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かつて古河公方が拠り東都と謳われた古都・古河。
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古河史楽会
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古河史逍遥(No.25〜No.50)

投稿2016/6/28


No.50 勇士、折下外記(おりした げき)


折下外記は、古河藩主・土井利勝の家臣。史料が少なく、あまり知られていません。今回は、この折下外記について探ります。

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 鷹見安二郎先生が書かれた古河市発刊の「土井利勝」のなかに利勝公の名臣として折下外記の事を述べております。

 「折下外記は上杉氏の家臣で景勝の姪聟となり、大阪の陣では長刀の名人穴沢主殿介を討ち取った剛の者であったが、景勝に諌言したことが原因となり浪人して江戸に忍んでいるうち、路上で不法な旗本の士を切り利勝の屋敷に自訴して来た。外記の武名は高かったので、利勝は将軍の許しを得て家臣とし、千石を与えて番頭とし、のち家老とした」◎土井家召抱えは元和三年であります。

 筆者は前々から折下外記の事を調べてみたかったので、この記事を手掛かりに色々の史料に当ることにしました。

 最初に上杉家家臣であったとありますので、上杉家(長尾家)の譜代の臣であろうと考え、上杉謙信や景勝の越後時代の史料を多数目を通してみました。しかしどの史料にも折下家の事は出て来ません。そこで江戸時代の上杉家家臣団の分限帳や系図を調べてみましたが折下と云う家系は発見出来ませんでした。景勝の姪聟だとすれば、かなりの身分の者ですから米沢市の市史ヘンサン室に問い合せましたが、ヘンサン室の先生のお話ではそもそも謙信や景勝、その他の肉親には兄弟がはなはだ少なく、景勝の姪で外記の妻になった人物に該当する婦人は存在しないとのご返事であります。

 上杉家は旧くからの名流であり、江戸時代も謙信、景勝の血脈を誇りにして、歴史研究が今もって盛んな土地でありますから、もし景勝の姪聟だとすればたちどころに判明するはずであります。景勝の夫人の方の姪である場合も考えられますが、そちらも該当者はありせんでした。

 それでは大阪の陣の活躍の方はどうでしょうか。まず『徳川実紀』を鑑みる事にしましたが、大阪の陣の項には、外記の働きは出て来ません.ただし外記が討ち取ったとされる穴沢主殿介については判明しました。「穴沢主殿介は本名穴沢盛秀といい、長刀の名人で武者修行で諸国を回り、奈良宝蔵院胤栄とも試合をしたと伝へられ、豊臣秀頼の武術師範となり、元和元年(一六一五)大阪夏の陣で討死」そして主殿介が鹿島神道流の伝流の者であり、別の史料から子息は島原の乱の鎮圧に功あった、秋月藩初代黒田甲斐守長興の長刀の師、穴沢常具である事も判明しました。しかしこれ以上の折下外記についてはわかりません。

 次に『上杉家御年譜』と云う上杉家史料がありますので、これに当りました。そうしたら同書の第三巻の慶長十九年十一月二十六日の記事に「大阪冬の陣鴨野の戦の時、城中の兵で穴沢主殿介、剃髪して鉄可と号す長刀の達人で秀頼公の師範なり、打って出る。(中略)雑兵七?八人を薙倒す。直江山城守が従軍より、坂田采女義満、鎗を持って合戦す。味方折下外記・渋谷弥兵衛等穴沢を取りくるみ、義満ついに穴沢を討留めけり」と記されていました。これで外記の活躍が史実であった事が判明しました。外記の事は「御年譜」ではこれ一件で、それ以外は一切出て来ません。多分外記は中級の家臣であって、景勝が越後より会津・米沢に移封してから仕官した者であったと思われます。折下と云う家名は当時より会津地方にたまたま存在する家名だそうです。(直江兼継の姪聟か?)

 外記が浪人になったいきさつの史料はありません。そして江戸での旗本との事件も今の所判明しません。「徳川実記」等を詳細に調べれば、この件も出て来るのでしょうが、後日に研究したいと思います。

 寛永十九年の利勝晩年の分限帳では外記は五百石高の組頭(今日の連隊長)で出て来ます。利勝には元より譜代の家臣が少なかったので、実戦の勇者である外記の様な家臣は、是非とも必要な人物であったのです。二代利隆時代の正保四年(一六四七)の分限帳には千石の家老として折下外記と出ております。この折下外記は多分初代の外記だと思われますが、初代の子息もやはり外記を襲名して、家老職に任いております。二代目の外記は後年四代藩主利久が早世し、利益が本家を相続する時責任を取って浪人になりますが、延宝七年(一六七九)七十歳にて没しております。折下家は家督後は外記を名乗りますが、嫡子は数馬を代々名乗っています。子孫についてはいまの所不明であります。


参考文献「常山紀談」


投稿2016/6/27


No.49 謎の人物石上八郎


幕末の古河藩で活躍した京都留守居下役・石上八郎について。

幕末の藩内は、勤皇派と佐幕派が対立。危機的な状態でした。このとき、勤皇に藩論をまとめあげた筆頭家老・小杉監物のもとで活躍した人物のようです。

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 突然石上八郎と云い出しても、読者には馴じみの無い人名だと思います。

 江戸幕府軍は慶応四年一月三日の鳥羽・伏見の戦に敗れ、将軍徳川慶喜は江戸に逃げ戻ります。当然慶喜に追討令の勅命が下り、幕府は崩壊になったのでありました。

 古河土井藩では前年の十月の慶喜による大政奉還の時点では、いまだ藩論は佐幕論が有力で朝廷による所の召命、すなわち「各大名を京都に召集して、衆議によって国是を議定すべし」には近隣の同僚譜代大名(土蒲藩主・関宿藩主等)と連署で断りを幕府に申し出ております。しかしその後に、政情は目まぐるしく変化し、十二月の王政復古の宣言・小御所会談等を過て、前記の烏羽、伏見の戦に突入して行くのでした。

 古河藩の筆頭家老小杉監物は政情の変化に注目していましたが、鳥羽、伏見の敗戦直後の一月十二日に藩主名代として江戸より上洛し、京都の政情を視察し、同月二十四日には江戸藩邸に帰っております。この間に収集した情報に基づき、監物は藩内に多く存在した佐幕派(城代土井氏・岩崎・清水・永尾氏に代表される)を押え、当時十五歳の藩主利与[1]を擁して勤皇誓約の為の上京を決行したのであります。

 藩主一行が江戸を出発したのは慶応四年の三月二十日で、四月二日に京都の油小路の藩屋敷に到着しました。(二条城の目の前にあった)この間佐幕派による上洛阻止行動がありますが、監物は断固振り切っております。それ以降勤皇誓約の為に要所・要人に対して色々の行動を取っておりますが、翌月の閏四月九日に到って、ようやく明治幼帝の玉顔を拝謁し、十日には誓約書が納受されて、本領が安堵され、上京の目的が果されたのであります。これが後年、古河を救った大恩人は小杉監物であると評価される由来であります。近隣の関宿藩、結城藩等は政情に乗り遅れた為に、戦乱にまき込まれ、藩内闘争や外圧の為に多数の犠牲者を出しております。

 所で在京の問に古河藩を代表して活躍した人物に石上八郎なる者が存在します。主に朝廷に差し出した書類の名儀人に、彼の名前が書かれております。役臓名は京都留守居下役となっております。当然この時期にも藩の京都留守居役は存在しており、家老職座上の監物も在京しているので、彼等が代表して当然でありますが、何故か石上八郎が代表になる例が多いのです。

 この石上なる姓の者の存在は、それまでの古河藩の史料には見あたりません。留守居下役とは懲役でありますから、軽輩者の登用だと思われますが、小役人や足軽の名簿にも石上姓は皆無であります。明治元年の古河藩貢士(藩主の推挙で藩諭を代表して政府公議所へ出仕する議事官)は二名あって、恩田啓吾と石上八郎が任にあたっております。さすれば明治政府(朝廷)に当然、受けの良い人物であったと推定されます.明治三年の「古河藩諸課役員士族等名面」と云う史料がありますが、石上八郎は「慶応四年四月二十三日京都留守居下勤召出・明治三年六月邸宰史・公用勤(公議所出仕)是迄通り」と出て来ており、この史料を最終として、以降の史料には一切石上八郎の名は出て来ません。

 八郎が古河藩に召抱えられる以前の身分を書いた史料が一切無いので、彼は如何なる人物か不明であります。石上なる姓では最初に石上神社が思い出されます。それと古河支藩の大野藩に一時期石上氏が存在しています。

 一方古河藩と関係の深い公家では五代藩主利益の生母の関係より堤家が存在します。明治三年の前掲史料より、古河藩では堤家へ現米七石五斗の合力をしている事が判明しております。幕末期の堤家は哲長(アキナガ)の時代で、彼は文久三年八月近習、同年十二月より慶応三年十二月まで議奏の職にあって慶応四年二月参与兼制度事務局権輔・右京太夫で正三位の要人であります。近習と云い議奏参与の職は天皇に最も近い間の職務でありますから、自然政治の情況が理解出来、又、操作出来る立場であります。石上八郎なる人物はこの堤家と関係の有る人物であった可能性が大であります。

 小杉監物の当時の行動については、当然確かな情報提供者がいなければあの様には行動出来なかったはずでありますから、この堤家やそれに近い石上八郎からの情報に基づいた行動だと思われます。

◎堤家はもと、中川家といい中川氏の娘が土井家二代利隆の側室となり五代利益の生母であります。


参考文献 永尾家史料「古河藩諸課役員士族等名面」


脚注

[1] とも


投稿2016/6/26


No.48 名刹本成寺と小笠原家


古河市内横山町の本成寺創建について、江戸初期の古河藩主・小笠原家と結びつけて考察。

なお、本成寺には後年の古河藩主・土井利益の生母、法清院殿の墓がありますが、今回の説によれば、本成寺の中興開基は小笠原秀政の祖母、法春院殿とのこと。

法名がとても紛らわしいことに。。。

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 本成寺については、数年前に当紙に書き述べた事がありました。延宝年間に古河に移転をしたとの「古河志」の記載は誤りではないかと言及したのです。何故ならば当寺墓石には延宝時代より古い時代のものが多数あるからです。

 寺伝書によれば「慶長七年に森戸村伏木より日ワ辮l代古河移住」とあります。又「三十番神は慶長八年五月下総国葛飾郡下辺見村と申し候へ初め勧請有之。其後元和三年七月当山中興開基日ヵ齠ー小笠原下野守殿祖母帰依二付当寺に引移…」「当山中興大旦那当所建立之主法春院殿妙清大姉僧正日ヴV母堂小笠原下野守祖母」とあります。寛永年間製作古河地図には当地に本成寺と明記され、正保地図でも同様です。

 日ゼ1]上人は京都本圀寺十六世で永禄四年(一五六一)に広橋権大納言国光卿の次男に生まれています。天正二年本圀寺入寺。関白近衛前久の猶子となり天正六年十八歳で師日栖[2]の跡を継ぎ十六世になりました。日栖(一五○二〜八三)も国光卿の子と伝承されますが、時代より考察すれば国光祖父守光卿の子息だと思われます。日モフ兄が初代の武家伝奏を勤めた広橋兼勝であります。後年豊臣秀吉の大仏供養出仕について、不受不施派の日興上人と同調し不出仕を支持した。後年さらに家康による出仕派との大阪城対論等で敗諭した為に本圀寺住峨を弟子日桓[3]に譲り嵯峨小倉山常寂光寺に隠棲しました。上人は加藤清正を始めとして、木下氏一門の師で公武間に絶大な帰依を受けた大徳の大法器であります。

