつなん


投稿2016/7/15


No.67 小杉平馬両人


幕末の古河藩家老・小杉監物(輔長)は、当時の困難な情勢のなか、藩政をよく導き、古河の町が戊辰戦争の戦禍に巻き込まれることを防いだと言われています。

この小杉家には、西洋流高島砲術の師範となった小杉平馬(明長・忠長)、渡辺華山の日記にも登場する小杉三平(敬長)がいますが、史料不足で系譜関係が不明確でした。

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 古河市史・通史編に幕末の古河藩の「西洋流砲術師範小杉平馬」として一つの研究が述べられています。

 一人の小杉平馬明長は小杉監物輔長の三弟で(次弟は小杉長介道長といって新家を創り百五十石を給される)文政四年(一八二一)六月二十四日に小杉克長の実子として生まれています。天保六年十五才で同族たる小杉三平敬長(三平は江戸で有力な人物で、渡辺華山が若き時、この人を持て成す為に料理屋で大金を使うので、大変苦しかったと、華山の日記に記録あり)の養子となっております。

 天保十二年の五月九日には高島秋帆による西洋流砲術の演習が江戸郊外徳丸が原(現高島団地)で行なわれております。この洋式銃隊の訓練は大変に評判の高かったもので、多くの幕臣や、諸藩士が見学しております。

 有名な勝麟太郎なども師の島田虎之助と共に、隠れて見学をしております。その時隠家で同所したのが、勝が最初に西洋学に目を開かされた人物の都甲市郎左衛門であります。

 古河藩からも藩主利位の命により鉄砲世話役の近藤角左衛門と遠山勇之介が見学に行っております。当日砲術の方はたいして当に適中ではなかったそうですが、一糸乱れぬ銃隊行動には諸氏の注目が集まったそうです。

 幕府はその後幕臣の江川太郎左衛門と下曽根金三郎に高島秋帆に入門を許可しましたので、両人は後年高島流砲術免許を受けて多くの門人を教授致しました。古河藩からも多くの藩士が両者に入門致しました。(筆者は前に「野渡光明寺と榊原鏡次郎」の所で書き述べた)古河藩士の多くは下曽根氏に入門しております。即ち小杉平馬・干賀牧太・宮野粂次[1]等であります。この内平馬は兄監物の命で入門が早く、下曽根より西洋流高島砲術の免許を許可されている様子です。ただこの小杉平馬明長は文久二年六月七日四十二才で死去している事が墓碑銘より判明しております。

 ところで古河市史で示された疑問点は明長死去前の安政三年に千賀牧太が小杉平馬忠長と云う人物より西洋流高島砲術の目録を受けており、文久三年には免許を受けていて、同時期に二人の小杉平馬が存在していて、しかも二人共西洋流高島砲術の師範になっていることの疑問であります。古河市史では明長と忠長は実の父子であろうと推定しております。

 筆者もこの事は疑問でありますので大聖院にある小杉三平家の墓を研究する事にしました。現在存在する墓は小杉三平敬長・小杉平馬明長・小杉三平義長の三基と婦人達の墓であります。残念ながら平馬忠長の墓は不明であります。明長の墓碑銘を見ると、四十二才の死去以前に彼は隠居して酔痴と号したと書かれています。隠居した時点で家督は平馬忠長が継いだのだと考えられます。

 ところで古河郷友会雑誌の第二十号には香雪老人なる人が「小杉平馬は大久保某の子息で小杉監物が自費にて秋帆の門人にして留学せしめ、後小杉三平家の後嗣とした」と書き述べております。

 この様な訳で小杉平馬明長が何かの理由で若年隠居した為、大久保某が明長の家に養子として入り、小杉平馬忠長となり西洋流砲術師範役も継いだものと判明致しました。

 文久頃の分限帳では平馬は五百五拾石の御用人と出て来ております。明治三年の「諸課役員士族等名面」と云う記録では軍務小参事小杉平馬と原史料では記録されています。同記録には忠長の嗣子であろう小杉三平義長は小隊司令士小杉三平と出ております。

 この小杉三平義長は明治十一年九月に三十九才にて死去していますので天保十一年の生まれであります。

 明長と忠長は実の父子ではないのでありまして、もしかすると忠長の方が年長だったとも思われる訳であります。忠長の墓が存在しないのは、彼が明長家へ夫婦養子で入った可能性が大きい為であって、明長には天保十一年の時に伊佐美と云う子息が存在している記録がありますから、義長は明長の実子であった可能性があります。忠長は三平家の中継ぎの形であったと思います。

※小杉三平敬長は天保十一年五月十六日没。敬長の墓碑銘は当時の漢学者萩原緑野が文章をしています。


脚注

[1] くめじ


投稿2016/7/14


No.66 木戸氏と野田氏


古河公方重臣の野田氏、その同族の木戸氏について。

特に、野田満範と木戸満範、野田氏範と木戸氏範との関係について考察しています。

近年の史料研究から「野田系図」は、見直しされていますが、木戸氏とともに、まだよく分からないことが多いのです。

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 木戸氏と野田氏は同族である.木戸氏の自出については明確ではない。ただし子孫の木戸孝範は猪苗代兼載に対し、自分の先祖は藤原信西通憲の子成範であると語っている。(兼載雑談)成範から木戸氏へ系が引き継がれた経路は不明であるが、藤原同流の熱田大宮司秀兼系の藤原兼永の娘朝子が通憲の妻となり、成範を生んでいる(尊卑分脈)しかも成範は平治合戦後一時下野国へ配流になっている(尊卑分脈)

 野田氏も熱田大宮司流の朝季が始めて野田木戸三郎を名乗って以降野田氏を冠している。この子孫に木戸次郎刑部少輔家季が存在する。足利尊氏から元徳四年二月二十九日(一三三二)に足利庄木戸郷を安堵された木戸宝寿丸はこの家季の近親者と考えられる。(木戸と野田は隣地)

 宝寿丸は後に木戸左近将監貞範となる人物で、建武二年八月には左近将監となり関東へ下向する。年過ぎて永徳元年十月(一三八一)には鎌倉公方氏満の命により副将として小山義政を討伐している。永徳三年には下野国守護代を上杉憲方より任命されている。即ち木戸左近将監入道法季の事である。これは足利尊氏生母の実家上杉憲顕に木戸氏娘が嫁し、憲方・憲将・憲英等を生んでいる関係からである。木戸家は「太田道灌状」に記される様に、公方の一族であった。

 さて野田氏の方は嘉慶元年五月(一三八七)「古河住人野田右馬助因人一人搦進す」(鎌倉大草紙)又「頼印大僧正行状絵詞」の「至徳四年五月(一三八七)野田入道等忠古河ヨリ召人一人搦進」さらに「島津道祐訴状」を見るに至徳年間の野田入道の島津氏領押傾等が判明し、この頃すでに野田氏が古河近辺で活躍していた事が理解出来る。

 これ等から公方氏満近臣に木戸氏と野田氏の存在が判明出来る。

 時代が降って公方持氏段階になると公方近臣に木戸満範・範懐・氏範・持季・野田満範・右馬助持忠等の活動が記録で明らかになってくる。そして持氏没後の結城合戦では戦死した人物の中に木戸左近将監某が存在する。この人物は木戸持季の子息と云われているが、持季自身とも推定出来る。

 公方成氏時代になると野田右馬助持忠が成氏の奏者となって活躍する。成氏が古河に居を移した後も、近臣として行動していたが、康正二年九月十八日の岩松持国宛ての文書を最後としてその後は名前が見えない。「野田系図」では成朝が継いだ事になっているが、野田氏関係文書を調べると持忠の後に成氏の奏者を勤めたのは蔵人大夫氏範である。野田右衛門佐成朝が文書に始めてあらわれるのは文正元年十月(一四六六)からである。

 この氏範と成朝の関係については市村高男氏が鷲宮町史において色々推定されているが、私は氏範と持忠・成朝の関係は次の様だと推定する。

 一見変な話しではあるが、野田満範と木戸満範とは同一人物で又その子息(野田)蔵人大夫氏範と木戸駿河守氏範は同一人物と考えたい。

 熱田大宮司家系図では木戸家季の娘が生母の千秋高範の孫は「応永初期野田左近将監満範」と有り、その子を「永享中野田左近将監持季」とある。鷲宮町史の富田勝治氏の「木戸氏系図の研究」によれば、木戸左近将監貞範の子息は修理亮とあって実名が判明しないが、その子息に左近将監持季が存在する。もし修理亮を木戸左近将監満範と比定すれば、この系図はほとんど野田満範と木戸満範が同一人物で、満範に野田持忠と木戸持季の子息があって、野田持忠の後に公方奏者として木戸持季の甥の木戸駿河守氏範が蔵人大夫氏範と官途を変じて任じたものと思われる。そして野田成朝が成人するに及んで、奏者の地位を譲ったと考える。蔵人大夫の官名は先祖木戸貞範が建武二年蔵人に任官した事が木戸孝範の歌集「源孝範集」に出て来る事から、それにちなんだ官途だと思われる。木戸氏と野田氏の先祖で野田木戸三郎を名乗った人物があるごとく、まったく同一氏族で、時によっては木戸氏・時によっては野田氏を名乗ったと思われる。ただしこれは持氏段階までで、成氏以降は両者は分離するのである。


※木戸貞範の子息に野田等忠と木戸満範両人が存在するのか?


参考文献「鷲宮町史・中世」「鎌倉大草紙」


投稿2016/7/13


No.65 安井道頓と成安(なりやす)道頓


大阪・道頓堀川と古河藩領・平野郷について。

道頓堀川を造った人物として有名な安井道頓は実在せず、平野郷の成安道頓により造られたとする考察です。

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 今回は古河藩関西飛地平野郷に係わるお話をしてみます。

 安井道頓と云えば、大阪の中心地に道頓堀川を造った人物として有名な人であります。大正三年に道頓が贈位を政府より受けた時の紀功碑が現在大阪道頓堀川辺に存在します。それによれば「道頓は諄を成安、通称を市右衛門といい薙髪して道頓と号す。河内久宝寺村の人也。其の先祖は足利氏の支流渋川満貞より出ず。その子安重始め幡麿安井郷を領す。因って氏とす。三世の孫、主計頭定重と曰う。河内国渋河郡久宝寺城に居す。織田氏に仕う。三弟定次豊臣秀吉に仕う。実に道頓の父也。秀吉大坂城を築き定次父子工を督し壕を掘る。秀吉地を城南に賜い、(中略)城南の地は蘆荻叢生し未だ民居あらず、道頓及び従弟定清・定吉・族人平野藤次と計り、漕渠を開き以て招来に便せりと欲す。慶長十七年役夫を旧里にやとい貨を捐て工を起す。定清は治兵術と称す。定吉は道卜九兵衛と称す。既にして大坂の役起る。道頓恩を感じ、義を思い西軍に投ず。元和元年五月八日落城、道頓殉ず。是に於いて道卜と藤次後事を協理し、是年十一月に至り、渠成る(中略)松平忠明大坂城主の時に其の遺功を録し、名を道頓堀川と定む。藤次後幕府に仕う。道卜は幕命により市井を経営す(中略)道卜寛文四年十月歿す。享年八十三才(中略)子孫世々南組惣年寄たり、道頓・道ト贈位を受ける。大阪府知事大久保利武諸有志者と石を立て功を紀せんと謀る」等の歴史が刻されております。(利武は大久保利通の三男)

 即ち道頓は古河藩飛地大阪平野郷に隣接する久宝寺村の出身者であり、協力者平野藤次は平野郷の人物であります。

 ところで昭和四十年に安井道卜九兵衛の十二代目の子孫が国と大阪府を相手とし「道頓堀川の河川敷地は自分の所有地であるから、その所有権を確認してほしい」旨の訴訟状を大阪地方裁判所へ提出しました。当時は五年後に大阪万博が決定した時期であり、繁華街のまん中にある五万坪の道頓堀を埋めてさら地にしたら時価は二千六百億を超えると新聞等で書き立てた為、大阪はこの話題でもち切りになったものでした。

 裁判になったのでありますから、双方ともそれぞれの証拠史料を出しあいました。そこで一番問題になったのは、安井道頓・道トが如何なる人物であったのか?次に道頓・道卜等が私財でもって自己の土地内に開削した運河であっても、現在もその所有権が存在するか?

と云う二点であります。

 十一年後の昭和五十一年十月になって大阪地裁は判決を申し渡しました。結論とすれば「道頓堀川は原告の先祖である安井九兵衛道ト等の努力によって開削されたもので、今日の道頓堀繁栄の基礎を築いた先祖の功績はまことに多大である。しかしこの事と河川敷の所有権の帰属とは別個の問題で、原告らが現在本件川敷について所有権を有していると認める事は出来ない」と云うものでした。原告はこの判決を受けても控訴致しませんでした。原告安井氏は「お金ではありません。国と大阪府市が先祖の功績を認めてくれて満足です」とこの裁判を総括して感想を述べております。誠に立派なもので、大阪市民より流石安井の子孫だと、拍手喝采を受けたそうです。

 ところでこの裁判で判明した事があります。結論から云えば、安井道頓なる人物は史上実存せず、それに比定出来る人物は平野郷出身の成安道頓であると云う有力な説でした。平野郷町は平安時代初期に、坂上田村麻呂の第二子広野麻呂が朝廷より、もと杭全[1]庄と呼ばれたこの地を与えられたもので、広野が転じて平野になったと云われている土地です。姉の春子は桓武天皇の妃となった人物で、現在平野には両者の墓が存在しております。広野麻呂の一族はこの地に定着して、宇治平等院を本所とし、坂上一族はこの地の実権を維持しつづけ、十五世紀には子孫の七家が生じ、この地を管理支配していました。

 この七名家の内に、歴史上有名な末吉家と成安家があり、大坂築城後末吉家の四男次郎兵衛長成は大坂に分家して平野氏を称しました。この人が即ち成安道頓や安井九兵衛道卜と道頓堀の開削に当った平野藤次その人であります。

 成安家と安井家は旧来より親戚であったらく、両者が混同して成安道頓がいつのまにか安井道頓と変じてしまった事が史料上明らかになって来ました。道頓が成安家の出身とわかれば、末吉家との続柄上、彼が角倉了以に河川開削技能を学んだに相違ない事は容易に察知出来ます。成安道頓が安井道頓に何故誤がわれたかの経過はあまりに煩雑なので省略しますが、現在でも平野郷には成安家の子孫が存在します。

 現在平野町の郷社杭全神社の手洗鉢には「寛永十年奉寄進三月吉日。成安善兵衛」の文字が刻されています。この者は成安道頓の一族であります。

 平野郷は近地の堺と同じように戦国末期、環壕を囲らした独立自治都市でありました。全国的に見ても大変に富裕な商人が住む土地でありました。

 なを久宝寺の安井家からは安井算哲が出現して、徳川家康に仕え、幕府碁方となり、その子孫より有名な渋川春海が出ております。

※道頓堀と云えば江戸期には歌舞伎座が数軒も並び立っていましたが、どの座でも一番良い席を一つ空けておりました。その空席は安井家の為だけの席で、道頓堀開削の功を後年まで恩義として感謝を示したものであったそうです。


参考文献 牧英正著「道頓堀裁判」


脚注

[1] くまた


投稿2016/7/12


No.64 高田本行三代と子孫


古河藩関係の刀鍛冶を紹介。高田本行は、唐津藩主・古河藩主の両期にわたり、土井家のもとで活躍しました。

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 古河藩関係の刀鍛冶では固山宗次・宗平・泰龍斎宗寛・寛重・金井信重・島田輝吉等が全国的に著名な刀工であります。それから忘れてならないのが、高田本行家三代であります。

 初代の高田河内守本行は「本姓を藍沢氏といい、先祖は伊予河野家の家臣で、後に豊後国大友家家臣となる。大友家没落後、浪人し豊後国高田に住す。当国往古の鍛冶、紀新大夫行平が手筋を代々伝える鍛冶が高田に住居するによって其伝を得て刀剣を造る」とあり、藍沢藤原与一兵衛統景を初代としています。統の字は大友家由緒の名前でありますから、大友家の抱工になったものと思われます。

 子息を四郎左衛門重行といい、三代は高田八郎右衛門尚行、四代目がその子息高田河内守本行、すなわち本行の初代であります。

 承応二年(一六五三)に誕生し、初名を行春と名乗り、藤原氏より源氏へ姓を改めます。藍沢氏より高田氏へ名乗りも改えています。

 そして行春から行平さらに本行に名を変えて行きますが、行春時代に河内大掾を受領したのは延宝五年六月十七日であり、(二十六才)その口宣案も現存しております。

 後年河内守を名乗っていますが、実は守に昇格したのではなく僭上して名乗ったので、朝廷よりは大掾だけを受領したのです。

 数年後行春より紀新大夫行平にあやかって行平と改め、元禄五年二月(一六九二)には唐津の大石天満宮で鍛刀を行い、ここで打った六振の刀の中の一振を朝廷に献上しております。(高田家は天満宮を特に信仰した。)

 前年元禄四年より土井周防守利益が唐津城主となっていますが、彼は十八才の時から各神社に自作刀を奉納したい念願を持っていましたが、この時四十才になっておりました。この念願を実現させてくれたのが、土井家の臣丹羽昌令であります。即ち彼のパトロンになってくれたのです。朝廷へ献上した他の刀剣は唐津の天照皇太神宮・唐津神社・丹羽昌令・高田家の重宝、と大石天満宮に献めました。初代が高田より唐津へ移住したのは延宝五年(一六七七)でありました。

 元禄五年には江戸へ刀剣修業の為出府し、そこで刀剣鑑定宗家本阿弥家と親しくなり、元禄七年に〃本″の字を拝領して本行と改名しました。改名届けを朝廷へまで提出しております。江戸へいる問に、当時は相州伝が最高の世間評価だった事もあり、鎌倉に住居する相州綱広のもとへ通い、綱広から相州伝の鍛冶法を伝授されています。伝えでは元禄五年に土井藩の抱工になったとあります。

 享保四年十一月吉宗将軍時、幕府が全国の大名に藩内の刀工名の提出を命じた際、唐津藩は「豊後国紀新大夫行平末、後相州伝高田河内守本行」と報告をしております。

 晩年は豊後太郎本行と名乗り、享保十九年(一七三四)八十三才の作刀が現存しています。没年は不明です。墓は唐津の天台宗の寺にあったはずですが現在では全く不明です。

 初代本行は刀剣界では松葉本行と称されています。それは晩年になって本の字を松葉の形のように銘切った為であります。

 土井家ではこの初代に多く作刀させた様子で、幕末の蔵品の記録にも、大名道具として本行作の刀・鎗が多く存在している事からも判明します。初代は髭が見事だったらしく、筆者が発見した、古河永井寺にある本行家の墓碑銘にも「河州は美しいヒゲがあり、世の人はヒゲの河内という」と書かれています。鍔[1]造りも妙く、鉄筋のあらわれる特徴のあるものです。これには「刀作人本行」と銘します。

 二代目は通称を新五左衛門。初銘は泰行。享保八年以降高田河内守本行を名乗っています。正式には朝廷より受領はしなかった様子ですが、初代が享保八年に京都へ出向き、坊城大納言に脇差を贈って、子息が河内守を名乗る事を黙認してくれる様願っております。坊城家でも暗黙の了解をしたらしく、河内守本行として作刀しております。初代はこれ以降は「豊後太郎本行」と名乗って、同時に両者で作刀をしております。両者とも河内守を名乗った訳で、高田家では二代目を「後の河内」と区別して呼んでいます。

 この二代目は比較的若く没したらしく、作品は初代に比べて多くありませんが、それでも、偶々筆者の目に入る事があります。

 三代目は山田氏の娘を母堂として享保十六年に唐津において誕生しています。通称を新次といい、当時は初代も健在で大変可愛がられて成長していますが、祖父・父とも、新次の子供の頃に他界した様子で、実際の鍛刀の手ほどきは両者より受けていません。先祖伝来の高田伝も、初代より始まる相州伝も共に習得する機会を与えられなかったのです。三代の墓碑銘にある様に(永井寺)諸国を歴遊して業を研精しました。そこで宝歴十一年(一七六一)三十才の時、江戸まで足を伸ばし、自作刀を持って、上野広小路の本阿弥三郎兵衛を訪ね、作刀を鑑みてもらった所「これは御美事、お祖父さんの作にも劣らぬほどよく出来てる」との評価を受けています。翌十二年九月に土井家が唐津より再度古河へ転封を命じられると、宇兵衛と云う弟子(永井寺に墓あり)を従えて古河へ移りました。(宇兵衛は有徹と刀銘する。)

 明和八年五月十九日(一七七○)には財産も大分貯った様子で、受領を思いたち、当時藩主利里が京都所司代であった事もあり、上京致したのです。京都堀川土井屋敷の右筆不破久吾に色々世話になり、受領願を御目付近藤孫四郎へ提出しました。宿舎は土井家の千本屋敷(所司代組屋敷?)を給されました。そして家老朝倉頼母から認可があり、公用人遠山十兵衛より姉小路大納言の家臣近藤内記(古河京三電機の元常務近藤秋二氏の先祖)を紹介してもらいました。その後色々煩雑な手続きがありましたが、六月二十三日に烏丸[2]蔵人左中弁光祖のもとへ受領願を提出しました。返事がなくいらいらしながら待っていると、八月一日に烏丸家から呼出しがあり、肥前守を受領出来そうだとの内約を示されます。八月四日には朝廷より正式に肥前守の口宣案拝受が出来たのです。しかも口宣書も珍しい事に同時に交付を受けたのです。

 この間に彼は千本の土井屋敷より本邸の堀川屋敷に居を移しております。この後色々世話になった朝廷御用達商人や土井家の同僚・公家・公家家臣に礼金を使っていますが、滞りなく経過し、八月十四日に京都を出発して古河へ錦衣帰国する事になったのであります。

 総費用は三十両位(今の九○○万円)かかりました。しかし古河に帰国したものの時代的な事もあり、作刀の注文はほとんど無かった様で、腕を振るう機会もなく、彼は安永三年七月二十一日四十四才で病死致しました。永井寺に葬られ、戒名泰相院利元秋泊居士。墓碑銘は恩田鶴城・字は市川泰留の両先生が書いております。この墓誌は文化財としても貴重であります。

 四代は高田万平のち与兵衛信行は三代の実子ではなく、三代と室、峰氏の問に出来た娘に婿入りした河合某の次男で、四代は刀鍛冶を行なった形跡はありません。しかし仲々の教養人だったらしく、文化五年には天神町の俗称日暮天神宮に石造りの手洗を献納していますが、その字体は誠に達繁なものであります。なを同社には三代と親しかった市川泰留による天満宮の献額も現存しています。

 四代が天神宮に手洗を寄進したのは、祖先からの天神様信仰によると思われ、文政十年(一八二七)五月十二日死没しましたが、享年は不明です。推定では七十才位だと思われます。

 五代は八十六重行といい幕末の分限帳では、賄方[3]の役人で徒格弐人扶持五石です。高田家の住居は三神町の稲荷神社の近辺であった様子ですが、御子孫は現在幸手市に住んでいる高田清一氏であります。読者のなかで、本行について関心を御持ちの方は筆者まで御連絡下さい.史料を持っております。


参考文献 福永酔剣 著「肥前の刀と鐔」


脚注

[1] つば

[2] からすまる

[3] まかない


投稿2016/7/11


No.63 侍医原田豊先生


幕末の大阪・平野郷で、古河藩士の家に生まれ、明治期に活躍した医師・原田豊先生を紹介。

温柔厚篤な人柄で、当時、古河の人たちから尊敬されさらに皇室の侍医も務められました。

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 先生は原田俊太郎(文久分限帳では勘定方二人扶持四石)の長男として嘉永三年三月十七日、古河藩飛地大阪平野郷で誕生しました。