 小笠原下野守とは多分上野介の誤伝で、小笠原秀政に比定していいと思います。秀政の母は日野大納言晴光の娘(一説晴光子息輝資の養女)で、勿論父貞慶[4]の妻であります。日野・広橋は藤原真夏を祖とする同流であり日野輝資の実父は広橋国光であります。日モニ輝資は兄弟でありました。

 寺伝にある「日ワ辮l母堂、小笠原下野守祖母(法春院殿)」とは同一人物を言っているのでありましょう。日モフ母は不明であります。ただ兄弟輝資の母は高倉永家娘と記録され、同母だとすれば秀政の祖母は高倉氏であります。この場合高倉氏を秀政母方の祖母と考える方が妥当と思います。すなわち祖父長時の妻とは別人であります。母方の祖父日野晴光の妻と比定される人物に当ります。あたり前ですが一人の人物に祖母は二人存在します。もし本人が養子でもあれば義理の祖母を入れれば四人になります。ですから祖母の個名を抽出する事は困難です。

 ともあれ「日ワ辮l母堂=小笠原下野守祖母なる法春院殿と云う人物が存在し、彼女が本成寺を当地に中興開基し、日モェ中興開山になったのであります。時期は寺伝の慶長七年が正確だと思われます。ただしその後の古河町整備の為寛永地図製作以前の問に当地に再転した可能性は大きいと思います。ここで問題なのは寺伝にある「元和三年……」云々です。史実だとすれば、元和三年には小笠原家は古河より移封後になりますので、法春院殿はそのまま古河に留住していた事になってしまいます。宝暦十年十一月十五日に寺が焼失して由緒明細書等が「一切之無」と寺伝にありますから、時期に付いての信頼性はやや低いと考えてもいいと思われます。◎日ヶv元和三年。

 長久山本成寺の本寺は京都本圀寺でありますが、長久山本成寺と同名の寺院が新潟県三条市に法華宗総本山として存在します。開山は日蓮聖人の孫弟子日印聖人です。古河の本成寺も開山を日印としております。さすれば古河本成寺も越後本成寺の流派でありましょう。その上越後本成寺は京都本圀寺と関係深い寺院で一時は本圀寺の末寺とみられた時期もあります。永正時代以降は上杉氏(長尾氏)の外護を受け千三百石の寺領を有していました。

 所で秀政の祖父長時父貞慶は武田家の信濃進攻の為一時期上杉謙信をたより、越後に移住をしております。どこに移住したかはわかりませんが、この時越後の本成寺と関係を深くした可能性は高いと思われます。日モフ猶父近衛前久は謙信と深く交際し、一時は関東公方になるべく謙信と共に古河城に入城しておりました。古河本成寺の再興はこの様な訳で、日ワ辮lとの関係と小笠原家自身の関係の二重により、秀政の古河藩主時代に古河の地へ創建されたものと考へられます。

 後年土井利益生母の中川氏と日ワ辮lが肉親であると結び付けられておりますが、時代的に適当でなく不可であります。両方とも公家出身でありますので、何らかの血縁が両者問に存在した可能性は否定出来ません。そこで誤伝して創建年代を後年の延宝年間としてしまったものと思われます。

※日モニ号す僧侶が関宿実相寺開基で別に存在する。上総国出身で小湊誕生寺二十九世。慶安元年(一六四八)〜享保七年没。両者間に誤伝有しか?この日モェ住持したか留錫した事があったのかもしれない。


参考文献「日蓮宗大辞典」「日本系譜綜覧」


脚注

[1] にっしん *1

[2] にっせい

[3] にっかん

[4] さだよし

*1(転載者注)『古河史逍遥』原本では「しん」を「ネ真」と表記しているが、漢字コードに存在しない文字なので、ここでは異字体の「メvで表記した。なお、古河市史(民俗編、資料別巻「古河志」)では、「日メvを「日禎」と表記している。モニ禎は別の字なので、現状は資料により多少混乱している状態。正誤判断には、寺伝書や古河志の実物確認など、追加情報が必要か。


投稿2016/6/25


No.47 永井直勝と永井荷風


江戸初期の古河藩主・永井直勝と、明治期の小説家・永井荷風との意外な関係。そして、東京信濃町の地名故事について。

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 岡村実氏が御書きになった「古河市史こぼれ話」という御本があります。この中に「永井寺の埋蔵金伝説」というテーマの最末に『作家の永井荷風は永井直勝の子孫だそうです』と結んでおります。残念な事に岡村先生は昨年故人になられてしまいましたので、先生より直接この話しは聞けません。そこで自分でこの事を、勉強する事にしました。

 市内鍛冶町の宝輪寺は筆者の菩提寺です。寺の奥様は東京信濃町の一行院が御里であります。一行院は古河永井寺と同様に永井直勝の菩提寺であります。同寺が昭和三十九年に本堂再建を記念して発刊した「永井直勝」と云う本が筆者の手元にありますので、これを参考にして直勝と荷風の関係を研究してみました。

 なをこの本は現大正大学史学科教授鈴木成元先生が講師の時代に書述されたもので、史実に忠実なものであります。

 永井直勝は元々は長田伝八郎直勝と云って、永禄六年(一五六三)愛知県碧南市大浜町で神主兼小豪族の長田重元の長男に生まれております。天正四年(一五七六)十四歳で岡崎城に居住する徳川家康の長男信康に仕えましたが、天正七年には信康は信長の命にて自刃させられてしまいました。しかし翌八年には浜松城の家康に召し出され、三十貫の地を給されています。この時長田を永井に改めております。これは長田氏の先祖の長田忠致が平治の乱の時、主人源義朝を謀殺した不義の故事を家康が嫌ったからの主命による改姓です。

 その後天正十二年には長久手の戦いで、敵将池田恒興の首を取る大殊勲をあげ、千石の給地を受けております(一説には千貫…五千石相当)

 正史では直勝の正室は阿部正勝の娘で、長男尚政は天正十五年に生まれていて当時直勝は二十五歳でありました。

 ところで碧南市根崎町に″ゆり姫の墓″なるものが存在します。根崎町の隣地の東端町と云う所には″城山″と云う場所があり、ここにかつて長田氏の屋敷があり、直勝が一時期住んでいたと伝へられています。当地の伝説によれば、現西尾市寺津出身で、東端城主の直勝に嫁いだ″ゆり姫″は大部分を浜松城に勤仕していた直勝の目を盗んで、不義密通をなし、それが露顕し離縁され根崎で自殺をしたとあります。

 これは正史とは異なりますが、当時は早婚であってその上、多妻でありますから、阿部正勝娘の他にも、それ以前に夫人があっても不思議ではない事です。

 直勝とゆり姫との間に出来た子供に正直なるものがいて、この正直の直系子孫が昭和の文豪と云われる永井荷風だそうです。この正直の事は大名永井家の家譜には当然出て来ません。正直はその後、父から離れて育ち、尾張国本地村東星崎(名古屋市南区内)で育ち、後近くの荒井村(名古屋市南区内)に移り、そこで帰農して、子孫は同地で現存しております。

 諸川の了願寺(愛知県知多郡東浦町諸川…刈谷市の西側)には正直を祖とする一族の墓があります。子孫には尾張藩中期の儒者永井星渚も出現して、代々学問好きな家風の豪農でありました。

 永井荷風は愛知郡鳴尾村(名古屋市南区内)出身の初代正直より十三代目の明治の官人であり、実業家の漢詩人永井久一郎の長男であります。

 久一郎の妻(荷風実母)は古河藩待講、大沼枕山の娘で、枕山は久一郎の漢学の師匠でありました。

 直勝の最初であろうゆり姫との結婚は阿部正勝娘と結婚する天正十四年頃以前であった事は当然推定され、天正十二年に千石加増を受け、東端の城主となった頃にゆり姫と結ばれたものと思われます。

 東京のJR信濃町駅近辺は直勝が幕府より最初拝領した場所でありますが、直勝長男尚政が信濃守を名乗っていた事を故事として、江戸時代信濃町と云われた場所であります。


投稿2016/6/24


No.46 野木神社再建と大工彫物師


江戸期・野木神社の再建に活躍した職人たちについて。

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 野木神社の創建は「野木宮由来」によれば、仁徳天皇の代に磯城[1]奈良別君が下野国国造の時、山城国莵道の菟道稚郎子尊[2]の聖廟を下野国笠懸野台手箱の地に祠を建てて勧請し、延暦年間(七八○〜八○六)坂上田村麿東征の時、台手箱より現在の地に移したとされています。鎌倉初期には源頼朝から厚い信仰を受け、神田を給い保護されております。以降古河公方時代、さらに慶長五年徳川家康より会津上杉景勝征伐の際、社領十五石を寄進され、その後は古河城主代々の厚い信敬を受けていました。

 しかし文化三年(一八〇六)には出火により、本社をはじめすべての堂社を焼失してしまいました。そこで仮殿はすぐに造りましたが、本格的な再建は二年後の文化五年より開始されましたが、十年後の文政元年になっても六分通りの普譜と云う状況でありました。これは勿論寄附金が集まらなかったからです。そこで当時の古河藩主で幕府老中の土井利厚は再建を関係者に督促し、自身も文政二年の日光山参詣の折、莫大な寄進をして本所・拝殿・玉垣に至るまで造営し、文政四年十月には新殿へ遷座して完成したとされています(野木宮由来・野木宮再建記)

 文政二年八月十九日の上棟式の棟札が野木神社に現存しますが、大工棟梁は羽生領本川股村の三村吉左衛門治重です。その他色々の関係職人の名前が記されておりますが彫物棟梁として星野政八昌奥、同藤助熈奥[3]、石原常八主信、高橋栄蔵伊安等の名前が出て来ます。

 現在の野木神社の建物の彫物は大変に素晴らしいもので、北関東でも屈指のものであります。彫物だけでなく組物も手の込んだ立派なものであります。特に本殿の彫物は見事な物でありますが、彫工は「富田住、磯部敬信」と刻銘しております。磯部氏については、前に筆者が古河二丁目の金刀比羅宮の時にも述べましたが、現在の太平町富田に住んでいた彫師集団であります。金比羅宮は後藤(磯部)正秀でありますが、この敬信は正秀の甥で幕末の野州彫刻界の第一人者と云われる大工彫物師であります。彼の作品としては、日光東照宮五重塔修営、成田山新勝寺遍照殿、氏家町彫屋台、太平山神社、宇都宮ニ荒山神社等に優品を残しております。

 正式な名前は磯部儀兵術平五郎敬信(三代目儀兵衛)号左杢斎であります。彼は二代目儀兵衛隆信の子息で、文政十二年十一月の生れと伝えられていますので、野木宮上棟式の十年後に生まれた訳であります。敬信が一人前になったのは、作品より天保十四年(一八四三)頃と云われております。野木宮の彫物の様式は専門家の見方によれば安政年間の特徴を持っていると云われていますので、ちょうど敬信の活躍期と一致するもので、完成は安政六年頃であると推定されるのであります。(熊本大学伊藤龍一氏の研究)ですから野木宮は実際には文政二年八月から安政六年までの四十年間に逐次造営されたものであると考えられるのです。

 職人の関係者を調べますと大工棟梁の三村吉左衛門は板倉の雷電神社の再建(天保六年三月)大工棟梁三村和泉守春友の父親とみられ、石原常八主信は(常八は三代位襲名)古河田町の福寿稲荷社(天保十一年建立)の彫師であり、幕府抱彫物師高松氏系の大立物です。板倉町雷電神社も彼が彫師棟梁の力作でありました。星野政八・藤助も石原常八と同じ上州花輪村(現群馬県勢多郡東村)の彫師で、高橋栄蔵は下野毛野村(足利市山川村)の彫師で磯部氏の弟子筋の者であります。

 当然でありますが、当時の職人は同門の者達が協力して大きな寺社建築に当るのでありましたから、野木神社の四十年間の彫物に従事した者達は、左甚五郎を始祖とする公儀彫物師高松邦教系の石原、後藤、磯部の各彫物師達であったのであります。関東の寺社彫物については仲々興味の深いものでありますが、読者の方で関心のある方は筆者まで問い合せ下さい。いささかの史料は所持しております。

 これは余談ですが、東北四大祭の秋田のカントウ祭りの起源は野木神社と関係の深いものであります。現水戸市元吉田町にも野木神社が存在しますが、同社の創立は寛正年間(一四六○〜一四六六)に古河公方成氏幕下の佐竹氏が同所に古河公方家の信仰厚い同社を勧請した事によるとされています。佐竹氏はその後関ヶ原合戦時による左遷にて、奥州久保田地方へ国替させられてしまいましたが、その時それまで同社に伝えられていた、御帰りの提灯もみの伝統行事(もとは野木町野木神社の提灯もみを起源とする)が久保田地方へ持ち伝えられたものだそうです。その他にも現喜連川町で行なわれている祭りで、やはり提灯竿を多数かかげて行進するそうですが、これも起源は野木神社の御帰りの行事が伝えられたものと考えられます。


参考文献 平井聖著「北関東の主要社寺建築」

     伊藤龍一「北関東の彫物大工」

     津布楽寅雄「とらおノ富山史」


脚注

[1] しき

[2] うじのわきいらっこ

[3] ひろ


投稿2016/6/16


No.45 雀神社は赤城系神社か!


古河市内にある旧郷社の雀神社について、創立の背景を独自の視点で探ります。

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 古河市内の神社は「茨城県宗教法人名簿」によれば現在三十四社だそうです。その系流は香取社七・八幡社四・稲荷社三・その他秋葉・羽黒・白山・神明・愛宕[1]・雷電・恵比須・等であります。頼政社と雀神社は何の系流にも属さない神社の様です。ただし宗教法人以外の町内鎮守や屋敷神の数は大へんな数字になるものと思われます。

 頼政神社は源頼政を祭った神社でありますが、雀神社は何系の神社なのでありましょうか。

 雀社の社伝由来を述べてみます「創立年代は不詳なれど、崇神天皇の御代・皇子で四道将軍の一人豊城入彦命[2]が東国鎮護の為勧請し、最初は鎮社(しずめのやしろ)といったが、後になって雀社となった。又別の伝承では貞観年間(八五九〜八七七)に出雲大社の分霊を祭ったものである。祭神は大己貴命[3]で配神は少名彦命と事代主命である」と伝承されています。

 現在の群馬県や栃木県には赤城神社系の神社が数多く存在します。特に渡良瀬川沿岸には数が多いものです。この赤城系神社の特色は主神に豊城入彦命と大己貴命が祭られている事ですが、群馬県の赤城神社の本宮の祭神もこの二柱を祭っております。特に豊城入彦命を祭った神社が赤城系神社と云われるものであります。

 古河地区には豊城入彦命を祭った神社はありませんが、東国将軍であった彼を祭った神社は近辺に多くあり、栃木市の大神[4]神社・宇都宮の二荒神社・藤岡町の大前神社等も主神は豊城入彦命です。ですから神社名に赤城神社と称していなくても、赤城系の神社はかなり多く存在します。(注)豊城入彦命は下毛野・上毛野君の始祖で、孫に彦狹島王があり、彼は北関東を支配した。当時の東国とは栃木県が北限であった。

 所で平安末期から鎌倉時代にかけて、古河地方を領有していた下河辺氏は御承知の通り藤原秀郷の子孫であります。秀郷はいかなる訳か赤城神社を深く信仰して、平将門調伏祈願として赤城神社を各地に勧請しています。これはそれ等の神社の伝承として残っております。しかもこの赤城神社が存在する所は、佐野・足利を中心として渡良瀬川沿岸に多く、秀郷の勢力下の場所でありました。勿論これらの神社の多くは秀郷本人が創建したとは思いませんが、上野・下野国司の秀郷やその子孫の者が、その勢力下に神社を創建したであろう事は考えられます。

 雀神社の祭神は大己貴命でありますから、一見すれば赤城系の神社ではないように思いますが、社伝では豊城入彦命をその創立者にしております。豊城入彦命と大己貴命の二柱の神がここに存在しております。そうだとすれば、やはり赤城系の神社の範類になると思われます。

 筆者の結論とすれば、雀神社は鎮守府将軍になった藤原秀郷本人か、又は子孫の小山氏系の下河辺氏が鎮守府将軍の鎮と平将門を鎮める、の鎮の字を取って鎮神社として、藤原秀郷系の勢力下であった古河に創建

した赤城系神社と考察したいのであります。

 古河地区の神社ではありませんが、埼玉県の旧荒川沿岸には久伊豆神社と大鳥神社が多く存在します。久伊豆神社の名称のいわれは不明であり、今だにわかりません。筆者の考えでは神話に三重県の伊勢神宮領域の大台が原に久豆と云う神が存在していたと伝へられ、ここの住人を国栖といい後年木地師・金屋などの技術集団は彼等の子孫といわれています。この国栖は神話では、大楠を切り倒した丸木船(アメノトリフネ)に乗って熊野・志摩より伊豆・香取・鹿島へ移住したとあります。この神話から伊豆へ渡った国栖が祭った神が伊豆の久伊豆の神で、その神社は伊豆の三島神社で、この神が大鳥に乗って(実は技術集団が荒川を漕上した事)移動した場所が、現在埼玉県の久伊豆神社と大鳥神社の存在する場所であります。

 久伊豆神社が現在ある所は古代・中世では伊勢神宮領の御厨の内でありました。(一例・越ヶ谷市の久伊豆神社は大河戸厨内)そもそも最初に久豆の神が住んでいた所は、伊勢神宮領の大台が原であります。久豆の神はそう云う訳で、伊勢神宮領内に鎮座する事が安定なのであります。

 今回はとりとめのない様な話しを書きましたが、なにせ、神代時代・古代時代の事であり、歴史的裏ずけははなはだ弱いものであります。

(注)久伊豆神社はクイズジンジャとも称されます。


参考文献川励維知著「館林の歴史」

脚注

[1] あたご

[2] とよきいりびこのみこと

[3] おおなむち

[4] おおみわ


投稿2016/6/14


No.44 「土井家と井上新左衛門」


古河藩主・土井利勝が、黎明期のまだ不安定な江戸幕府を支えるため、歴史の裏側で活躍していたというお話です。

今回の話題は加藤家改易ですが、福島家・堀家、さらには生駒家・最上家の改易すらも意図的だとしたら。歴史の見方が少し変わってきますね。

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 土井藩が幕末に編集した「土井家譜」には次の様な事件が記されています。

 二代将軍秀忠が没して二ヶ月後の寛永九年(一六三二)四月中旬、神田橋外にあった五百石高の幕府代官井上新左衛門吉次の家に、一通の手紙が投げ込まれました。これには新将軍家光の日光社参を機に、土井利勝が首領となって江戸で幕府を倒す計画があると書かれております。驚いた井上は、これを老中のもとへ届けたのです。幕府が投げ込んだ者の捜索をした所、九州肥後の加藤忠広家の家臣のしわざと判明した。そこで加藤家を取り調べた所、謀反の意志はなく、まったくのいたずらである事がわかりました。幕府はいたずらにしてはあまりに悪質だと云う事で、加藤家処分を協議し、結果は藩主忠広を庄内酒井家に預け、熊本五十二万石は没収してしまいました。

 この時、利勝は秀忠の没後、罪を受けた様にして引き籠っていましたがこの事件の結論が出てから、いつとはなしに幕府に出勤するようになったと書かれております。

 この事件は利勝が計画した謀略の様であります。徳川家康は死に臨んで、豊臣家と縁故の深い外様の大々名、福島家、加藤・生駒・堀・最上等の取潰しを幕府安泰の為に、秀忠・利勝・天海僧正の三人を枕元に招いて遺言したとされております。驚くべき事に将軍の肉親である、松平忠輝や徳川忠長・松平忠直等の処分も家康・秀忠の遺言であった様です。

 現代の私達から見れば何と自分勝手な冷酷な事であると思いますが、当時はいまだ戦国の余韻冷やらず、幕府といえど安定期ではありませんでした。

 利勝は、この役目を見事にやりとげたのです。後年新井白石は利勝を評して「長き当家の忠臣也と古き者の申しを承りき」「利勝独り謀をもって天下を泰山の安きに置く」と賞賛しております。幕府における利勝評は後年、土井家無嗣子断絶の時に、はなはだ寛大な処置で再興を許された事等で理解出来ます。

 (例)結城藩水野家の先祖勝成は家康のイトコであり武功も大であったが後代無嗣子で十万石から一万石に減封される。

 井上新左衛門の方は、その後いかなる訳か、罪を受けて家禄没収になり浪人していますが、子息の兵右衛門吉賢には利勝の娘「於いぬ』が嫁いでいます。吉賢子息次郎右衛門の代になり土井藩利益に勤仕しております。

 後年の事でありますが土井家は実収入の多い唐津より、古河へ再封して来ますが、大変な財政難で、江戸家老井上新左衛門は古河の勝手家老の堀典膳と計り、藩政改革を行なっております。この改革はわずか四ヶ月にて失敗し、両者は処分を受けております。井上はそれでもあきらめず、五年後の安永三年(一七七四)に家老朝倉頼母と再度十ヵ年間の仕法替を試みたのですが、これも翌年には失敗してしまいました。井上はよほど無念であったので、この後も色々画策しましたが、安永七年には「拝知召上げ、永く親類預け」の刑が決まり、浪人になってしまいました。これ等の事は井上家が、土井家と親類であったので、忠義の心より出た事件だと思われます。

 その後の新左衛門については不明ですが、彼の晩年は幕府の西の丸与力(二○○俵)に就職している様子です。伝説によれば、井上家には前述の加藤家取潰しの時、幕府からその功により、一札の文書があり、それには「いつでも幕府に仕える事が出来る」と書かれていたそうです。

 さらに時代は移り、天保時代になり、土井利位は老中に就任します。この時代の有力官僚に川路聖謨[1]が存在します.彼は下級の御家人より出世し、勘定奉行、外国奉行等の要職を歴任しますが、古河藩の鷹見泉石とも親しい人物であります。この川路の弟が井上新右衛門清直です。清直も外国奉行・勘定奉行・町奉行等を歴任しますが、彼の養父が西の丸与力井上新左衛門でありました。

 老中職などの幕府重臣になりますと、色々な情報を集めなければなりません。利位は勿論ですが、それ以降の古河藩主も時代が幕末期になり、政治が激しく動いている時期でありましたから、それに対応する為には何としても情報源が必要だったのです。例えば利位の次の藩主利則なども文久二年には、古河藩抱え刀匠泰龍斉宗寛の刀をわざわざ、幕府の下級官僚であっても、将来のエリートコースであった幕府評定所留役の水野良之(百俵)の為に、造刀させて賄っているほどです。ちなみにこの水野良之も慶応時代には外国奉行にまで大出世をしております。川路も井上も前歴は評定所留役を勤めた事があります。