 維新後医師を志し、東京へ古河藩横山某と共に遊学します。始めは共に英語を学び、横山某は英語の教師となります。横山氏は頻りに英語教師になる事を勧めますが、原田はこれに応ぜず、旧然貧学生となり、其頃、石井謙道小博士の門に入り、ドイツ語を学び、明治三年九月より、大学東校に入学し予科、本科と進み、修学中学術優等の為、たびたび賞品を受けています。明治八年七月卒業をなし、大学東校より束京医学校と名称を改めし学校へ留まり、医学を研鍛します。十年十月医学校の助教授に任じられ、内科を教授します。兼ねて脚気病院監督官に任じ、十七年四月この間東京大学と名称再改の医学部教授になりました。十八年十二月皇室の侍医を命ぜられ、以降宮内省の官吏となり、専ら東宮の侍医を持って任としております。二十四年五月奏任官二等に叙せられ、四級俸を賜わっています。同年十二月二十八日自費を以てドイツ国に留学し、ヨーロッパ各国を歴訪し、二十七年二月四日に帰朝します。同年三月二十二日より病を発し、五月十五日東京帝大第一医院へ入院し、加療しますが、薬石の効なく、六月三日午前七時四十五分に死去しました。行年四十五才。この間皇室より病気見舞品を二度賜り、六月五日の葬儀には祭費を両陛下・皇太子殿下より賜っております。同日 従五位勲六等瑞宝章を賜わりました。

 戒名 威徳院殿豊譽泰山大居士

 原田先生は微禄の藩士の子息でありましたが、幼年より苦労力行の人であります。石井謙道先生の書生となったのであるが、師家の雑事は勿論、石井家幼児を背負いながら庭中を読書逍遙する事を常としていました。昼間は寸暇無い為、夜間に家人・同僚が寝しずまるのを待って机に向い、数年間夜中まで勉学す。師の室、夜十二時過ぎて塾中を巡視するが、原田氏が一日も机を離れた姿をついぞ見ず.大いに感嘆する。この間数年、ボロをまとい、下駄等は同僚の廃物を利用した為、左右の高低そろわず、ハナオの色も異なっていたそうです。雑事には一寸も気にする風なく、勉学を専らとしています。その時のボロ衣服は記念の為、後年まで保存し、常に華美・驕奢を戒めています。

 先生は温厚・篤実沈黙の質にて、人に接しては謙虚で、学生を怒る事なく、他人を非難せし事なし、偶々学生を注意する時は直接に注意せず、世間話しに例を取って唯々インギンに戒むと云う風であった為、かえって学生には重くこたえ、再び注意を受ける事がなかったそうです。又苦学生には自分もかつて貧であったので常に同情し、金品を与え援助をしたそうです。これ等を一日同僚が注意をした事があったそうですが、先生は「予は人の為に生れ、己の為に生れたる者にあらず」と云ったそうです。

 一度先生に接すれば、温柔厚篤なるに感ぜざる者はなかったそうです。

 同時期の古河人は皆、先生を敬い、自己発憤の的にしていたのです。特に藤懸廣軍医総監は、幼児期重病になった時、わざわざ東京より、回診してくれた事で病気が治り、命を助けられた恩人と終生感謝し、これが因で医学を志し、大成をなしたのであります。

 明治時代の古河を代表する偉人の一人で後生の古河人の他鑑とする人物であります。

 古河城中に演劇小屋があり、原田少年は、ある頃その幕引き役も行なっていたそうです。(川島恂二氏談) この文章は「古河郷友会雑誌」より抜き書きし、まとめたものであります。


投稿2016/7/10


No.62 土井藩の儒者学者


江戸期・古河藩では多くの学者が活躍していました。

鷹見泉石や小出重固は有名ですが、それだけではありません。今回は他のあまりよく知られていない人物のなかからも紹介。

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 土井藩関係の儒学者や学者については、かなり詳細な研究が藤懸静也氏や渡辺・川島先生等によって行なわれています。

 今その名前をあげてみると、佐藤直方・稲葉迂斎[1]・吉武法命・合田敬勝・奥束江・原双桂・原敬中・恩田鶴城・小高益卿・同葛城・小出重固・河口家歴代・堀秀成・鷹見泉石・大沼枕山・山中蓼莪・蔭山娯老・石川義全・等々であります。これ等の人物は古河市史等に、今まで取り上げられていて、土井藩の学流として、主流の人物です。筆者は今まで土井藩に関係しながら、忘却されている人物を述べてみたいと思います。

@宇井黙斉(一七二五?一七八一)

 享保十年肥前唐津で生まれる。名は弘篤、通称小一郎。代々土井家に仕え、彼は若くして茶童として藩主の左右に近待す。十九才の時過言あって藩を追放され、京へ到り久米訂斎に従って学す。三年後瀬川富十郎の弟子となって劇界に入るも、すでに年長に及べば伎を持って天下第一になる事難くと観念し、再び儒学の世界に入り、江戸へ出て服部南郭に学ぶ。その後、崎門学の修得を専らにし(山崎 闇斎を始祖とする朱子学派)佐藤直方に修学す。同門に稲葉迂斉あり。名声大いにあがる。旧主君土井利里、古河へ封を移されし後、彼を召して儒臣とする。後姻家の禍に関わり、古河に幽閉される事三年。後救されるが仕途を絶ち、再び京へ行き、教授をもって業となす。五十七才没。京都高台寺に墓所あり。

※佐藤直方と佐藤一斎は勿論別人で、時代も異なる。古河藩には別に宇井家が存在するが、両者の問には血縁関係はないようです。

A千葉芸[2]閣(一七二六?一七九二)

 名は玄之、通称茂右衛門、江戸の人で、幼年より熊本細川家儒臣秋山玉山に学ぶ。玉山は三浦梅園に初学し、後林鳳岡に従学、朱子学を専らにして細川藩の待読となりし人物で当時著名な学者である。

 芸閣は儒者ではあるが、最も得意とするのは文章作詩の世界であった。彼も宝歴年間に土井利里に招聘され、世子の待読となり厚遇を受けたが、数年後ざん言に会って退藩す。この世子をだれに比定するかは不明です。(利里には三人の世子が存在する。すなわち利剛・利建・利見・三人とも養子である)退藩後は意を仕途に絶ち、江戸駒込にて作家活動にて世を送る。寛政四年に六十六才にて没す。墓地は駒込千駄木町の総禅寺。彼の作品は当時の大家たる井上金峨・細井平洲と並び称されています。

B余熊耳[3](一六八七?一七七六)

 名は承裕、通称忠太夫 奥州三春熊耳[4]村出身。本姓は大内氏で学問の時は余氏名乗る。

 元禄十六年十七才にて江戸に出て、荻生徂徠門下の秋元淡淵に学び、次いで徂徠に入門。後上京して伊藤束涯に接し、ついに長崎へ遊学、留まること+年。中国語に通じ中国古文辞を研究する。江戸に帰り浅草に塾を開き、ここに於いて名声大いに揚がる。唐津土井藩彼を招聘し儒官となす。服部南郭とは親しく関係し、互いに尊敬しあう。安永五年八十才にて没。

 熊耳が何時唐津藩の儒官になったかは不明です。仕えた藩主名も不明です。ただし土井藩儒官であった事は確実であります。藩儒官といっても、藩校で教授する者と、江戸藩邸にて主に藩主・世子に待講、待読する者がおり、同時期に儒官は数名存在するのが普通であります。大内熊耳の弟子は多数にのぼる。

 以上の三名が古河藩の歴史より漏れている儒者学者であります。勿論正式に藩に召抱えられないでも、古河藩主や家臣と関係のあった儒者・学者は多数あったと思われます。

 例えば、三浦梅園・皆川淇園・萩原緑野・等々の人物は著名であります。勿論医術関係・聞学等の関係者も多数にのぼり、とても全員を網羅する事などは不可能であります。


参考文献 平凡社版「日本人名大辞典」


脚注

[1] うさい

[2] うん

[3] よゆうじ

[4] くまがみ


投稿2016/7/9


No.61 片山潜と古河


明治期に活躍した有名な社会主義者であり、労働運動の先駆者・片山潜と古河との関係について。

特に旧藤岡町出身の岩崎清吉(清七)氏は、片山潜の親友でした。岩崎氏の誘いで古河に来たこともあり、旧大平町出身の女性と結婚しています。(て)

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 前に「岸本武大夫編」の所でも述べましたが、現在の岡山県久米南[1]町近辺は旧古河藩領の飛地でありました。

 町役場の人の御案内で、久米南町の史跡を見学致しましたが、その途中で町内に片山潜記念館がある事を見とどけました。役場の人は勿論知っているのですが、町内に片山氏の様な人物が存在した事を、私達に遠慮した様な雰囲気でした。しかし古河と片山潜は関係が深い事を知っていましたので、記念館に案内してもらいました。館は小さな物でしたが、潜の実家の子孫の方が建設したそうです。

 片山氏と古河との関係を、同行の川島恂二先生より、御教授を受けながら見学しました。

 館の色々な史料の内で、一番目に付いたのは、潜の葬儀の写真で、彼の納棺をスターリンやモトロフ等の国際革命運動の指導者達が多数で荷っているものです。

 川島先生のお話しの内容を基に、古河に帰ってから再度、潜と古河との関係を調べる事にしました。そして次の事が理解出来ました。

 現在の久米南町は数村を合併して町となったもので、潜の誕生した羽出木[2]村は江戸時代は主に天領であったようです。(古河藩領の弓削村とは二キロ位しか離れていない)。そこで潜は安政六年(一八五九)に生まれています.本姓は薮木[3]氏で、先祖は代々庄屋を勤めた家柄だそうでした。しかし彼の父母は分家して、小前百姓でありました。十七才までは農業に従事していましたが、その後ある文化的刺激があり、独学にて勉学を始めました。十九才の時には旧古河藩領の弓削小学校の助教になっております。その後「学問で身を立てる決心」をして、二十二才で岡山師範学校へ入学しています。翌年明治十四年にここを中退して、東京へ遊学に出て行きます。貧困の為昼は活版工として働き、夜分に旧仙台藩儒者岡鹿門の塾へ入門致しました。

 この塾にて知りあったのが、五才下の栃木県藤岡町出身の潜の終生の友人、岩崎清吉(後の清七)氏であります。岩崎氏は後年エール大学に学んだ人物で、明治・大正・昭和の三代に渡って、実業界で活躍した人物で、彼が関係した会社は八十余社に渡り、創立した会社も数十社に及んでおります。東京商工会議所副会頭、日本実業界会々長等を歴任して、昭和二十一年八十三才で没しております.例えて云えば、渋沢栄一氏をやや小さくした様な人物であります。貴族員議員にも就任しております。

 潜と岩崎は偶然にも、古河藩を中心とした地縁の関係より、話しが合い、肝胆相照す仲となったのであります。潜は明治十六年秋には、岩崎の誘いで東京両国より通運丸にて古河船渡河岸に着き、それより藤岡へ向っています。目的は藤岡にて私学を開いていた森鴎村先生(岩崎の最初の師)に御目通りする為でした。森先生は大変な碩学で、昌平坂学問所出身の秀才で、しかも人望家でありましたが、佐幕派の人物と見られていましたから、官に進む路を選ばず、市井の碩学でありました。

 潜は森先生にその人物を認められ、塾の助教として一年半を勤めております。その間蓄膿症を患い、九死に一生の目に会ってもおりますが、佐野町の病院にて手術を受け、森・岩崎等の看護手厚く、命拾いをしています。潜にとって、この間の生活は楽しかったとみえ、終生彼は森先生を尊敬し、我が恩師の第一であると敬慕の気持を後年に書いております。

 彼はその後、永い間渡米して苦学力行しておりますが、三十八才の時に十六年ぶりに帰国し、翌年には岩崎の世話にて、大平町水代出身の横塚フデニ十才と結婚致しました。フデとの間に一男一女をもうけますが、悲しいかな、潜四十五才の時に妻は愛児を残して他界してしまいました。フデは大変な賢婦で、その死は多くの友人より惜しまれてもおります。