 こう云う訳で再び井上新左衛門家と古河藩は関係が出来たのであります。

 古河藩が、あの幕末の混乱期を、小杉監物等をして、つつがなく乗り越えられた(関宿、結城藩等は大混乱)影には、井上、川路両家の大きい援助があったと思われます。

 ※「国朝砲煩権興録」に「大永六年西国の浪人、井上新左衛門はじめて甲州に鉄砲を持来りて、信虎公へ献ず。扶持を給いて、甲陽に止まりて、国中に教へひろむ」とある。


参考文献 小西四郎箸「江戸幕臣人名辞典」


脚注

[1] としあきら


投稿2016/6/9


No.43 由比正雪と楠嘉兵衛


江戸初期に幕府転覆を計ったとされた由比正雪。

正雪に楠流軍学を教えた楠甚兵衛正辰の子孫が、古河藩主・土井利勝の家臣となっていました。

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 皆様御承知の通り、由比正雪は三代将軍家光の死没直後に、幕府転覆の陰謀が発覚して、自身は駿府で自殺し、一味の丸橘忠弥等の者が多数捕縛された慶安事件(一六五一)の主人公であります。

 正雪のこの事件は、幕府転覆を計ったものと云われていますが、事実はそれまでの幕府による多数の大名取潰によって、必然的に量産された浪人を救済すべく、歪んだ幕政への諌言の行動であったようで、駿府城や久能山を押えて金銀を奪い、江戸城や江戸の町を焼き払うと云う計画が本当に存在したのかと云う事の事実は疑問のようです。

 もしこの様な計画が存在したとしても、それははなはだ幼稚なものでありますが。ただ正雪と紀州藩主徳川頼宣とが、いささか知音であった事が幕府にとっては重要視されたのであります。

 大名が当時断家になる一番の要因は嗣子がいないままに死亡による事でありましたから、この事件後ただちに幕府は大名に末期養子(死亡直前の養子)を認める等、浪人対策を改めております。

 所で正雪は駿河国油井の生れといわれ、十七歳で江戸へ出て浅草の鶴屋と云う菓子屋に奉公し(鶴屋は春日局の御用達商人)その後、当店の養子になったと伝わっています。その後楠木不伝と云う、楠流軍学者の門に入り、軍学を学び神田連雀町にて兵学の塾を開いて、旗本や浪人等多数に講釈をしたと伝えられています。

 当時の軍学は小幡勘兵衛や北条安房守氏長に代表される甲州流と、楠流の軍学が盛んになっておりました。正雪の師の不伝は二代目の楠不伝であって、初代不伝は楠正辰と云う人物で、父は将軍足利義輝や織田信長の右筆を勤めた事もある楠正虎と云う者であります。正虎は最初大饗[1]氏を名乗っていましたが、後年楠正成の子孫と称して、永禄二年正親町[2]天皇から、楠氏の逆賊勅免を得て楠河内守正虎と名乗り従四位に叙任されています。

 正虎には二人の男子が在りまして、一人は家康に召されて二千石高の旗本となり、もう一方の子供が楠甚兵衛正辰(初代不伝)であります。この正辰は山科言経卿と云う公家より、源家古伝兵法を受けて、さらに卿の妹を娶[3]って楠流軍学を名乗ったのでありました。この正辰の子が楠嘉兵衛良清(二代不伝)であって、この者が正雪の師匠であります。「慶安太平記」と云う俗書によれば、良清は正雪によって牛込地蔵坂で暗殺されたと書かれていますが、これははなはだ疑問であります。

 良清の二代目不伝の長男は同じく嘉兵術を名乗りまして、これが三代目不伝だと云われています。所が古河にとっては驚くべき事に、彼は古河藩主土井利勝に仕えたと、ある史料に出ておりました。

 確かめるべく、利勝晩年の寛永十九年(一六四二)の家臣分限帳を鑑みてみると、まさしく「三百石・足軽二十人、楠木嘉兵衛」と記録されております。土井家へ仕官の時期は不明ですが、大叔父が幕府旗本になっており、又春日局の姪で、大奥に隠然たる勢力のあった素心尼と由比正雪が昵[4]懇の関係であった等の縁で仕官したものと考えられます。分限帳に「足軽二十人」と記載されていますので、彼は古河藩の武官であって、物頭クラスの地位であった事が推定出来ます。(物頭とは者頭とも書き合戦の時は足軽組を指揮して、前線にて戦をする者を云う)

 正保四年(一六四七)の利勝子息の利隆公時代の分限帳では、「二百石、大番」としてやはり嘉兵衛の名前は記載されております。三百石から二百石に減知された事は、利隆時代に利隆の兄弟三人に藩内分知をした為に、自然古河藩士が減知された理由によるものでしよう。 ただし、嘉兵術や楠木氏の姓名が、古河藩分限帳に記録されるのは、この時点までであって、やや後年の利益公時代の分限帳には、出て来ておりません。正保年間が終ってから慶安事件は発生したのでありますから、この事件の後に嘉兵衛と正雪とは直接関係はなかったのでしょうが、土井藩としては幕府に遠慮して、嘉兵術一家の召し放ちをしたのだと思われます。

(初代不伝)

◎楠正虎─甚四郎正辰─嘉兵衛良清─嘉兵術(某)

※古河藩に仕えた嘉兵衛の韓は不明であります。その後の楠木氏の出所進退については一切不明です。当然の事ですが、藩にとって不名誉な史料は抹消される運命にあります。


参考文献 綿谷雪著「江戸八百八町」


脚注

[1] おおあえ

[2] おうぎまち

[3] めと

[4] じっ


投稿2016/6/2


No.42 二丁目金刀比羅宮と後藤正秀


この記事は、平成18年(2006)に隣家の火災による類焼で金刀比羅宮が焼失する前のものです。現在、二丁目にあるものは、新しく再建されました。(写真は再建後。きものサロン角伊勢の隣・現在の 住居表示では中央町一丁目)

彫師・後藤正秀と、金刀比羅宮を建立した古河城下随一の豪商・丸山儀左衛門について。

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 現在二丁目の会所跡に存在する金刀比羅宮は、もともと二丁目の大八百藤こと丸山家の屋敷神でありました。幕末から明治初年にかけて二丁目尊勝院の不動堂の中に安置されていましたが、近年に二丁目町内鎮守として会所跡へ遷宮されたものです。大変細密な美事な彫刻の御宮であります。

 御宮参道の入口に川島恂二先生の撰文による記念碑が建立されていますが、それには文化十一年(一八一四)十月に丸山儀左衛門が願主となって建立し、彫師は後藤政秀と記されております。明治初年になりますと、金刀比羅講を発足させて、二丁目を中心として広く古河近辺の町村に講員を募り、四国の本宮へ団体参拝を毎年催しておりました。金刀比羅神はもともと海運、水運の守護神でありますが、江戸時代には、これに加えて幸運を運んでくれる神様と民間に信仰されていました。

 丸山家は幕末期に古河における第一の富商であります。先祖は八百屋に初まり、二丁目に出店した初代が五十集[1]と生魚問屋、二代目は木綿・穀類。紅花などに拡げ、質店も兼業しております。三代目の儀左衛門に致り、奥州紅花を上方へ運ぶ荷為替で繁盛し、北関東一の豪商となり、古河藩御用達や町大年寄取次役となっております。「富一州に冠たり」と称され、当時現金だけでも十三万両(現在の約四百億円)を蓄積したといわれ、藩への献金・困窮者に対する扶助金等は古河商人中抜群の金額でありました。六代目定之助は一時古河市兵衛以前に足利銅山の経営に参画しております。

 さてこの儀左衛門のことですが、同家には儀左衛門を襲名した人物が三人存在しますが、二代目儀左衛門は文政五年に死去していますので、この人が金刀比羅宮の建立者であると考えられます。(初代は天明三年没、三代目は慶応四年没、ちなみに四代目は嘉永二年没、五代目は慶応二年没、四代・五代が若死にしたので三代目儀右衛門は一度隠居したが、後継者の若死によって再勤する。丸山家では家督前の名は藤兵衛を通称としております)後藤政秀については、御宮の裏面の上部に「下毛・後藤正秀四十一歳」と自刻しております。この刻文により、彼が下野国都賀郡富田宿(現大平町)の彫師集団磯辺一族の者で、日光東照宮五重塔彫物方棟梁を勤めた名工、後藤周二正秀である事が判明しました。

 磯辺彫師とは近世後期に、主に下野地方における社寺や屋台などの飾り彫刻を数多く手がけた彫師集団で、刀匠受領銘磯辺伊予守を名乗る七代目儀左衛門信秀を祖としています。彼の師は公儀彫物棟梁高松又八郎の流れをくむ、江戸神田住の後藤正綱といわれています。

 信秀の長男は知英で、二代目信秀を襲名、二男が天保時代の古河藩抱え絵師の五楽院等随であります。等随は名は秀融。江戸神田の後藤家の養子となっています。二世堤等琳につき絵法を習い、さらに雲谷派の細川藩御用絵師矢野良勝に学んで雪舟の後代を唱えています。代表作は岩舟町高勝寺や大平山神社の「竜図天井画」があります。栃木市片柳に住居した事があり、栃木地方に遺作が多くあります。

 二代信秀の三男が、古河の金刀比羅宮を造った正秀で、兄の三代目信秀と共に江戸神田の後藤正常に入門し、彫技を磨き、生涯職姓の後藤を名乗っており、周二を通称としています。作品の初見は今市市岩崎の観音中堂の欄間天女像で「当国富田産江戸神田住後藤周二正秀。文化三年」。古河の御宮を造った後年の文政元年(一八一八)には日光束照宮五重塔彫物方棟梁を務め、それ以降の作品には「日光五重御塔彫物方棟梁後藤周二正秀」の銘文を自刻し、自負と共に、己の彫師としての格の宣揚をしております。作品には栃木県を中心として、多数にのぼりますが、そのうち鹿沼市仲町の屋台は彼の代表作で、天保七年正秀六十四歳の作で、仲町屋台公園に常時展示収蔵されております。勿論日光東照宮五重塔も彼の代表作であります。安永元年(一七七二)生れ、天保十三年(一八四一)七十歳没。

 なお江戸後藤家系の彫師で当時期、著名な彫師には後藤縫殿助が存在しており、関東の社寺等の建築物に災事な彫刻を残しております。


参考文献 津布楽寅雄著「とらおノ富山史」

    「丸山家過去帳」


脚注

[1] いさば



投稿2016/5/25


No.41 侠客・寺西閑心


 江戸期古河藩の家臣だった寺西閑心について。

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 「日本侠客100選」と云う本が出版されています。この本は江戸時代の100人の侠客が時代順に選出されて書かれております。この10番目に寺西閑心が出てまいります。閑心についてはかつて落合白桃氏が古河郷土史会報に一文を書かれた事がありましたが、詳細な内容は失念してしまいました。ですから今回温習をしてみたいと思います。

 前述の本には「閑心は古河土井家の臣であって、祖父は豊臣家臣で寺西備中守といい、関ヶ原で破れ去った後、土井利勝に拾われて古河で七百石を給された。閑心は備中守の孫で名を弥助といった。万治三年(一六六○)に二代利隆の隠居にからんで内訌があり、弥助も俸給をけずられた。その後これを嫌気し土井家を去って、江戸西久保の長屋に住んで剣術を教えて、日暮をしていた。ある日隣家の浪人者と間違えられて、南町奉行所の捕り方に踏込まれ、その一人を斬り捨てて捕えられた。南町奉行漉辺大隅守の取り調べで、人違いと判明したが役人を死傷させたので牢入りになってしまった。しかしまもなく赦され出牢したが、この時髪を切り古歴と名を改め、禅坊主で余生を送る決意をした。しかしこの話を聞いてか、深見重左衛門が訪ね来て、彼に男伊達として、世を面白く楽しく過ごそうではないかと勧めたという。寺西は即座に同意して再び名を改めて閑心と号した。その後は根岸に住んでいたらしい。閑心を有名にしたのは、赤坂氷川で六法組十三人を斬り捨てたもので、彼はそのまま下野国梅沢村に逃れ、半三と云う者にかくまわれて余生を送ったという・・・・・・」と云う内容の記事が述べられています。