 その後の潜は大正三年五十六才になるまで主に国内で労働運動や社会主義活動に従事していますが、この頃になると彼に対する国家の圧迫が大きくなり、再婚した妻との間に出来た次女と先妻の二人の子供を日本に残して、四回目の渡米を致しました。その後は活動の場を欧米に移して、二度と日本には帰りませんでした。この間残った家族の生活は大変なものであったでしょう。

 今筆者の手元へ一枚の写真があります。幼児が四人並んで写っております。内の二人は古河岩崎家の娘で、二人は潜の長女ヤスと長男幹一です。写した場所は石町の銭屋さんの屋敷で、時代は明治三十九年頃と推定出来ます。石町の銭屋さんは清七の弟である亀次郎氏が古河に出店した店で、一時期、潜も住んでいた事があると伝えられています。(川島恂二先生談)※現精米倉庫の裏手であった。

 その後長男幹一は慶応大学へ入学し、長女、次女も大学卒業をしております。経済的には残留家族は波風のない生活であったのであろうと思われます。

 筆者が推定する所、これ等の生活費にはかなり岩崎清七氏による援助が大きかったと思われます。一方は当時の社会主義者の旗頭であり、一方は資本家の代表であって、立地する所は異なった両人ですが、明治人として共に国家に対する思いや責任では、私心なく勤め、互いに認めあっていたのであります。

 その後の潜の活躍については「世界の片山」として有名であり、七十五才の死去まで、社会主義者の志をまっとうしております。ただ現在における彼の歴史的評価については、浅学の筆者には、まったく不明であります。

※森鴎村に関しては、幕末から明治にかけての頃の色々な江戸の記録に出て来ます。もし鴎村が二十年位前に生まれておれば、昌平饗の儒官として、大変に名をなした人物となっていたと確信します。

 潜は岩崎清七翁を終生尊敬しており、最大の賛辞を晩年の手記に書いています。

※森鴎村(一八三一?一九○七)

 天保二年藤岡町に生る。諱は保定、字は士興、通称定助後に定吉。幼年横塚真斎に学ぶ。十九才で地頭の暴政を訴えて凶禁九年に及ぶ。後・藤森天山の門に入り、又転じて安積艮斎[4]に従う。安政五年幕史に随いて長崎へ至り、翌年奈良奉行根岸肥前守に抜擢せられ儒官に仕ぜられるも、意に合わず志を官に断ち全国を遊歴し、慶応二年下野葛生に卜居し徒を教授すること三年、ついで藤岡に帰り、家塾鴎村学社を興す。一時戸長・県会議員に挙げられるも、少時で辞す。育英の事を専らとする。晩年脚疾を患い学舎を閉ざし専ら詩文に耽る。明治四十年一月二十日没、七十七才。

 依田学海とは藤森天山塾の同門で親しく、文豪森鴎外は学海の漢学の門弟であった関係より、鴎外の号は同姓森鴎村の号よりヒントを得たと考えられる。両者は依田学海の墨田の寮で出合った事もあったと思われる。ともかく鴎村と鴎外は関係者であったのであります。


参考文献「片山潜自伝」岩波版「片山潜」


脚注

[1] くめなん

[2] はでぎ

[3] やぶ

[4] あさかごんさい


投稿2016/7/8


No.60 山中泉斎について


古河藩主・土井利勝の客分、山中泉斎について。

野州(栃木県)佐野氏の一族。江戸初期の佐野家断絶後、主家再興のために働き、利勝の目にとまったようです。

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 土井利勝の時代に土井家の客分(浪人分・隠居分)として二人の人物が存在しました。一人は有名な鮭延越前守秀綱で、この人についてはかなり詳細な経歴がわかっております。もう一人は山中泉斎でありまして、この人物については野州佐野氏の一族で、かつては五千石取りの武将であった事。そして古河市指定文化財になっている土井利勝書状の宛名三名の内の一人として出て来ています。

 佐野家と云えば、大体三万九千石位の小大名であり、その内で五千石知行と云えば、大変な重役であった訳で、泉斎の前歴について、大変興味があります。

 天保時代の古河藩士親類書では、泉斎は佐野修理大夫の客人分として五千石であった事、諱[1]は由宗、俗称新九郎であり、佐野家断絶後、京都に居住していたが、元和九年(一六二三)利勝より隠居分として百人扶持で召抱えられ、寛永二十年十月廿日に死亡した事。二代目は山中金左衛門吉時といって、寛永二十年家督し、百人扶持を五百石高に改められた事等が判明します。家紋は花菱と三ッ鱗。鎧蝶。(向い揚げ羽蝶)

 山中家の御子孫は千賀忠夫先生の夫人がその一人で、同家の史料を拝見しました。「本姓は武田氏で、天正十年武田家滅亡の時、家臣山中右衛門に携われて丹波国に退れ、その後山中姓を名乗って成長し、伊勢国の大名富田左近将監知信に仕え、その後知信次男信種(信吉と改名)が佐野家へ秀吉の命により養子に入った文禄元年(一五九二)に、信吉の後見人として共に佐野に入部した。佐野氏の一族、藤下野守の名跡を継いで、佐野和泉守を名乗り、慶長十九年(一六一四)佐野家断絶後、京都に住居し(一説近江)剃髪して泉斎と改名した。元和九年浪人分にて土井家に来りて、子息金左衛門時代から土井家家臣となった」事等々が判明しました。

 これ等の史料を頭に入れて、佐野市郷土博物館を訪ねてみたら、当地の史料より次の事が判明しました。

 泉斎は佐野家先々代、宗綱の次女を娶っている事。(息女は二人あって、姉君の方は最初、北条氏忠と結婚し、北条滅亡後、佐野信吉と再婚する)。佐野氏一族藤下野守家とは、藤岡城主の支流で、藤岡町高取三階城主であったが、後年佐野へ住居を移し、唐沢山麓の富士銅師山に住み、富士下野守と名乗った秀久・秀正等の家柄で、佐野和泉守(泉斎の前名)は三千八百石であった事。山中金左衛門は実子でなく養子であったろう事。(佐野時代の金左衛門は千石)和泉守の実名は正延であり、丹波福地山に佐野より隠棲した事。実子の内匠正次は水谷[2]兵部大夫の世話にて、永井右近大夫家に仕官した事。子孫は館林の松平右近将監家へ出仕した等が判明しました。泉斎はその後、佐野家相続について利勝に懇願していた所、元和八年二月に信吉は救され、信州松本に流されていた信吉を迎えに松本まで行って江戸に登る途中、信吉は深谷宿で中風に倒れ、後年信吉子息二人が、旗本に取り立てられた事も判明しました。(信吉の墓は松本市の正麟寺に現存する。供養塔か?墓碑銘は信吉ではなく佐野正綱と刻されている)

 ただしこの佐野市の史料は一寸信頼性において疑問があって、例えば、和泉守子息の内匠は四千石になっているから、親子と金右衛門を合計すると八千八百石も知行している事になってしまう。三万九千石の佐野家ではあまりに多い知行高と思われます。

 ただし泉斎が佐野和泉守であった事は事実でありますから、佐野氏の一族になった訳です。土井利勝は下館の領主であった水谷氏や当時古河藩主であった永井直勝を通じて、泉斎が主家再興の為に、自分を含めて要路に働きかけた忠義を高く評価して、元和九年佐倉藩主時代に、客分として泉斎を招いたものと思われます。

※藤岡城主の子孫は、佐野家よりやはり土井利勝に仕えて藤岡五右衛門と云い三百石高です。後に堀田正俊に仕えています。

 泉斎の俗名新九郎や家紋の三ツ鱗より、北条氏との関係も推定出来ます。北条家家臣の山中頼次(内匠助)は川越衆の一人で、五百九十九貫八百十四文の重臣で、初代の氏頼は細川澄元家臣で、丹波・京都を本貫としています。(家紋は向い揚げ羽蝶)泉斎は頼次の子息で、北条氏忠が佐野家を継ぐに当り、後見として臣従した事も考えられ、天正十八年の北条家滅亡後も、佐野家に残り、信吉の後見として地位を継続したとも考えられます。この事は後日に研究します。

※田沼町の史料では、佐野和泉は佐野信吉入部以前よりの佐野家の旧臣であると記録にある。泉斎が後年丹波に一時隠棲するのも、先祖の出身地が丹波であった事によると考えられる。さすれば北条家家臣山中家との関係を示しているのであろうか。

 山中泉斎の子息、内匠正次は山中内匠助頼次と名乗りが、大変に通じている。


参考文献「田沼町史」「佐野市史」

「佐野氏系図」「戦国人名辞典」


脚注

[1] いみな

[2] みずのや


投稿2016/7/7


No.59 足利成氏の遣跡相続のあゆみ


初代古河公方・足利成氏が、鎌倉公方(関東公方)になるまで。古河公方として活躍する前です。

今回は記事というより年表ですね。

古河公方は長年、戦記物をもとに語られてきましたが、20数年前から、一次史料に基づく研究が盛んになって、次々と書き換えられています。

やや突然ながら、ここで筆者が年表を作って整理したくなったのも、何となく分かるような。。。(^_^;)

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(1)永享六年に生れる(一四三四)

(2)永享十年 鎌倉より最初甲斐に逃れ、次いで、信濃国大井持光の所へ往く。四才

(3)嘉吉一年五月(一四四一)兄春王丸・安王丸美濃垂井金蓮寺にて斬られる七才

(4)嘉吉一年七月二十七日 岩松持国、陸奥石川氏宛に万寿王丸に忠誠をすべき手紙を出す。

(5)嘉吉一年十二月二十九日石川中務少輔に軍勢催足状を発給する。

(6)嘉吉二年頃より鎌倉帰還の運動を始める。

(7)文安一年(一四四四)十一月?十二月頃に「御代始」を行う。成氏十才

(8)文安二年九月二十七日御還の祈祷を願う(バンナ寺文書)成氏十一才

(9)文安四年三月二十三日前後、鎌倉公方を幕府より認められる 成氏十三才

(10)文安四年七月四日 上杉憲忠関東管領就任

(11)文安四年八月二十七日 鎌倉帰還する

(12)文安六年六月十九日から八月二十七日の間に元服して万寿王丸から成氏と名乗る。

(13)文安六年八月二十七日左馬頭に任官する 成氏十五才 仕従五位下

(14)宝徳一年(一四四九)八月に次弟定尊京都より鎌倉へ帰還する。

 永享十一年七月二日には将軍義教の子息某が鎌倉公方に決まる。ただし義教の横死で白紙に戻る。結城合戦で捕らえられた定尊(永寿王丸)は、幕府の大名評議で持氏の遺跡後継者と決せられたが、管領上杉憲実の新将軍に接見してから下向した方が良いとの提言にて、上洛し美濃土岐氏邸に預けられた。九年間在京した。

(15)宝徳一年八月以降定尊は雪下殿に就任。雪下殿とは鶴岡八幡宮若宮別当の俗称。三弟成潤は勝長寿院門主に就任。四弟周ムは熊野堂門主に就任する。周ムは円覚寺長春院主。その他の弟に尊倣[1](長春院主・後に雪下殿となる)が存在する。

(16)宝徳三年二月二十八日従四位下左兵衛督に任ず。成氏十七才。


 以上が万寿王丸が関東公方足利成氏になる過程であります。以上の経過の考察は主に千葉大学教授、佐藤博信先生の論文より抽出して筆者が書き出したものです。年齢は「満」で数へました。


脚注

[1] そんじょう


投稿2016/7/6


No.58 幡随意長兵衛の位牌


江戸初期の侠客・幡随意長兵衛について。

あまり知られていませんが、加須市ゆかりの人物です。

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 今回は江戸町奴の花形として侠名をうたわれた、幡随意長兵衛にまつわる事を諏きたいと思います。 古河史道遙に何故彼の事を取り上げるのかの疑問がおありでしょうが、長兵衛の父が古河と関係深い加須市の出身者であったからです。加須市の大越地区は江戸時代古河藩領で、中世には古河公方の御料所であって、古河とは関係深い所からです。(市内馬内、大串等)