 祖父寺西備中守(一五五七〜一六四九)は直次といい尾張国出身の豊臣家の家臣で、一万石を領した武将でありました。関ヶ原の役時に西軍に屈し、九月十七日桑名城を守衛していたが、徳川方の山岡景友の説得によって同城を退去し、後剃髪して意閑と号しました。九十三歳で没。(一五五七〜一六四九)

 閑心は前本では弥助と名乗ったとありますが、利勝・利隆時代の分限帳では、大番役二百石・寺西九右衛門と出て来ます。父親の事は土井家史料では一切出て来ません。万治三年の利隆隠居時の内訌は確かにその事実があります。これは慶安四年(一六五一)頃、三十三歳で隠居同然になった病身の利隆の後継者を決める問題で、長男利重を押す重臣達と二男の利益を押す利隆夫人(老中松平信綱の娘)が八年間も対立していたからです。ただし万治元年には利重が相続しています。この時に利重は肉親に分知しておりますので、寺西も減知されたのでしょう。後年延宝三年には利益の本家相続をめぐり六四一人と云う大量の退藩者を出していますが、この退藩者名簿には彼の名が出て来ませんので、万治三年の退藩は史実だと思われます。

 閑心が六法組十三人を斬ったと云う記事は、何の史料によるのかわかりませんが、六法組が活躍していた時期は万治、寛文年間であるので、時代的には適合していると思われます。ちなみに白柄組の活躍はそれ以前の承応から明暦にかけてで、大小神祗組は後年の延宝貞享年間です。六法組はムホウと読ませ、無法者集団を自称しました。

 閑心は遊侠の徒となったのですが、旗本奴や町奴とは別行動を取ったらく、″ひげの意久″のモデルと云われる深見重左衛門等浪人達と行動を共にしていたと思われ、一匹狼的な侠客でありました。年令から云えば、閑心の方が深見より大分年長で、閑心が兄貴分であったようです。「下野梅沢村に逃げ、半三という者にかくまわれ余生を送った」と云う事ですが、梅沢村は現在の栃木市梅沢町で、かなりの山間の場所です。逃避地には適当な場所であったと思われます。土井藩でも寛永、正保時代頃までは、家臣が直接知行地(地方知行制。又は給人知行制と云う)を持っており、史料上でも寺西九右衛門は寛永十五年には現在の小山市下初田で一石四斗八升の年貢を徴収している事が判明しています。梅沢村の残存史料がないので確かな事はわかりませんが、当村も十六万石時代の土井家知行地で、同地に閑心も、かつて給地を持っていた事があり、その縁で半三と云う人物の家に匿われていたものと思われます。

 閑心については生没の年がわかりませんので、これ以上の詳細はわかりません。祖父や親族の事は後日研究したいと思います。

※彼が一時名乗った古歴なる名称は、古歴は古暦に通じますから、即ち古い暦(こよみ)であり、何の役にも立たないと云う、自卑の意味を持っております。

 六法組の十三人については、正木源右衛門・古著屋傳兵衛、の二人の名前は判明しております。閑心の伜寺西弥太夫も有名人で助六や意休とからんで活躍しています。


参考文献 三田村鳶魚全集

     矢田挿雲著「江戸から東京へ」


投稿2016/5/22


No.40 合(あい)の川政五郎と又五郎


合の川は、北川辺と板倉の間にあった川です。

板倉町大久保(大高嶋の一部)の富豪・高瀬家の九代目・仙右衛門茂高は、博徒「合の川政五郎」としても有名でした。

また、北海老瀬村の「合の川又五郎」についても紹介します。

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 前回大久保村の高瀬家について書きましたが、九代目の仙右衛門茂高は前述の様に、館林藩領四十ヶ村の大総代を勤める名主でありますが、もう一方の顔は(十五歳頃から四十二歳まで)合の川政五郎と名乗る異色の博徒大親分でありました。

 政五郎の兄は常蔵といって、彼は商瀬家八代目にあたりますが、若き時分から遊惰の性が多く、ある女性ともめごとを起し、女性より度々金銭を強要され、それが因でその女性を殺害してしまいました。殺された女が悪かったので、常蔵は御とがめなしと云う事で一件落着したのですが、後日館林藩代官所の手代や岡っ引きが、被害者の遺族をそそのかし、事件のむし返しを回り、訴訟を起させました。この裁判は長引きまして、結果は元通り常蔵の勝訴となりましたが、この間費用がかさんで高瀬家は破産同様になってしまいました。闕所も覚悟していたので、多くの金品骨董類を親戚の麦倉の小室家に引き移したそうです。勝訴したものの常蔵は後難を恐れてか、高野山に登り出家してしまいました。

 父親の平八は若死しているので、高瀬家は政五郎と女性のみの家族になってしまったので、彼は近くの合の川村の博徒新八に預けられたそうです。この新八は父平八が面倒を見ていた者でした。そう云う訳で十五歳の頃から賭場に出入して、大人を相手に博奕をやっております。やがて博徒修業の為に東海道一帯に旅を重ね、博徒として良い顔になったそうで、色々の所に政五郎の伝脱を残しております。その後越後の長岡に腰を落着け、越後の政五郎と称されていましたが、さらに信州善光寺門前町の権堂に移りました。ここで遊女屋の主人となったのであります。これは当地がやくざ者の巣になっていたので、これ等の者を追い払うのを地元の者に頼まれて、移り住んだからです。この店の名を上総屋といって、この時政五郎は四十歳に近かったそうです。この地でたちまち彼は勢力を拡大して、上州博徒出野者の長老格大親分になったのであります。この当時の博徒は家柄の良い者が出世をしたらしく全国の大親分と云われる者は、名主クラスの子息出身が多かったものです。

 二年ばかり当地にいた彼は考える所があったらしく、弟分の島田屋伊伝次にナワ張りを護り、堅気になって大久保の生家に戻りまして、高瀬家の再興を計りました。館林藩から十手を預けられ、文政十一年には関東取締出役の道案内人の総元締を引き受けてもおります。政五郎四十二歳の時です。

 彼は前歴の顔より、博徒を捕えるだけでなく、更生に力を入れていますし、岡っ引き、目明し等の悪事一切を封じて終った事でした。この為地元邑楽郡の人達ばかりでなく、利根川を越えた武州の人達も大助かりで大変に感謝されております。

 晩年の政五郎(当時は仙右衛門)は学のない事を恥じて、日夜読書に勉め相当の域まで達したといわれております。万延元年(一八六○)十二月。七十三歳で病死しました。墓は大久保本郷の清浄院に現存します。法名は受法院清誉徳翁居士。

 この政五郎と関係の深い大親分が合の川又五郎です。又五郎は政五郎と近い北海老瀬村佐山家に文化十年(一八一三)に生まれ、若き頃から博徒になりまして、お決りの通り修業の為に旅に出ております。同郷ゆえか、善光寺権堂に足を向けまして、政五郎二代目の島田屋伊伝次の盃を受けております。この時期は天保五年五月頃と伝わっております。年は二十一歳。この時、政五郎とも面会したとする説もありますが、時代的にいかがなものでしょうか?嘉永年間になりますと権堂より湯田中温泉がある山の内町平隠下河原に定住しまして、そこの開発をなしております。幕末には身内三千人と云われる大親分に出世して、明治維新を迎える時点で、彼は赤報隊の相楽総三より三百人の手勢の応援を依頼され、又、飯山戦争の時は町内の治安を維持し、さらに尾張藩の委任によって越後小千谷に出陣するなど、常に官軍側に立って大活躍をしております。

 維新後はその為か、佐山又五郎忠輝と名乗って、中野県・長野県の官員となり、民生の安定に大いに寄与しております。彼の子分等も又官員に登用されました。明治八年十二月没。六十二歳.菩提寺は山の内町上条善応寺。法名徳行院佐山忠輝居士。

 明治十一年には住居のあった下河原に三メートルもある高徳碑が建立されております。

 このように政五郎と又五郎は若き時、博徒の大親分であった人物ですが、後年は、カブキの言葉の様に「○に強きは善にもと」と晩年は大いに民生の為に努力をし、見事な功績をあげております。二人とも板倉町の出身であった事は、何かの因縁があったのでしょう。この例は清水の次郎長と同じであります。ちなみに政五郎は生井一家初代の弥兵衛親分と兄弟分の盃の仲でありました。


◎「合の川」は「相の川」とも「間の川」とも書く事あり。


参考文献「日本侠存百撰」「山の内町史」


投稿2016/5/18


No.39 大久保村の高瀬家


現在の板倉町、大久保村(大高嶋の一部)にいた富豪

高瀬家について。

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 東京浅草の浅草寺を雷門から入り、仲見世の東側奥の隈近くに金銅製の二尊佛がみられます。勢至菩薩と聖観音菩薩の二体ですが、高さは蓮台共に四・五メートルほどもある立派な仏像です。建立は貞享四年(一六八七)八月十九日。東上野国館林在大久保村の高瀬善兵衛が奉納したものであります。現板倉町大久保。

 そのいきさつは善兵衛が若き時、日本橋伊勢町の米問屋成井善三郎店に奉公しました。善兵衛はその後財を成しましたが、成井家は没落してしまいました。そこで彼は万金を出して、若き日の善三郎の優しき心使いに対する報恩と菩堤の為に観音像を、又善三郎子息次郎助への謝恩の為に勢至像を造った事が、台座銘より理解出来ます。観音は慈悲の光の象徴であり、勢至は知恵の光の印でありますから、善兵衛の主人に対する思いがいかなるものか知られます。浅草寺には永代供養料として、江戸の地三〇八坪も同時に寄進しております。

 作者は神田鍋町の太田久右衛門正儀と刻されています。この正儀は当時有名な鋳物師[1]で、正式には藤原朝臣太田駿河守正儀と名乗っています。正儀は古河市西光寺の昭和十九年に供出された、露座の大仏の製作者でもありますが、こちらの大仏は延宝七年八月十五日の製作になっておりました。

 前段が長話になりましたが、大久保村は古河藩領ではありません。ただ古河領にはなはだ近い所であります。そこで高瀬家について述べる由です。

 善兵術直房は大久保村で寛永十二年に喜兵衛の三男として誕生しております。当時の高瀬家は既に豪農の類に属しておりましたが、彼は十七才の時、前述の成井善三郎の店へ奉公に出ています。成井家は米問屋でありましたから、そこで穀商の経験を積んだのです。三十六才で大久保村へ帰郷し、それから利根川(注)、渡良瀬川を利用した回漕米業者として、在所の穀物を江戸に輸送して取引し、巨額の富を利したのでした。時あたかも明暦の大火以降にあたり、米価が大暴騰した時期であります。一説によれば利根川を航行する高瀬舟の権利を独占したと伝えられていますが、真偽の程はわかりません。

 当時日本橋近辺の川岸は米問屋を中心に諸問屋が集まって、幕府の認可のもとに江戸経済の生命を握っていた場所で、主家成井家は地廻米穀問屋という、関東・奥州筋の米穀の売買を主とした商店でした。成井家は常陸小田家の子孫を称しています。(小田天庵の孫。)

 善兵衛は巨利を得たのでしたが、彼の偉い所はその財力をもって前述の様に寺社に対して多くの寄進を行なっている所です。一つ一つの例は割愛しますが、少なく数えても十二ヶ所の寺社に仏像寄進・金銭寄進をしており、近郷の貧民に対しても寄附をしております。彼は享保元年(一七一六)に八十三才で没しておりますが、晩年には商を縮小しています。これは元禄期になりますと、紀文や奈良茂の例に有る様に、新興商人層への締付けが強化され、闕所事件が数多くあったので、公儀に対して憚って、用心した対応だと思われます。

 高瀬家は善兵衛家も富豪でありましたが、善兵衛弟の平兵衛家も富豪でありまして、両家そろって幕末に至るまで家運を保っています。九代目の仙右衛門茂高は文政十一年(一八二八)に館林藩領川俣組合四十ケ村の大惣代に任ぜられています。この仙右衛門茂高につきましては、別の一面を持った人物なので次号で書き述べるつもりであります。

 明治以降も豪農として近隣に重きをなし、終戦後の農地解放では両高瀬家で約七十五町歩を解放しております。

 古河近辺ではよく「○○河の水はつきるとも○○家の金はつきまじと富豪の家に対して云われる言葉ですが、この高瀬家も「利根川の水はつきるとも高瀬家の金はつきまじ」の言葉を持って称されている家でありました。今日の大久保の利根川土手は明治以降引堤されてしまい、昔の大久保河岸のおもかげはほとんど残っておりません。高瀬善兵衛家も現在は土手際に移築されています。大久保土手から見わたす利根川河川敷は雄大で、しかも大変におだやかな風景であります。

(注)当時の利根川は合の川を支流として渡良瀬川と合流し、古河城近くを流れています。天保九年に合の川は締切られていますがこれは利根川本流の水量を増す為です。


参考文献「板倉町史通史編」


脚注

[1] いもじ


投稿2016/5/14


No.38 富吉(とみよし)の石塚左市家


著者に許可を頂けたことから始めた転載ですが、全74話の半分が終わりました。今回からは後半。

引き続き、よろしくお願いします。

今回は、藤岡町富吉(現在は栃木市)の石塚家を紹介しています。

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 古河近辺の資産家で有名な家は色々有りますが、今回は「古河志」に記載されている。藤岡町富吉の石塚家について述べてみたいと思います。

 石塚家の先祖は常陸国小田城主の小田氏一族であったと伝えられています。その後小山市網戸[1]に移住し、再び富吉に移住したと「古河志」には出て来ます。加えて「藤岡町々史」では寛正元年(一四六○)頃「結城氏に仕えていた織田代治一族が、皆川城主の食客として富吉の地に移り住み、土崎[2]に船着場を開いて石塚と姓を改めた。」と書かれております。網戸は結城一族の所領でありますから、史実に近いと思われます。

 同家の過去帳はまだ拝見していませんので、どこまで先祖が遡れるかわかりませんが、墓地をみると浄泉院覚翁宗興[3]居士なる古老風な僧体石造座像の背名に、寛永十六年十月(一六三九)没と刻されており、この人物が中興の主人であると思われます。石塚家は祖先より名主にして、神職を兼帯すると「古河志」に出ていますが、この座像も僧体の形で神職を意味しているのだと考えられます。(室町期の家業は問丸[4])

 石塚家で最も有名な人物は、玖羅女[5](久良女)なる同家の主婦で、彼女は歌人として北関東では著名な人物でした。その歌集は「室[6]の八嶋」と題した五巻からなるもので、序文は当時の歌壇の第一人者荷田在満[7]が記し、時の大儒服部南郭が監修したものです。歌集の名になった「室の八嶋」は、今日で栃木市内になっていますが、旧下野国総社で延喜式内社「大神[8]神社」の社域にあった名勝で、絶えず清水が蒸騰して煙の様に見える所から、古来より歌所として有名な場所です。

 この歌集の中には館林市の八景を歌ったものも含まれていて、前詞によれば当時林大学頭(鳳谷[9])が館林八景をよんだ漢詩を茂林寺に送って来たので、住職がこれに和歌を添えたいと思い、久良女に依頼して作らせたものだそうで、これによっても彼女の著名さが理解出来ます。

 一つだけ紹介します。

 渡良瀬帰帆

夕さればわたらせ川のをひかぜに、ま帆引つれてかえる舟人

この歌集は宝暦七年(一七五七)に完成したものですが、久良女は翌八年十二月に七十四才で没しております。生前今小町と讃えられていました。

 石塚家は寛永の末期頃より富家でありましたが、元禄頃から特に資産が増大した様で、その最盛期は享保時代から安永期頃でありました。この時代には江戸の名士とも文雅の道を持って交わり、前述の服部南郭も富吉の同家へ江戸より遙る来宅し、数日を過しております。南郭の文章によれば、邸宅のたたずまい、調度品、家族の人物の高雅さ、ともに凄いものであって、富吉村一村全部が石塚家の所有地であったと記しております。

 又この家は古河藩主の本多家へ高額な大名貸をして、藩御用達にもなり、本多家移封時には返金が出来ず、家宝の品々をその代物として同家へ納めております。同家は江戸末期まで将軍の日光社参時には、当主が槍を持たせ、黄金造りの両刀を帯びて、将軍拝謁の栄を例としておりました。

 石塚家の墓地は驚く様な墓石で、その内には三基の院殿大姉号の墓が存在しております。これらの墓の主は江戸の旗本、井戸・竹川・宮崎氏の娘達で、石塚家に嫁いで来た婦人の墓であります。当時の身分制度から云えば、この様な事は有り得ない事でありますが、石塚家は農民の身分ながら、神主も兼帯していたので、この様な武士の娘の嫁入が可能になったと思われます。石塚氏が奉祀した神社は同地の住吉大明神社であったそうです。

 その後も石塚家は大庄屋として、土井藩にも多額の大名貸や献金をしたらしく、文化文政期の土井藩江戸屋敷の火災の時などは、藩の為に献金を多額した事が墓碑に刻されていて判明します。当然職務から民政にも心がけ近郷の村民にも多く施しをしたようであります。何はともあれ、江戸時代の一時期、古河藩城付き領内随一の富豪であったと思われます。

 なお栃木市満福寺本堂に現存する鬼尊像は平安末期の作であり有名な物ですが、古河公方家の守護神で、義氏公没後石塚家に移したものを、後年石塚佐市が当寺に奉納したものであると伝わっております。石塚邸は現存しており、近郷なので市民の方も是非一度、御見学したら良いと思います。

 石塚倉子(一六八四〜一七五八)七十四才没。石塚貞克の娘。母は飯塚氏。石塚家屋敷地二町余歩。兄貞基の遺言により二十二才で石塚家相続。栃木町より度易を迎えて婿養子とする。よく夫に仕えて貞節。父母に孝行。妹をいつくしむ。生来国文を好み、書万巻を読破。服部南郭・荻生祖来・榎本其角と親交厚く、江戸より富吉へ遊ぶ事多日。寛保三年(一七四三)夫度易病死、一時落胆したが、歌道を以て心の慰めとした。

 石塚家当主は、代々佐市を通り名としていますので、栃木市満福寺へ鬼尊像を奉納した左市が、何代目の人物かは不明です。


脚注

[1] あじと

[2] どざき

[3] そうよ(宗與?/転載者註)

[4] といまる

[5] くらじょ

[6] むろ

[7] かだのありまろ

[8] おおみわ

[9] ほうこく


投稿2016/5/10


No.37 古河の武芸者二題


戦国期からは、古河公方・足利晴氏に招かれた飯篠家直の高弟・門井(午悦入道)定能、江戸期では、土井利房に招かれたと推定される柳生宗矩の門弟・萩原(権左衛門)光重を紹介しています。

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 古河の土地と関係の深い武芸者二名を取りあげて述べてみます。

(1)門井午悦[1]入道定能[2]

 古河志に「門井与八郎定能午悦入道。喪父継家督。時客干古河以家伝剣術為晴氏之師・門井家系図」と書かれています。門井家系図なるものは不明ですが、下総国香取(現佐原市)の人に飯篠[3]長威斎家直と云う人物がいて、香取神宮に祈って兵法の奥義を授かり、天真正伝新当流を開きました。長威斎は長享二年(一四八八)に死没しましたが、その新当流は香取・鹿島地方から以降全国に拡がり、各武芸流派の元祖といわれています。彼には高弟が六人程いてその一人が門井守悦入道であります。長威斎自身も関東平氏と伝えられておりますが、彼の流派は常陸平氏一門の大掾氏系の豪族層に広がりを見せております。

 門井氏は真壁氏の一族で小栗判官物語で有名な、真壁郡小栗(現協和町)にいた小栗氏の支流で同町門井を本貫とする大掾氏一族でありました。

 午悦入道定能は守悦入道の子息と推定出来る人物でありますが、古河公方晴氏に招かれて武術の師範となったのであります。午悦入道の流派は後に遠く九州薩摩に伝わり、その末流には九州三ヶ国守護の島津義久が正伝を受けて存在しております。

 定能の子息定光はその後甲州で武田信玄に一時期仕え、その後千葉氏に属しております。新当流からは塚原卜伝・松平備前守・松岡兵庫助・諸岡一羽・斉藤伝鬼・真壁暗夜軒道無・上泉伊勢守秀綱・佐野了伯・宝蔵院胤栄・穴沢秀俊・等の人物が輩出してそれぞれ一派を創立しております。

(2)萩原権左衛門光重

 柳生但馬守宗矩の門弟について「柳生総日記」を見ると、古河土居藩として萩原栖左衛門と出て来ます。宗矩は云わずと知れた江戸柳生家の祖で、文禄三年に父と共に徳川家康に無刀の妙技を披露して幕下に加えられ、関ヶ原合戦の功や秀忠・家光の兵法指南役その上政治的手腕に優れていましたので、寛永九年(一六三ニ)には総目付(後の大目付)になり、その役一万石の大名に昇進した人物であります。

 彼は諸藩の政治的動きを、監察する事が役目でありましたから諸藩に自分の門弟を数多く仕官させています。勿論大名方も武術に秀でた人物を招きたいと云う要望もあったのであります。

 萩原栖左衛門もその様な関係から古河土居藩に仕官した様であります。古河土居藩と出て来ますから、筆者は最初土井利勝に仕えたのであろうと思っていましたが、利勝時代の家臣分限帳には栖左衛門は見つけられません。そこで越前大野藩の史料を拝見しましたら、利勝子息利房の家臣として萩原権左衛門光重として出ていました。いつ仕官したかの正確な時期は書かれていませんが、利房が若年時でまだ足利領主として古河藩に半属していた時代に仕官したと思われます。(これは若年の利房が彼を招いたのでなく、周辺の者が招いたものであったでしょう。)初期の禄高は黄金二枚十人扶持の身分であります。そう云う訳で「柳生旧記」には古河土居藩と出て来るのでありましょう。栖左衛門は権左衛門の誤字だと思われます。

 利房はその後老中職を勤めますが、辞任直後の天和二年(一六八二)に越前大野藩主となり、古河地方を離れております。権左衛門は元禄九年には新知百三十石を賜り普譜奉行・鎗奉行を歴任して元禄十五年(一七〇二)八月に病没しております。彼が生前武術を生かして、家臣等の指南をしたのかどうかは史料よりは判明しませんが、鎗奉行と云う職は武官としての代表職でありますので、その手並の評価は高いものがあったと推定出来ます。(前主柳生家と記録有。)