 長兵衛については異説も多いが、一般には「島原一揆の責任をとわれ、断絶となった肥前唐津城主、寺沢兵庫頭堅高の家臣、塚本織部の子息で、元和七年(一六一二)生れで、成人後、本多中務大輔家の家臣桜井庄右衛門の僕となり常平と称した。たまたま同家の彦坂善八と云う者と争い、斬り殺して死罪となる所を、本多家で帰依している幡随意上人がその事を知り、上人の命令で助けられたのが、常平こそ後の長兵衛である」「その後は下谷で人入れ稼業をしていた山脇惣右衛門の子分となり、その娘於キンの婿となって、山脇長兵衛と云ったが、世間では幡随院との関りから幡随院長兵衛と云った」「旗本奴と対抗して、水野十郎左衛門成之の為に明暦三年(一六五七)七月、三十六才で斬殺され、浅草の源空寺に葬られ、戒名は善誉道勧勇士」と伝わっています。

 ところで現在加須市の文化財に指定されている「幡随意長兵衛の位牌」が市内阿良川の内田家に現存しております。

 この位牌と同家の過去帳には「慶安三年寅八月十六日(一六五○)長昌院槃誉秋月祐門居士。俗名幡随意長兵衛源結鬼平」と書かれております。文化財指定の説明文には「長兵衛の実父は平野六郎左衛門と云って、内田家の出身であったが、若き時江戸へ出て、下谷池の端の幡随意院住職、缶誉感随上人の所で、寺男として住みついていた。長兵衛生母は肥前松浦郡相可村、塚本伊織の娘、春女であったが、キリシタン容疑で出国し、白拍子として流浪の末江戸へ出て、平野六郎左衛門と知り合い、夫婦となり両人の間に出来た子供が長兵衛であった。長兵衛は幼年期、寺で生長した」「長兵衛斬殺後、夫婦は実家の内田家へ帰郷したが、携行品がこの位牌と朱鞘の大刀であった。大刀の方はいつの時か失われてしまった。」と云う内容が述べられています。

 これらの伝説を整理してみましょう.

(1)幡随意上人は浄土宗では著名な僧侶であり、元和元年正月和歌山で遷化されております。上人没後六年にて長兵衛は生まれていますから、彼と関係ある幡随意院住職は感随上人の方が正しいと思います。(増上寺19世智童の弟子)。幡随意は上大野正定寺住職を動む。(2)明歴三年か慶安三年かでは、「徳川実紀」では明歴三年七月と記録され、「武江年表」では慶安三年四月十三日没と出て来ます。没年の正確な所はわかりません。浅草源空寺の長兵術墓では、明歴三年七月と記されていますが、この墓は山脇氏が当時に供養した墓であって、実際の死去は慶安三年説がベターだと思われます。(3)通称幡随院長兵衛と云われていますが、正式には幡随意院長兵衛が正しいと思います。幡随院は正式名は幡随意院として記されており、明歴三年正月の振袖大火以降、下谷池の端から浅草に移った後に、幡随院と称された。彼の死体は下谷時代の幡随意院に埋葬されたことは確実です。(4)長兵術戒名は長昌院槃誉秋月祐門居士の方は感随上人より戒けられたもので、善誉道勧勇士の方は源空寺上人よりの戒名であります。最初の戒名は長昌院の方であります。

 総合してみると、この内田家の位牌や伝説の方が実体だったと思われます。

 慶長年間の侠客、大鳥逸平の出身地も埼玉郡の人と伝えられ、大鳥の名前より、鷲宮(大鳥神社)地域の出身者と思われます。


参考文献「日本侠客百選」「加須市の文化財


投稿2016/7/5


No.57 火事と大ケンカ


昔は旧古河町内にもこんな気風があったというお話。

ちなみに地名として出てくる厩町は、雀神社から頼政神社方面に伸びた町通り。

横町は横山町。二丁目は旧日光街道沿いで、古河駅西口付近から北側、尊勝院・神宮寺界隈まで。

「トミヤスーパ店」は今では廃業して、目印にならなくなりました。二丁目・曲の手通りと横町通りの交差点にあった食品スーパーです。

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 明治時代以前は木造建築の家屋が大多数であったうえ、一旦火事が起ると、機械ポンプ等も無く、大火になる事が数多くありました。

 火事と云へばケンカは付き物の様であり、江戸時代の町鳶と加賀鳶に代表される様な、ケンカ沙汰は通常の事であります。

 古河町にても江戸の様に、当然武家火消と町火消が存在したのでしょうが、現在その詳細は不明であります。明治時代の二十一年六月の旧士族別手組と横町一番組の火事ゲンカが、史料として残っているだけであります。

 今回は明治七年三月六日の夜火事の、町火消どうしの、出入りの事を述べてみます。

 事の起こりは、厩町の旧士族屋敷で火事があり、消札の事で(当時は類焼をくい止めた功績のあった組が、その場所へ、組名を書いた消札を立てる習慣があった)横町一番組と二丁目弍番組との間で、イザコザが有ったそうです。(当時は今日と違って、一組は五十人位で組織していた様子です)。面白くない横町は帰路、江戸町の通りで、まず二丁目の纏[1]ヘハシゴを突当てたので、そこで一回目のケンカになりました。その場は戸長(今の市長)の大森正治等が仲に入り、双方の持つ鳶口を没収して治まったそうです。所が横町の方は、それでも根が残っていたらしく、江戸町から紺屋町回りの帰路、現トミヤスーパ店の近辺で、又もや二丁目の纏へ、ハシゴを打倒しました。それで今度は大ゲンカになったそうです。横町は江戸町のケンカの際、数名が町内へもどって、新規に鳶口やにぎり飯まで、ケンカ用に用意していたそうです。

 二丁目の鳶頭米田倉吉を横町鳶の針谷金次郎が、エリ首を取って後へ引き倒し、同じ鳶の細谷勇助がこれに加わり、その他三名の者が、米田を横町地内に引き込んで、なぐる、けるの暴行を加えました。特に右足を引揚げて、陰部を強く打ったり、握ったりして失神せしめた様です。場所は現武蔵屋前の井戸のあった場所だそうです。二丁目の纏はその際、戦利品として横町がぶん取ったのでした。

 この事件は後日裁判になりまして、横町の六人の者が、軽い懲役になりました。当時古河町は千葉県管轄の葛飾郡に所属していましたので、裁判所は今の流山市加村にありました。横町ではこの六人を流山の裁判所へ出頭させる際は、盛大な見送りの会を催し、わざわざ戦利品の二丁目の纏を先頭にして、二丁目通りを回り込んで、船渡町の河岸まで、多数で見送って船に乗せたとのことです。

 この事件の背景には当時の横町の事情が、大いに反映していました。当時の横町は花柳街として最盛期でありました。公認の貸座敷として、一夜にして大金の落ちる遊廓が十三軒も有り、それに関係する商家も当然盛大で、古河町第一の人口も持っておりました。住人の中には、辺見貞蔵・宝田多三郎・大場平治・等の侠客もおり、旧士族も江戸時代よりの花街との付き会いが深く、「お帰り、提灯もみ」の時などは、この旧士族が横町住民と共に参加していたので、一回も敗けは、なかったそうです。後年になりますが、明治十七年には、古河町と分離して、単独で自己資金で横町小学校を創設しております。又、当時の古河町役場を横町の突き当りの場所(現新坂の降り口)に建設させたのも、横町の勢力でありました。この学校の創立祝賀会の時は、時の農商務大臣・品川弥次郎も出席しております。

 この様な町内の事情が住民の気持を尊大にさせ、他住民を軽視した点が、この事件の原因であったと思われます。

 幸いな事には、横町と二丁目はその後、この事件を和解して仲良く付き会ったそうで、明治二十年代には人口に登らなくなったそうであります。この事件については「古河市史・近現代」に史料が有りますが、詳細は篠崎光一翁の話しに基づいております。

 事件の主人公である、細谷勇助は、当時有名なケンカ大好き人間で、横町で宇賀屋と云う、芸者置屋の主人でもあって、大変に元気者であったそうです。明治の三十年代に没していますが、墓は田町の隆岩寺に現存します。

 横町には江戸最末期より、生井弥兵衛親分(生井一家初代)から、三田・宝田・大場・古河吉・小林等の生井一家親分が住居していた関係で、横町水商売関係者には、一家への義理不要との口伝が伝わっております。


参考文献「明治二十四年横町戸籍簿」


脚注

[1] まとい


投稿2016/7/4


No.56 道三・三喜邂逅の地「柳津」考


戦国期の著名な医師・曲直瀬道三が、師とあおぐ田代三喜と出会った場所「柳津」について。

史料に「柳津虚空蔵」とみえることから、会津の柳津(やないづ)で二人が出会ったとされていますが、本当は「りゅうづ」と読むべきで、古河立崎(竜崎)にあった竜樹(りゅうじゅ)院が転訛したもの、二人が出会った場所は古河竜樹院虚空蔵ではなかったかと提起しています。

(写真は、古河公方公園(総合公園)隣に移設された 現在の竜樹院・虚空蔵菩薩堂)

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 漢方医学史の著名な学者に矢数道明先生がおります。氏はその著書の中で、古河公方の侍医、田代三喜と若き医師志望者曲直瀬道三が始めて出会った場所は「会津の柳津」であると指摘されています。

 氏の研究の基となった史料は『寛政重修諸家譜・今大路家」の「一渓既に二十五才、享禄四年十一月、柳津之間に到って、適々[1]医師導道に謁す」『今大路家記鈔』の「一渓翁、柳津虚空蔵に詣で医術を祈る。帰路古河を過ぎ、導道に遇い、其道を伝う」の二点であります。

 氏はこれ等の史料を発展させて、「一渓道三は医師を決意して、福徳智恵の信仰の地、会津柳津[2]の虚空蔵尊に詣で、その場所で偶然に三喜に会い、名乗りをあげ、入門を許され、帰途古河に戻って、正式に入門の手続きをとった」という結論にいたっています。

 そこまでの傍証として氏は次を述べています。(1)柳津[2]と名づけられた地で、虚空蔵尊で著名な寺院は会津柳津町にある、日本三大虚空蔵尊の霊巌山・円蔵寺である。(2)享禄四年にその円蔵寺に虚空蔵尊の本堂が新築され、十一月に大供養があったと記録が現存しており、その落慶式に両者が参詣した。B古河の近辺には虚空蔵尊を本尊として祀った寺院が見つけられない。そして「今大路家記鈔」にある「古河を過ぎ」とは、古河を訪れるの意味と解釈する。等としております。

 所で筆者は次の様に考えます。

(1)「柳津虚空蔵尊」や古河近辺に虚空蔵尊を祀った寺院が存在しないと言われていますが、実は存在しています。現在では日蓮宗鳳桐寺で管理・兼務していて、一般には鴻巣の虚空蔵様で通っている寺院は、元来は、真言宗の竜樹院広福寺であったのです。「古河市史・資料別巻」には「開基は文安年中也。天正年中迄は辰崎に存しと云伝う。(中略)本尊虚空蔵菩薩」とあります。又「天正十八年以前は城内辰崎の地に存在し、公方家の信仰厚いものであった」とあります。

 これにより、もし柳津を「リユウズ」と読んだとすれば、竜樹院の虚空蔵尊は、後世には今大路家記紗にある「柳津の虚空蔵尊」と書き変えられます。(2)享禄四年十一月に両者は会津の柳津で面会したとされていますが、二代古河公方政氏が同年七月十八日に久喜甘業院にて死去していますが、その時期に、三喜も大病を患っていたとの史料があります。(古河市史・中世編)公方家侍医の三喜は当然、この頃は多忙であり、病後、高齢(六十七才)で当時の交通事情より考えて、同年十一月の会津詣では無理があると思います。(3)「古河を過ぎ」の記録は、道三が辰崎にある、竜樹院虚空蔵尊に詣でて適々[1]、三喜に出会い、その後当時三喜が住んでいたと思われる、八千代町沼森に古河を通過して正式に面会に行ったと解釈する方が良いと思われます。

 以上により、筆者は「道三・三喜避遁の地柳津」は、当時辰崎にあった竜樹院の事であろうと考えています。又辰崎の旧名は竜崎であると記録にある事より、竜崎の地形より竜津であったと考えられますので、これも「リュウズ」と読む気であれば、読み得ます。

 道三の著「啓迪[3]集」の序文は正親町天皇の勅命により、策彦[4]周良が記したものでありますが、「野武二洲の問に、雨往風還して、前後十有八のカツキユウを更えて洛に旋り」とあります。勿論道三もこの文章を承認しているのですから、これは事実であります。野洲は道三の住んだ足利ですが、武州はどこかわかりません。八千代町は武州ではありません。三害は当時武州に住んでいた訳です。

 千賀覚次著の「古河郷土史年表」には大永四年(一五二四)に「三喜武蔵国へ帰る」とありますので、三喜と関係のあった越生や、河越地方の事か、又は三喜同族の頤生[5]軒文賢が公方政氏より現在の加須市馬内を宛がわれているので(古河市史・中世編)加須市近辺に居住していたのかもしれません。

 話しはまったく変わりますが、幕末の大阪の緒方洪庵の学塾を「適々斎塾」又は「適々塾」「適塾」と称しますが、この適々斎は洪庵の号名です。洪庵が何故適々斎と号したかの適々の原典は漢籍からの出典だそうですが、それはそれとして、筆者は医師である洪庵が、日本医学者の泰斗たる、三喜・道三の医学者としての出合いが、適々であった事を記録等で知っており、自分の医学塾の名称に、それを用いたと考えております。

※史料の柳津は、何と読むかのフリガナは当然付いていません。会津柳津とも記されず、柳津あるいは柳津虚空蔵と出ております。これをヤナイズと読むか、リュウズと読むかで後の解釈が全然異なって来ます。


脚注

[1] たまたま

[2] やないづ

[3] けいてき

[4] さくげん

[5] いしょう



投稿2016/7/3


No.55 藤原秀郷とその子孫太田氏


埼玉県北東部にあった太田荘について。

太田荘には、今の加須市・羽生市・熊谷市の一部・久喜市・宮代町の一部などが含まれました。

古河を含む下河辺荘からは西隣です。

立荘について、定説では、藤原秀郷の子孫・太田大夫行尊が、武蔵国の太田を開発し、八条院に寄進したと考えられています。

時期は不明確ですが、『吾妻鏡』文治4年(1188) 6月4日の記事では、後白河院の院宣に「太田庄」が見えますから、この時期にはすでに成立していました。

これに対して伊藤氏は、

太田大夫行尊が開発したのは、栃木市藤岡町太田であり、武蔵国の太田荘ではない、太田荘の立荘時期は安元2年(1176)〜治承4年(1180)ごろ、開発した人物は、大河戸行方と行広、あるいは行広の子息・太田小権守行朝ではないか、太田荘は後白河院領であり、八条院領ではないと提起します。

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 関東地方の人々の先柵をたどって行くと、そのルーツは、藤原秀郷に始まる家系が多くあります。関東ばかりではなく、九州は武藤、大友氏、近畿地方は西行法師の佐藤氏・近藤・後藤・尾藤氏等・奥州では中泉の藤原五代・佐藤氏等々、全国的に分布しております。近世でも、例えば赤穂義士に例を取っても、大石家を始めとして、三割位の人物の出身は秀郷系であります。

 秀郷は勿論、平将門を討った事で有名な人物ですが、室町時代になりますと、「俵藤太物語」と云う伝説が出来て、全国に流伝しました。物語は琵琶湖の湖底にある龍宮の主に見込まれ、龍王一族を悩ます、近江国野洲の三上山の大百足を、瀬田の大橋で退治する武勇伝であります。郷土史研究会の前会長、矢次京介氏の先祖は、この時百足めがけて次き次ぎと矢を射掛ける秀郷に、矢を渡した家臣だったそうで、それより「矢次」氏を称したと伝へられております。

 所で秀郷の関東における本拠地は、佐野市、や田沼町地方であると伝へられておりますが、もう一方の本拠地は、当時の下野国府近くの束山道関所のあった、三毳関(三毳駅)近辺が有力です。駅や関所には当然多量の物品の集合が有って、兵力を集合しやすい場所であったからです。当地には秀郷関係の伝説を残す場所が多くあり、母親の御廟も存在しております。

 三毳山の近辺に藤岡町大田和と云う場所があります。前述の「俵藤太物語」の俵は秀郷の私有地だったと云われる、相模国田原だと云う説もありますが、筆者は(大)田和が訛って、俵となり、藤太は藤原氏の太郎、即ち長男になります。近江の野洲の三上山は野洲の三毳山に置き換へられます。百足の件は、現在でも三毳山には、マムシが多数生息して危険地帯だそうですから、マムシ退治を指したのでありましょう。室町時代以降京都近辺で勢力のあった、秀郷系の子孫(例へば近江の蒲生一族)が自家の武勇を誇る目的で、伝説を流布させたのが「俵藤太物語」だと考えられます。

 藤岡町大田和の隣地に太田と云う地区があります。平安末期から鎌倉前期の古河地区の領主は下河辺氏でありますが、行義が初代と云われています。彼の四代前の先祖に鎮守府将軍藤原頼行なる人物が存在しますが、頼行の子息が淵名大夫兼行と太田大夫行尊の兄弟です。行尊は武蔵国太田地区を開発して太田荘の領主になったと、今までは云われて来ました。(現在の北川辺町から大利根町・鷲宮町・久喜市・春日部市・白岡市・羽生市・加須市等)

 ところで北関東における荘園の成立は、現在判明出来る純囲では十二世期の前・中期であります。行尊(行高)の実父と推定される、行則(行範)は治安二年(一〇二二)〜長元八年(一〇三五)の問、「左経記」「小右記」「日本略記」等に見い出されます。行尊は父行則の失脚後、頼行の養子になったと思われます。そして十一世紀の中葉?後半に太田と云う地区へ下り住んだと考えられています。この太田が後の太田庄であると比定されていますが、一般的に云って、何の関係もない土地に自分が進出して開発をする事は不可能であります。行尊は「太田大夫」とか「太田別当」とか号していますが、(大夫は五位に仕官した者の称で、「別当」は管理者を意味します。)筆者はこの「太田」は武蔵国太田庄ではなく、藤岡町太田村(平安期には太田郷と云われていたと推定される)近辺を指す「太田」だと推定します。それは前述の通り、(1)太田庄の成立が十二世紀の中期以降であろうから、時代が合わない。(2)武蔵国埼玉郡於保多郷(後の太田荘)は秀郷系藤原氏と十二世紀中末期まで関係を持っていた形跡が見あたらない。と云う所より推定します。

 藤岡町太田地区には秀郷の嫡流である鎮守府将軍兼陸奥守兼光が、秀郷の本拠地の三毳山の近辺太田村へ正暦五年(九九四)に館を築き、これを太田館といい、東西二百二十m・南北三百四十mの規模でありました。現在太田館跡には稲荷大明神社が存在しますが、伝説では行尊が後朱雀天皇の御世に勧請したものと云われています。(一〇三六?一〇四四)兼光の嫡流は行尊・行政・行光・行広・行朝と「太田」を称しております。行広の時代は平安末期になり、その兄弟が小山地区を領有した三男政光・下河辺を領有した四男行義です。岩付・騎西地方の大河戸厨の次男行方に別れて行きました。本来の太田嫡流の行広は武蔵国太田庄の在地支配へ係り、代わりに兄弟の小山政光が嫡流となって、下野大介になり、下野国府に勢力を張っておりました。

 この時代下野国で同じように勢力があったのが同族の藤原足利氏であり、下野の両虎と称されていました。この両者が激突したのが、野木宮の合戦であります。合戦は志田・足利連合軍と、国司として軍事下知権を持った小山氏一族の戦いとなり、小山氏側の勝利であります。

 これは軍事下知権のもとに集まった軍勢が志田・足利軍を上まわった為と思われます。これにより小山氏が下野国の第一人者になったのであります。

 小山氏は「吾妻鏡」に記されている様に、押領使や大介職を十五?十六代・数百年間も相伝したとある様に、秀郷系の嫡流であります。当然下野国内に住居したものと思われます。行尊も下野介に任じていますから、同人が称した太田大夫は藤岡町大田であって当然です。ただし秀郷系が後代、武蔵国太田荘に関係を持った事も事実ですが、それは行尊の時代より約百年位後の頃だと思います。

 太田庄の立券された時期については現在の所不明であります。本所は通説では八条院であるとされていますが、筆者は後白河院が正しいと考えます。根拠は文治四年六月四日の後白河法皇院宣で相模国山内庄?信濃国伊賀良庄までの一団は後白河院領の庄園だからであります。後白河院領となった経過については不明でありますが、平氏最盛期には武蔵国は平氏知行国でありました。ですから最初の庄園本所は平氏だった可能性があります。(新編武蔵風土記によれば羽生小松村は平重盛と関係ありと伝わる。)養和元年に頼朝は平家に属した大河戸重行やその子供達を赦免していますが、小山政光の兄弟である重行(行方)は大河戸の厨に平氏が実質領分としていた時代に、平氏に属して、その荘官になっていたものと思われます。後白河院が太田庄の本所となったのは、平氏の没落をみた元暦元年頃に自分の領地に収めたと考えられます。大河戸厨については元来源氏の伝領であった事は頼朝による伊勢神宮への寄進状より明白です。これも平氏によって押領されていた土地であります。

 それでは何時頃、だれによって太田荘の寄進・立荘がされたかの問題であります。内山俊身氏の研究によれば「下河辺庄の成立と総和町関戸の宝塔』下河辺庄の立庄は安元二年(一一七六)より治承四年(一一八〇)の五年問とされています。さすれば、太田荘の成立もこれに前後するものと考えられます。

 一番可能性のある人物は大河戸行方と行広でありますが行広の子息に太田小権守行朝が存在していて、彼は建久五年(一一九四)に大河戸御厨の神人殺害事件で太田庄を没収されていますから、彼の父大河戸行広が平氏に寄進・立庄した人物と思われますが、あるいはその人物は太田小権守行朝自身であるかもしれません。

 寿永二年二月(一一八三)の野木宮合戦の文章を見ると、太田行朝は足利有綱・佐野基綱・阿曽沼広綱・木村信綱等と共に一団となって行動していますが、これ等の武士団は、足利・佐野地方を本拠とした人物であり、その中に太田行朝が存在しているのは、太田行朝が、藤岡町太田にいまだ存在していて、その方面の一団と共に南行して小手差・小堤にて合戦をした事を示していて、藤岡町太田に行朝の軍事拠点が存在していた事がうかがえます。

 この行朝の本家は小山政光・朝政であります.行広・行朝段階で平氏を太田庄本所として寄進・立庄しましたが、平家没落時点で、行広・行朝等が本家小山荘の本所である後白河院を頼って再度寄進したと考えられます。

 ※太田行広・行朝は太田庄とは寿永ニ年の野木合戦までは関係なかったが、その戦功によって行朝が太田庄々司になった事も考えられます。その時点で太田庄を後白河院に寄進したとも考えられ、行朝の志田合戦の参加は、小山氏により下野国への軍事下知権を受けての下野武士団の参加だと思われます。

※郷土史家の鎗水十士男氏は「古河通史上巻」において『行光は寛治六年(一〇九ニ)に生まれ、十七才の天仁二年(一一〇九)に源氏の内紛の時に軍功によって後年下河辺庄となる土地を賜わり、「太田」を改めて「下河辺」と称した」とあり「五十二才の康治二年(一一四三)二月に死去」と書いております。行光の母は源頼国の娘とあり、源仲政とは従兄弟の関係でもありました。』