 なお「足利の定年寺」の時に書いた、大生市左衛門定年はやはり寛永二十一年兄利隆より足利領一万石を分知された十三才の利房の付家老として仕え、大野藩主となった利房に仕えた定年子息の市左衛門某は千五拾石の高禄を食んでおります。

※江戸時代等の史料を拝見して一番こまる事は、当時の人が(特に武士は)代々通称が同じく名乗っている事であります。勿論百年間も時代差があれば別人と判明出来ますが、三・四十年の差では、父であるか子息であるかの判断をつける事が難題の場合が多々あります。それに同人であっても当時の人は一生の問に三・四回通称が変わるのでありますから難解であります。せめて諱[4](実名)が判明してれば幸いですが。


参考文献吉川版「国史大辞典」 「大野市史・近世史料編」


脚注

[1] ごえつ

[2] さだよし

[3] いいざさ

[4] いみな


投稿2016/5/6


No.36 豊臣秀吉と嶋子


古河公方家から分かれた小弓公方家末裔・嶋子について。小田原北条家滅亡後、豊臣秀吉に接近し、足利家の行く末に影響を与えた人物です。

現在は秀吉の政策背景について、単純に色好みの性格から説明することは減りつつありますが、それでも彼女は時代を変えた女性の一人と言えます。

ところで、今の大河ドラマは「真田丸」ですが、秀吉は準主役の大活躍ですね。小田原合戦のシーンではどんな人物が登場するのかな。

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 今NHKの大河ドラマで豊臣秀吉の物語が放映されております。秀吉の生涯は前半生が楽しくて、後半天下人になってからの秀吉は、独裁者の気まま振りが目立ち、筆者はあまり好きではありません。現在はその前半生の放映でありますから、楽しく鑑賞しております。

 秀吉は天正十四年(一五八六)に家康と和平し、事実上の天下人となりますが、翌十五年の末には「関東・奥州惣無事令」を発して、当地の大名間の戦いを禁止し、これに従わない者は成敗する方針を打ち出しました。小田原の北条氏は一応この命令に服したのですが、上野の名胡桃[1]城を北条家家臣が攻め落した事に端を発して、秀吉の小田原城攻めが始まったのでした。この時点で北条氏に味方する大名は、大方が小田原城へ龍城し、開城後一族没落の運命に会っています。北条氏に敵対していた大名は生き残れた訳であります。

 所で下野国塩谷郡地方二千町歩を領収していた小大名に塩谷氏がおりました。塩谷氏の先祖については、宇都宮氏の支流説や源義家の子孫の両説がありますが、当時その二十二代目の塩谷弥次郎惟久[2](義孝又は朝隆とも)と云う人が、現在の矢板市の御前[3]原城に住居して領主となっておりました。この惟久のもとへ輿入れしたのが嶋子姫です。

 嶋子姫とは古河公方政氏の次男で、小弓御所義明公の孫娘です。義明公は天文七年十月(一五三八)古河公方晴氏に敵立した為、北条氏康によって下総の国府台の戦で敗死しますが、その次男で当時七才の国王丸(後の頼淳[4]さらに改名して頼純)は房州へ逃れ、里見義弘の庇護のもとに成長しております。その後頼淳は佐野城主、佐野大炊介昌綱の娘と結婚をし、永禄十一年に誕生した次女が嶋子姫であります。小弓御所家は当時衰退しておりましたから、彼女は天正十六年二十一才で格下の塩谷家に嫁ぎました。

 秀吉は小田原開城後、奥州遠征の為関東の諸将に命じて人員・物資の調達を命令しましたが、どう云う訳か、塩谷惟久はこれに応じません。多分秀吉の旗下になった本家の宇都宮氏との間が不仲でもあったのだと推定します。そう云う訳で惟久は秀吉の怒りを恐れ、催かな従者を連れて城を出奔してしまいました。小倉村(南那須町)より、つてを頼み小砂村(馬頭町)に隠れ、塩谷安斎と名乗っていたようです。彼はその後側室との間に生れた娘を、水戸藩家老の中山備前守に嫁がせまして、その緑で徳川頼房に仕え、五○○石を給されています。一方主人に出奔された嶋子は、七月廿一日に古河城へ入った秀吉のもとへ弁明の為に出向いております。秀吉は御承知の通り名門の女性を大変に好む人物でしたから、この絶世の美人の嶋子に目を付け、古河城中にあった五日間は立てつづけて、夜伽を命じたと「塩谷日記」には書かれています。

 当時古河公方家の方は、義氏の娘で幼少の氏姫が城主の立場にありましたが、北条家と肉親の関係でありますから、秀吉より敵方と見られていました。嶋子は秀吉に足利家の再興を懇願したのです。

 そこで秀吉は塩谷氏領内三千五百石の地を鳴子の父頼淳に与え、嶋子の弟国朝と氏姫とを婚姻させ、足利家の継続を命じたのでした。「塩谷日記」には「秀吉は若し懐胎あるかもしれないと思召し、化粧料として嶋子へ給した」とあります。ようするに古河公方家と小弓公方家の合体であります。

 その後の嶋子に付いては史料が乏しく、はなはだ不明ですが、上洛して秀吉の側室になったと思われます。ただ喜連川町の見解では、側室になったとせず、嶋子は秀吉の一時の陣中妻であった事になっています。

 彼女はその後慶長三年、秀吉の没後京都東寺にて剃髪出家し、月桂院と称し翌年には江戸へ下ったようです。その後徳川家康に尊敬され、家康娘の振姫(家康には二人の振姫が存在しているが、多分伊達忠宗に嫁した娘の方だと思われる)付きになっています。

 承応元年(一六五二)江戸市谷平安寺を再興して、月桂院と改めております。(嶋子の没時ともある。現新宿のフジテレビ本社の隣地)この寺は円覚寺の直末で江戸臨済宗三ヶ寺の筆頭[5]であります.

 明暦元年六月十七日に嶋子は没し、法名を月桂院殿龍室宗珠大禅定尼。

 嶋子こそ身を犠牲にして、関東足利家を再興させた人物で、江戸時代には烈女の名の高い人物であります。八十八才没。


脚注

[1] なぐるみ

[2] これひさ

[3] ごぜん

[4] よりあつ

[5] ふでがしら


投稿2016/5/1


No35 逸見猶吉(へんみゆうきち)と谷中村


昭和初期の詩人、逸見猶吉について。

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 大晦日の夕方、家事を済ませてから、一丁目の二津屋茶店さんの粕谷栄市氏をお訪ねしました。氏は現代詩の著名な作家で、博学な人物でありますからお話しを聞く事は楽しみです。その時旧古河藩領谷中村出身の逸見猶吉なる著名詩人が存在した事を聞かされ、猶吉の骨太で独創的な詩風の説明を受けました。帰宅して早速人名辞典を開きましたら確かに逸見氏は出典しております。煩雑ではありますが、次にその記事を掲載します。『明治四十年生〜昭和二十一年没。昭和期の詩人。栃木県出身。本名大野四郎。早大卒。中学時代から詩作。草野心平編集の詩誌「学校」に連作「ウルトラマリン」を発表し注目された。のち「歴程」に参加。ニヒリステックで独得のリズムを持つ詩風で知られた。昭和十年満州に渡り病没した。没後草野心平により「逸見猶吉詩集」が出版された。』

 これによっても猶吉の概略は理解出来ましたが、私はもう一寸詳細に彼の事を知りたかったので、粕谷氏から教授された板倉町にある猶吉の墓を見学する事にしました。

 彼の墓は確かに谷中村合同慰霊碑区の入口辺に存在しました。それは墓と云うより記念碑と云った方が適切なようなもので、昭和四十七年に建立され、草野心平の筆による猶吉の詩が中央に書かれています。

 「血ヲナズス北方、ココイラグングン、密度ノ深クナル北方、ドコカラモ離れて、荒涼タルウルトラマリンノ底ノ方へ」そして猶吉の没年昭和廿一年五月十七日。長安道猶信士。俗名大野四郎とあり、印象的なのは詩文の左側の「鎮火」兄日出吉の文字でした。

 猶吉は明治四十年に谷中村最後の村長(助役か?)大野東一氏の子息として誕生しました。祖父は谷中村村長を勤めた孫右衛門で同氏は明治十四年十一月、三国橋(船橋)を架設した事で歴史に登場します。そして現在「重文」になっている野渡のホフマン窯で有名な「下野レンガ製造会社」の役員に明治二十一年に就任しております。これでわかる様に谷中村を代表する大地主で、谷中村役場は同氏の私宅水塚[1]の一棟がそれにあてられていました。明治十八年以降の足尾鉱毒事件と谷中村との件はここで詳細を述べる事は割愛しますが、孫右衛門氏や東一氏は村役人の立場上、県の谷中村買収には早くより賛成協力派であったらしく、かなり早い時期に同地を離れ東京へ住居を移していますが、その処は古河市兵衛庭園のあった北区滝の川近辺だそうです。そう云う訳で猶吉の生地を栃木県としていますが、これは誤った記事の様であります。(東一氏は古河鉱業の非常勤取締役)

 猶吉はその後、暁星中学に入学し、そこでフランス語を習得しております。当時彼は大野家と谷中村との関係を知る事となり、そのような心の葛藤が多感な彼をますます詩文の世界へ傾倒せしめる事になったようです。早大卒業後の消息はわかりませんが、昭和十年には兄の和田日出吉(大野日出吉)が満州にて満州日報新聞の社長をやっていた関係より渡満しております。粕谷氏の解説ではそれ以降の作品は、初期の作品に比べて粗野が顕著化していて、家庭生活も酒におぼれてすさみ、俗に云う所の無頼派の詩人であった様であります。

 草野心平は猶吉の初期からの詩友で(心平は世に埋もれている才能ある詩人を数多く発見しています。代表は宮沢賢治)そのような猶吉を愛したらしく、生涯に渡り交友をしておりました。

 猶吉は終戦後も満州に残留し、同地で没しておりますが(一説には帰国船中で死没とも云う)二人の遺児は日本へ帰国し、栗橋町へ最近まで居住していました。兄日出吉の妻君は有名な女優の木暮実千代氏であり、弟の五郎氏は洋画界の長老で、八王子市住で現在も活躍しております。

 この様な猶吉の経歴をなぞって行きますと、彼の墓碑にある詩文と「鎮火」の文字が現実のものとして私達の心を締つけてまいります。確かに彼にとって北方(谷中村)は、血を悩み苦しませる場所であったのでしょう。(粕谷氏に、その事だけに限定して鑑るのは危険だと教示される)。

 この記事を善くにあたり旧谷中村の関係者に話しを聞きましたが、現在でも事件が跡をひいている事が理解出来ます。現在遊水池空港化が俎上に登っていますが、谷中村と云う霊地、そして歴史は後世まで語り伝えられる冷厳さゆえ、このまま手をつけない自然地が良いと思いました。

※猶吉はフランスの詩人ランボーの影響を色こぐ受けたそうです。逸見猶吉のペンネームの由来はわかりませんが、田中正造翁の有力な同志に逸見斧[2]吉と云う人が存在しますのでこの人物に何か関係すると思います。

 実を語れば筆者の祖父も大正初期の渡良瀬川河川改修事業の為、土建屋として懐を温めた歴史を持っています。告白


参考文献「逸見猶吉詩集」「栃木県歴史人物辞典」


脚注

[1] みつか

[2] おの


投稿2016/4/27


NO.34 古河藩の孝義人


転載なので、冒頭あいさつは無視して下さい。(^_^;)