〇同氏によると下河辺行義の母は千葉介平常兼の女(保安四年(一一二三)生、天歴元年(一一八四)六十一才没。)

〇同氏によると下河辺行平の母は兵康頭源仲政の女(久安元年(二四五)生れ)承元元年二二〇七)六十二才没。)

これ等の文章は出典が不明であるが、伝承をまったく否定も出来ないと思います。


追記

※行尊の兄弟の兼行が淵名大夫を称して、上野国佐位郡淵名庄を発生せしめたから、行尊が太田庄を立券しても不可能ではないであろうとの反論もあるでしょうが、これは兼行の叔父の兼助が上野の国司(上野介)に就任して、淵名郷を中心に私領を形成し、ここに館を構えたのが始まりの様であり、兼助の家督(郷司カ)を兼行が継承したものと思われ、兼行が淵名庄を立券したとは考えられません。淵名庄の立券はやはり十二世紀の中頃と考えられます。ここで述べたごとく、上野国と秀郷系藤原氏の関係は明確でありますが、武蔵国と行尊の関係は不明であります。

 そもそも北関東における庄園発生の時期は御厨・保は十一世紀中頃に成立したとされ、庄園の立券はおくれて、白河上皇の大治二年(一一二七)の庄園停止令後から発生したと考えられます。ただしそれ以前にも庄閲は存在はしたのですが、例えば元永二年(一一一九)に関白忠実の上野国荘園五千町歩が停止されたごとく、立券されていた庄園も度々の庄園停止令により、廃園されたのであります。しかし白河院没後、烏羽院時代以降になると停止令が発令されなかったので、数多くの庄園立券となるのであります。(一一三〇年以降)

 北関東の利根川系や渡良瀬川系の土地は古来より、浅間山の噴火によって度々埋没田畠になっています。特に有史地代になってからの一一〇八年と一七八三年の大噴火による災害は被害が甚大なものでした。天仁元年(一一〇八)の被害は「中右記」に記録が残されており、「国内の田畠は之によって滅亡す.一国の災いまだ此の如き事有らず」とあります。これにより荒廃地が出現し、空閑の郷々が目立つ地域になったのです。前述の五千町歩の荘園もその様な土地だったと思われます。これら荒廃した空閑の地を、再開発したのが、有力豪族等でありました。荒廃した空閑地だったゆえ、大土地一括所有が可能だったのであります。

 大土地所有は、勿論自懇開発だけが主流ではなく、縁戚関係にあった在地の豪族(国司・郡司や郷司)を取り込んだ開発でもありました。当時の婚姻は婿取り婚型式が主流でありましたから、在地の豪族や有力者の財産を統合する事は比較的容易であったとも思われます。

 今回の稿は残存史料も少ない時代を考察したので、多分に推定だけの分部が多いのが残念ですが、行尊時代に、武蔵国太田郷に突然出現した、秀郷系藤原氏の進出に疑問を持った筆者が、伝承としても秀郷系藤原氏の史跡を持つ、藤岡町太田近辺を太田氏の名字の土地であろうと推定するものです。現在の埼玉県旧太田庄地区に残る、小山氏等の伝承は、南北朝以前に遡るものではなく、(竹の下合戦による、小山氏への恩賞地カ)、太田行尊時代の武蔵国太田郷地区への進出ははなはだ疑問であります。ただし藤岡の大田村が村名としていつ成立したかは、今は不明であります。


 参考文献「藤岡町史」「鷲宮町史・中世」


投稿2016/7/2


No.54 御帰りと野木神社


古河藩領の鎮守・祈願所、野木神社と、野木神社の神事として始まった御帰り、すなわち「提灯竿もみまつり」について。

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 御帰り(古河提灯竿もみ祭り)の起源・時代経過の歴史ならびに変遷、そして祭りそのものの概要を文章を持って書きあげるとすれば、膨大な紙量となってしまうので、概説は、「古河市史」?民俗編?の記事を参照してもらうのが一番適当と思われます。ここでは、御帰りの行事の基となっている野木神社の歴史と御帰りの起源のみを書いてみます。

 この地方で最も古い由緒ある神社の一つで藩政期には古河藩領の鎮守・祈願所として歴代の藩主から崇敬が厚かった野木神社は、仁徳天皇の時代、職城奈良別君[1](崇神天皇第一皇子豊城入彦命[2]四世の君)が下野国国造として当地へ赴任するにあたり、15代応神天皇の第八皇子の莵道稚郎子尊[3]の神霊を山城国莵道の聖廟より、勧請して野木野波台手箱の地へ祀ったことが始まりであると「野木宮由来」に書かれております。

 さらに同文書によれば、平安時代の延暦年間(七八二?八○六)、坂上田村麻呂は蝦夷征討の時、武功を祈願し、奥州の地を平定できたので、社殿を台手箱より現在の身隠の森に移築し、国家鎮定のお礼として、国家太平の祭事を奉ったと書かれております。

 時代が降って、平安最末期の寿永二年(一一八三)常陸国にいた源頼朝の叔父志田三郎先生源義広が、頼朝に対抗して挙兵したとき、下野国小山朝政は野木宮を深く信敬し、当宮に引龍もり、戦略計画を立て、志田軍を追討勝利し、余党をも、多数討ち取りました。

 頼朝は開幕にあたって、この勲功を顕し得たのは野木宮の神霊の加謹によるものとし、祝[4]野木熈音[5](野木右近太夫種熈四世の孫)に命じて本宮ならびに別所斎殿を造営させました。

 文治元年(一一八五)二月、頼朝は厳旨をもって、下野国寒川郡を野木宮供米料の斎田と定めました。翌年その内の十五町分の田地が日光山の三昧田に割讓されたが、郡内の追間田、寒川、中里、鏡、小袋、井岡、網戸、下河原の八ヶ村が以降神領として残り存在しました。

 小袋村と井岡村は鎮守を同じくしていた関係から一郷とみなされ、七郷の地区が野木神宮の氏子地域となされたわけであります。この七郷にある野木神社の末社を、官司・禰宜[6]・権禰宜の三騎が美しく飾りつけられ、御神霊の幣帛を神主が背負って、神鉾をもって、巡行するのが、「七郷巡り」とされるもので、建仁年間(一二○一?○三)に始まったと伝えられています。

 毎年十一月二十七日の「おいで」と称する出発日から一日一社を巡り、この行列には各村の精進潔斎した裸体の若者達が篠竹に高提灯をかざして、多数供奉しましたが、行列が各村の末社で一泊して、次の村に向かう時、村境で双方の村の若者達が行列の進退をめぐって激しく、揉み合いをしました。十二月三日の深更から四日の早暁にかけて野木本宮に帰るのでありますが、これを「お帰り」と称し、下生井の渡しに到れば、行列の提灯はすべて消してしまうのであります。野木宿に入ると、これを迎える者達が一丈に余る長竿の末へ思い思いの美麗な提灯を照らし出し、神馬とともに駆馳します。この時宿内は白昼の如くと書かれています。野木宿を過ぎ、西の横道より畑中を無二、無三、ひたおしに数百人走り、台手箱まで到って、修験者の合図にて、一同消化して暗夜となり、少時神事があって、又、修験者の貝の合図にて、悉く提灯に火を入れます。それより御洗水に七川問、幣帛を据え置いて、奉り、仰び神事を行なってから、それを本殿へ奉納するのであります。

 このお帰りの奉迎行には、古河地区の住民も数多く参加したらしく、特に、鍛冶町の住民の先祖は、野木神社付きの鍛冶集団として台手箱付近へ、古くは、居住していたので、深く関わりがありました。その他の各町内からも、野木の宿まで、長竿の提灯を持って出かけ、各町が民家を借りて受けて休み所としてその付近で古河町の者だけで、神いさめの提灯操みをしたものでありました。

 古河町での御帰りの発生は藩制時代(幕末期)に、野木神社に奉迎に行った古河町の住民が、祭りの終了後、その竹の長竿を持ち帰り、横町の花柳界にて、揉み合いをしたのが始まりでありましたが、明治四年の廃藩置県の実施により、野木と古河との行政区が別れる事になったので、古河住民は独自に古河住民だけの御帰り(帰社祭)を行なうようになりました。頭初は、それでも参加者は野木宮に参拝してから横山町にもどり、祭りを始めたのでありました。竿は初めは一人一本(一人揉み竿)であったが、後にはカンナやトンボを付けて多人数で揉み合うようになって来ました。必然的に長大な竿になったので屋根にふれるようになり、その障害も出て来ましたので、横町の商家では通りに、やらいを作って屋根を保護するようになりました。そのような訳で現在の様な形式になったのは明治十五年頃であったと思われます。


参考文献「野木宮由来」「古河志」「許我志」

「古河藩のおもかげ」


脚注

[1] しきならわけのぎみ

[2] とよきいりびこのみこと

[3] うじのわきいらつこのみこと

[4] はふり

[5] ひろと

[6] ねぎ


投稿2016/7/1


No.53 義士原惣右衛門の娘二人


赤穂義士(浪士)原惣右衛門の娘のうち、二人が本多家時代の古河藩士と結婚し、古河に住んでいたようです。近年まで田町の隆岩寺に墓がありました。

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 戦前に「古河郷友会」という会がありました。古河在住の会員と海外及び日本全国に渡る古河出身者が集まった団体でありました。創立は明治二十三年で、二十五年八月には「郷友会雑誌」と云う会報を発刊し、この会報はその後、延々と続き昭和十七年の七十二号までを数えております。この会の運営や歴史・人物については別の機会に詳しく述べてみたいと思います。

 会報の昭和四年の第五十五号に橋本喜三郎氏(古河出身者・浅草の質商・坂長・坂彦・島崎屋の親類者・号渡川)が「古河隆岩寺にある赤穂義士原惣右衛門元辰娘の墓」と題して次の様な記事を書いておられます。

『原惣右衛門の人物』

「先祖は武田信玄の家臣原隼人(千葉氏一族の原氏)であり、武田家没落後最上家に仕える。最上家没落後、父七郎左衛門は上杉家に仕え、後浪人す。母は和田帯刀の娘。惣右衛門浅野家に仕える。軽輩より累進して用人となり三百石に転じ足軽頭となる。」

『惣右衛門の家族」

「氏は同藩長沢六郎右衛門(三百五十石・同盟後脱落者)の娘を妻とし、四女を生む。妻死去後、水野玄格と云う医師の娘を後妻に求め、一男を生む。五十五才の切腹時に、長女は三十三才。次女は二十五才。三女十五才。四女十三才。長男五才。(氏の母親は氏及び実弟岡島八十右衛門の足手まといを恐れ自決する)長女は本多藩家中より兵太夫と云いし養子婿を取りしが、兵太夫義士同盟後脱落した為離別。後に大阪の町医田中員沢に嫁ぐ。次女は三浦志摩守家臣小原助之進へ嫁ぐ。三女は本多中務家の典医川村玄龍に嫁し、同家は養子養達をむかえる。四女は本多中務家臣緒方平左衛門惟式の妻となり、享保十八年七月二十八日卒。田町隆岩寺へ葬る。法名智勇院妙健。四十三才。平左衛門法名。成誉知道居士。寛延三年八月十三日卒。七十八才総州古河。長男は後許され、広島浅野家へ仕え、二十人扶持より鎗奉行三百石に昇進。原惣右衛門辰正と名乗る。子孫は現存する。」

 以上であります。()内は筆者が書き加えたものであります。この記事の基本資料は当時の義士研究家の西村豊氏が調査したものだそうです。

 これ等を古河の史料より鑑みてみることにします。「古河市史近世藩政編」の宝暦八年(一七五八)本多家分限帳は緒方平左衛門が死去してより八年後の分限帳であります。

 百拾石 緒方七郎

と出ております。この者は平左衛門と智勇院との間に出来た子息だと思われます。一方の川村家は

 八拾石壱人扶持河村養達

と出ております。

 本多家の古河在城は正徳二年(一七一二)より宝暦九年迄の四十七年間に渡ります。緒方家の夫婦は古河で死去と明記されておりますが、川村夫婦の方の没年は記されておりません。ただし川村氏の妻は宝暦九年時には七十二才の高齢になっている訳ですので、河村夫婦も古河の地で没した可能性はいたって大でありましょう。

 筆者は先に、吉川忠左衛門の関係者が本多家の家臣中に多く存在した事を指摘しましたが、この度「古河郷友会雑誌」によって、大石内蔵助が吉田忠左術門と共に両腕として頼りにした、原惣右衛門の関係者が古河の地に、当時同時に存在していた事が判明して、何か心嬉しく思えてなりません。吉田家と関係深い寺坂吉右衛門が、永い問古河に住んでいた意味も理解出来る訳であります。

 隆岩寺に存在した緒方夫妻の墓は、現在では不明でありますが、筆者と共に興味のある方はさがしあててみたいですね。

 なお緒方家子孫は明治後、軍人となっており、その内の一人は昭和初年に惜しくも、中佐で中国大陸で死卒しております。河村家の子孫は所在不明であります。原家の子孫からは法曹界や文学博士となる人物を輩出させております。

 元禄時代、幡州赤穂藩家臣と幡州姫路勝本多中務太夫家臣との間には、地理的に近接していましたので、婚姻・養子関係が当然多かったのでありました。


投稿2016/6/30


No.52 寺田与左衛門三代


古河藩主・土井家の重臣、寺田与左衛門について。

初代与左衛門は武功の名声高く、土井利勝が将軍・秀忠に願って、自らの家臣としました。大坂夏の陣でも活躍。利勝のもとで筆頭家老となります。

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 土井利勝公から四代目の利久公時代までの重臣に寺田与左衛門父子三代が存在しました。初代の与左衛門は小田原北条氏の家臣で、北条氏滅亡後、一時長坂血鎗九郎の家臣となり、その後幕府の徒士として出仕していたとされています。当時武功の名声があった武人であったそうです。

 利勝は慶長七年にそれまでの知行千五百石から下総小見川で一万石、慶長十五年には佐倉移封にて三万二千四百石、十七年には四万五千石の大身に出世しております。

 寺田は佐倉移封より慶長十九年の大阪冬の陣までの期間に利勝が将軍秀忠に願って、幕臣より土井家の家

臣になったのであります。土井家出仕と同時に家老職に任じられた様で、冬の陣の時は二千石の身分で七騎の家人を引きつれて出陣しております。夏の陣では五月七日の戦いが土井軍の一番の激戦でしたが、寺田家人達は八級の首をあげる武功を立てております。

 土井家は夏の陣の直後に六万五千二百石に加増され、元和六年には九万二千石、寛永元年には十四万二千石、十年には十六万石になって佐倉より古河へ移封しております。この間寺田氏も加増を受け、古河入封の時は六千石の大身になりました。

 寛永十九年(一六四二)の分限帳には寺田左太郎六千石と出ております。この左太郎を今までの説では二代目与左衛門に比定しておりますが、千賀忠夫先生によれば、後述しますが古河退藩する与左衛門は三代目であるとされていますので三代目同人だと考えられます。

 二代目は比較的若く死去した事が判明します。この当時は地方知行制でありましたから、初代と三代の寺田与左衛門の墓が二基、彼が知行した総和町磯部に現存しています。磯部の墓銘初代「鷲高院節心浄忠居士寛永十九年六月六日没俗名寺田左金吾時由 行年八十四才」三代「孤峯院殿翠雲元松居士元禄十六年正月九日。」

 六千石の寺田氏は主人共に二十六騎、外に足軽百人を抱える筆頭家老で、土井内蔵充は利勝の家臣と云うより当初は幕府からの付け人と云う身分であった様子でありました。初代は江戸家老として利勝を補佐しております。次席家老は千三百石の大野仁兵衛でありますから、いかに寺田氏が土井家の出頭人であった事が理解出来ます。

 正保四年の十三万五千石の分限帳でも六千石高でありました。土井家は四代利久公が十才の死去により、五代利益公の減知襲封の時多数の浪人を輩出するのでありますが、この延宝三年(一六七五)の時点で十万石の土井家で寺田は三千六百石の身代でありました。

 五代目を継いだ利益は当初かつて自分の、三代目襲封に反対した寺田を慰留した様子ですが、彼は強て暇を取っております。ただし彼はこの時藩政の善後処置を全うし、退藩者の浪人生活対策を行った上で三年後の延宝六年七月二十三日に古河を立退いたのでありました。当日の出で立ちは、馬上侍十三人他・長持・弓・鉄砲の威風堂々たる騎馬行列であったそうです。

 彼等の行先は小田原城主の稲葉美濃守正則家であります。九万五千石の稲葉家に行った理由は、土井利勝次男利長の生母と与左衛門の母が姉妹でありまして(沢氏の娘)利長の室は毛利秀元の娘で、正則の室も秀元の娘であった上、正則の後妻は堤貞長の娘で、古河藩主利益の生母も貞長の娘であると云う三重の関係からです。その上小田原は先祖の縁の深い土地であるからです。彼は稲葉家で三百人扶持(石高だと四つ取りで千三百五拾石)の客分。伜左太郎は五百石高の待遇を受けております。

 延宝八年五月の綱吉公が将軍職を継ぐ時点で、彼は箱根関所の番頭役を勤めていましたが、御三家を始めとして諸国大名の書状封印をことごとく同僚の反対を押し切って開封して、閲覧した事が有りました。この事が綱吉の耳に入りますと、将軍は大層に彼を賞撤しており、かつて自分の家臣にしたかった人物であると、語られたそうです。

 翌年にはこの功で彼は客分より本知となり、左太郎は六百石に昇進しております。しかし幸時魔多しの譬えの様に、左太郎は貞享四年五月二日(一六八七)に父に先だって死去し(墓は古河本成寺に現存)、程なく彼自身も稲葉家の藩主交代以降に稲葉家を退藩して従弟になる三河西尾藩主の利長の所へ老身を寄せております。五十人扶持を給され、後年その地で死去したものと思われます。

 なお彼の妻は二代目土井内蔵充之政の妹でありました。又土井利長の嫡子利意は実は稲葉正則の五男であり、利長室毛利氏の甥でもあります。

 与左衛門次男善次郎は館林藩主松平右近将監清武に仕え、子孫は代々松平家で二百石の上級家臣として存続しております。

 ※初代は永禄元年生れ(一五五八)でありまして三代は元禄十六年没(一七〇三)その間百四十五年もある。古河藩を退藩した与左衛門は三代目であります。


参考文献「寛政重修諸家譜」「千賀忠夫氏論文」

「古河市史・資料編」


投稿2016/6/29


No.51 麦倉慈眼寺と小室家


北川辺麦倉の小室家は、酒造業を兼ねた大庄屋で、慈眼寺を開基したと伝わります。

詳細な来歴は不明ですが、ここでは、信濃(長野県)小室(小諸)出身で、古河公方・足利成氏との関わりにより、麦倉にやって来たと推定しました。

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 北川辺町在住の鎗水十士男先生は郷土史研究の大家で、色々優れた論文を著述されております。先生の御書きになった「北川辺めぐり」と云う本に北川辺町麦倉慈眼寺の事を述べております。そこには江戸末期に編集された新編武蔵風土記稿をのせて「新義真言宗、開山淳甚は応永元年三月二十一日寂す。当寺は永徳二年(一三八二)今の名主惣助が先祖小室六左衛門と云者開基する所なり」又旧家惣助の条に「小室氏なり、先祖を六左術門と云い、永徳の頃村内慈眼寺を草創せしと云傳ふれば、古くより当所の住せし者なれども證とすべきものを傳へず」の史料を引かれております。現在の慈眼寺の本堂は文化八年(一八一一)に再建されたものですが、この本堂建立は小室惣助が全額出資して建てたもので、俗に「一建立[1]」と云われる寺院の造立のしかたで、仏教徒としては最も栄誉な事で、功徳を施す事だそうです。

 本堂の内部には天井の格間に板絵が百九面描かれていて、実に美事なものであります。絵師は当時の一流浮世絵師である奥村政信系の奥村将信の作品であります。その他小山霞外[2]筆「無動尊」。霞外長子の悟岡[3]による「渡[4]界心殿」の両木額が存在しております。この木額も大変格調の高い物で、保存状態も良く美術的価値の大きいものであります。石に刻された小山家の人達の作品は多数現存しますが、木に刻された現存物はきわめて少なく、大変貴重な作品です。当然これ等の作品を寄進したのは小室惣助であり、小室家と小山家の関係を示す一つの史料であります。

 当時の小室家は古河藩領内川辺領の川附十ヶ村の大庄屋で、酒造業と地主を兼ねて家産を富ましております。百町歩以上の上田を持ち、現金も多額を所有しておりました。

 小室家が麦倉村に来部したのは前述の新編武蔵風土記では永徳年間の頃とありますが、麦倉村の開発時期から考えると、永徳は延徳年間(一四九〇)の誤伝だと思われます。何故ならば同風土記の麦倉村の条に「当村は明応頃(一四九二)の開発」と記載されているからです。当時の領主は倚井陣屋に住居せし石川権頭義俊(一説石川信濃守吉俊)で倚井郷を明応元年に麦倉と名付けたと、子孫が著述した石川家記録に出ております。

 石川氏の詳細な系譜は不明ですが、奥州石川地方(福島県石川町近辺)の領主であった清和源氏有光系石川氏の流れで、古来より足利氏の同族で、しかも側近大名で、古河公方成氏や成氏の父兄とも深い関係にありました。(両者の関係は「角田石川文書」が証明している)この縁で康正元年の成氏古河入部以降、招かれて古河の北方の要地川辺郷の領主に任命されたと思われます。

 小室氏はその先祖は不明ですが、古河公方成氏が幼年期に信州の大井氏のもとに逃れ隠れていた時期がありますので、信州小室(小諸)地方の出身者だと考えられます。(他例では海老瀬村の旧家松本宅も信州松本より来ると伝へられる)そうなれば、成氏との縁で古河地方に共に入部したものと思われます。

 近世の小室家については寛延年間(一七四八)からの史料が現存しておりますが、それにはすでに麦倉村名主と記録されております。酒造業をいつの頃から始めたのかの時期は不明ですが、寛延頃にはすでに営業を始めているようで、寛政時代(一七八九)には古河石町金右衛門の酒造株も入手して増産し、その商圏は以前の北関東に限らず舟運による江戸との商取引を漸増し、積極的に財力を確立しております。文化年間(一八〇四)以降には十ヶ村の大庄屋となり、政治権力も付加したのであります。

 前述「大久保村の高瀬家」の所でも書きましたが、小室家も文化年間以降明治年間までは、「利根川の水は枯れても、小室の金はつきまじ」と称される富家になったのであります。

 なお稿を改めて別記したいと思いますが、明治初年には小室家一族から荒虎敬之助と云う幕内力士が出ております。最高位は小結で、三十九歳の現役力士のまま盛岡巡業中に死亡しますが、亡師伊勢海の跡を継ぎ現役中二枚鑑札であります。明治初年に相撲廃止論のあった折、力士仲間で消防組を作り、相当な働きをみせて、相撲界の存在価値を政府に認めさせた功労者です。四十三連勝中の雷電震右衛門を倒す殊勲もありました。

◎足利成氏は万寿王丸といった幼年期、信濃佐久郡安養寺に大井持光の庇護のもと匿われた。(現在の佐久市安原)。海老瀬の松本氏は本姓大井氏であった事が墓碑銘より判明する。現在の小諸市近辺は中世には小室と呼ばれる土地で佐久郡小室邑。現松本市は中世まで深志と称しているが深志地区の内に松本村が存在していた。大井氏は鎌倉公方と密接な関係があり、安養寺の住職が万寿王丸の乳母の兄であった。(長野県史中世二)


参考文献 北川辺町編「小室家文書」


脚注

[1] いっこんりゅう

[2] かがい

[3] ごこう

[4] ぼう