あまり知られていない人物ですが、古河藩時代の町や村の人も紹介します。

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 明けまして御目出とう御座居ます。今回は新春を賀して古河藩時代の善行者を述べたいと思います。

(一)小森谷平右衛門光朝

 江戸幕府は儒教をもって治政の根本思想としておりました。儒教の徳目は仁・義・礼・智・信です。この道を貫くには、孝忠の心底が必要との事でした。そこで幕府や諸藩では孝義人(善行人)を各時代共に褒賞しております。

 特に有名なのは享和元年(一八○一)に幕府が編集した善行集である「孝義録」に記載された、全国八千六百十四名であります。善行の内容は孝行・忠義・貞節・一族家内兄弟睦・風俗宣・潔白・奇特・農業出精の各人物でありますが、小森谷氏はこれに奇特人として記載された善行人です。

 彼は元文三年(一七三八)に中田新田村の名主の子息として生まれていますが十三才の年少にて、名主職を継いでおります。その頃当村は水害がひどく村民貧困しており、それに加えて中田宿の定[1]助郷村として人馬を労役として差し出さなければならなかったのでした。彼は困窮した村民の為に私財を寄進しましたが、これでは充分に村民を救う事は出来ません。そこで安永初年に古河藩に助郷免除を訴えました。助郷役は幕府道中奉行の管轄でしたから藩から幕府へ上願した所、安永五年六月(一七七六)にこれが認められ永久に助郷役からはずれる事が出来たのです。普通助郷役が免除された場合代りの村がそれに当てられて、同じ苦しみに会わなければならないのでしたが、この時は中田新田村の代[2]助郷村が指定されないと云う希な事例でありました。

 平右衛門はその後も天明三年以降の浅間山噴火による連続した飢餓に際して私財を投げうって村民救済をしていますが、その救済は鳥喰・鴻巣・大堤・立崎等の隣村にまで及んでおります。村民一同はこの事を感謝して、京都吉田家より森平大権現の神号を請得て、彼の生祠を村内に建立していますが、彼はこれを醜しとして取りこわし自宅内に社を移しております。その他にも多くの善行を行なっていますが、それが幕府の知る所となって「孝義録」に記載されたのでありました。古河藩主よりも前後五回褒賞を受けております。文政三年三月に「仁者其寿永」の譬え通り八十三才の長寿にて没しております。墓は中田円光寺にあります。


(二)増田兵右衛門(治兵衛)

 兵右衛門氏は現在台町の増田薬局様の御先祖です。彼は小森谷平右衛門氏より後代の人でありますから「孝義録」には収録されてはおりませんが、孝義人として著名でした。

 氏は増田治右衛門の長男として寛政十二年(一八〇〇)に生まれました。母は柳生村福地氏の娘ですが若くして死去したらしい。増田家は当時薬店兼古河町の問屋[3]年寄役を勤める四軒の一つでありました。彼は少年期より寡[4]父に孝行をし、早くも十九才の文政二年正月に藩主で当時老中職の利厚公より孝行者として第一回の褒賞賜金を受けました。次いで天保十三年八月には利位老中より褒賞賜金を受け、翌十四年四月には幕府代官勝田次郎より幕命として、白銀七枚と父養の為生涯一人扶持与給の表彰を受けております。彼の生涯の面目は同年四月十四日十二代将軍家慶公が六十七年振りの日光社参の為古河城へ御成の節、兵右術門父子が藩命にて御成門前にて平伏して、名刺差し出した所将軍より挙首を命ぜられ、親しく言業を掛けられ、その孝心を賞された事であります。

 当時将軍様と云えば神に等しいものであったのですから、「彼は感涙満面に溢れ、戦慄・恐怖の為在る所を知らず」と史料に出て来ております。

 次いで明治三年十一月古河藩知事土井利与公より古希に際してそのカクシャクな活躍を賞されました。以上公官より五回に渡って褒賞を受けておりますが、伝えられる人物像は、純朴なる温情家で、黙々と家業に勤む人であったそうです。

 当時増田家の庭には稀代の五葉松があり、五・六尺の高さなれどその枝、臥龍のごとく広大に拡がり、道中の名所で、旅人の目を楽しませたそうです。特に仙台侯は常時観賞したそうです。

 なお既述した峯岸儀兵衛氏は兵右衛門の次男であって峯岸氏の養子になった人ですが、彼の明治期の活躍も実父の余徳の賜物と云っても良いと思われます。明治十六年九月八十四才にて没し、市内神宮寺に葬られました。


参考文献 「古河志」「増田家過去帳」


脚注

[1] じょう

[2] だい

[3] といや

[4] か


投稿2016/4/24


No33 佐川田喜六昌俊


 江戸前期の歌人として有名な佐川田昌俊(喜六)について。昌俊は古河藩主・永井直勝、尚政の家臣として活躍。永井家が山城(京都)に転封されると、昌俊も従います。茶道や連歌にも優れていました。

 佐川田昌俊は京都での活躍が有名ですが、古河にもゆかりのある人物です。

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 一年程前に神田の古美術店を何げなく見ていたら、佐川田喜六の和歌の、自筆軸物が売りに出ていました。古河に関係ある人物なので、値段を尋ねたら百二十万円との事でした。店主に「そんなに高価なんですか」と云ったら「喜六は茶人の間では、尊重されている有名人だから適価です」と返事されてしまいました。

 喜六と古河との関係は、彼が、古河藩主であった永井直勝、尚政に仕えた家臣だからであります。

 彼は天正六年(一五七八)に館林市早川田で生まれています。先祖は足利尊氏の重臣高師直の従弟の尾張守師業で、累代鎌倉公方、古河公方に仕えています。史料にも公方義氏時代に重臣として高大和守や高氏師が存在しますから、この系譜は確かだと思われます。公方家が衰えてからは、佐野家に属した事になっていますが、父親の名前は判明しません。

 その後喜六は幼年にして越後の木戸元斎[1]のもとへ行き、そこで教育を受け後に養子になっています。木戸元斎とは埼玉県羽生の城主で武将として、又歌人・連歌人として有名な人物でした。木戸家は元来野田氏の支流で、先祖より足利家に仕え、親族であります。又尊氏以来鎌倉公方に仕えた家柄でした。木戸氏はその後二派に別れて、一方は古河公方に仕え、一方は山内上杉家に仕えて重臣となっています。この上杉に臣下した方の子孫が、羽生城主になったのでした。代々歌人として有名です。元斎はそう云う歴史の流れで、上杉氏を継いだ越後の上杉謙信に味方しておりました。

 ところで羽生城は武運つたなく、天正二年十一月に北条氏の為に落城となってしまったのです。謙信は元斎を一時群馬県粕川村の善城や山上城へ移しましたが、天正七年頃に同城が北条氏の為に落城し、越後へ移っています。その後は上杉景勝に仕えて、文武両面で高名し、天正十九年以降は京都の歌壇での活躍は有名であります。

 木戸氏の本貫の地である館林市木戸と早川田は隣地でありますから、この縁で喜六は元斎の養子になったと思われますが、元斎はその後上杉家の直江兼続と合わず浪人となったので、自然喜六も浪人になってしまいました。元斎はその後死没し、喜六は京都近辺に住居しておりましたが、慶長五年に近江大津城攻めに参陣して、功名し、武名は広く世に知られました。この文武両道の喜六を客分として迎え入れたのが、永井直勝です。直勝は池田恒興の首を取った事で有名ですが、実は文人としても有能人で、家康公は彼を細川幽斉に師事させて、室町幕府の礼儀故実を伝習させています。直勝はその様な人物ですから喜六を可愛がり、彼が飛鳥井雅庸[2]・近衛信尋[3]の歌門に入る事も認めております。

 その後直勝は笠間の城主になり、元和八年に古河に移封しましたので、自然、喜六も先祖より縁の深い古河の住人になったのであります。喜六はその間も、江戸や京都の文人と歌道を通して交際を盛んになした様で、そのなかには多くの大名も含まれています。

 寛永十年(一六三三)に主君永井尚政が山城国淀城主になると、喜六もこれに従い家老に就任しますが、同十五年に致仕し、京都郊外の一体禅師ゆかりの田辺薪[4]村酬恩庵(一休寺)の片傍に黙々庵と称する隠宅を構えて住し、もっぱら風流の道を楽しんでおります。その友人には木下長嘯子・本阿弥光悦・松花堂昭乗・石川丈山・林羅山等が存在します。一休寺の一休禅師の座像は生けるが如く作られたもので、大変に有名な作品です。この寺の茶風納豆は又古風な味で天下一品です。

 御水尾天皇が撰んだ「集外三十六歌仙」と云う勅撰和歌集がありますが、彼はその一人として収録される程になっております。茶道は小堀遠州の高弟であります。

 寛永二十年八月六十五才をもって死没しましたが、墓は同一休寺の後山にある佐川田家の墓域にあって、墓の背部には林羅山撰文の碑文が刻まれています。今に残る一休寺の庭園は喜六・昭乗・丈山の合作と伝えられるもので、筆者も見学した事がありますが、それは禅風の立派な庭であります。喜六の妻は佐野昌綱が侍女に生ませた女子で、当時の佐野家家老阿曾沼方重の養女として嫁入させたと伝えられています。喜六が早川田にいた頃に住んでいた屋敷は同地の雲竜寺近辺とされています。(雲竜寺には田中正造の墓が現存する)


参考文献 鷲宮町史中世編


脚注

[1] げんさい

[2] まさつね

[3] のぶひろ

[4] たきぎ


投稿2016/4/19


No.32 古河にもう一人いた義士の娘


 古河に赤穂浪士(義士)の一人、吉田忠左衛門の娘がいたこと、そして、大石内藏助と古河との関係、将軍・徳川綱吉が義士に対して厳しい処罰を科した背景について紹介。

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 筆者は古河史逍遥(4)で「古河に住んでいた赤穂義士」と題して、寺坂吉右衛門と寺坂の主人(上司)の吉田

忠左衛門の娘の事、並びにその夫である伊藤八郎右衛門治興の事を述べました。翌号では「永井寺の古文書」として、伊藤家と平井家が協同で長谷の永仙院に寄進した土地の事を解読しました。

 伊藤・平井家の主家、本多家は最終的には三河国岡崎藩主となって明治維新を迎えます。多くの史料はそう云う訳で岡崎市に現存します。本多家家臣団の系譜書も存在しますがそれを拝見しましたら、詳しい史実が判明しました。

 まず平井惣兵衛の事ですが、古河史逍遥(5)で筆者は伊藤家より平井家へ養子へ行った者であろうと推定しましたが、結果は正にその通りで、治興の三男が同藩の平井理兵衛治賢家へ養子に行き、惣兵衛正陳と名乗ったのでした。養父理兵衛治賢は伊藤治興の実弟で、平井理兵衛正泰の養子となった人物ですので、惣兵衛は実の叔父の家へ養子に入った人物です。

 伊藤治興の妻は、赤穂義士吉田忠左衛門娘の「於さん」である事は前述しましたが、驚いた事にもう一人忠左衛門の娘が同藩家臣に嫁した事が判明しました。娘の名は書かれておりませんが、夫の姓名は那須彦右衛門繁高と云う人物で、古河在藩の時は百三十石高の身分でした。(本多家減封前は二百五十石高)。「於さん」と那須氏妻とは、どちらが姉妹であるか書かれてはおりませんが、伊藤治興の方が十才位年長であると、家譜より判断出来るので「於さん」が姉と推定出来ます。

 赤穂義士の頭領は、云わずとしれた大石内藏助良雄[1]であります。この大石家は古河地方と大変関係の深い家系であります。古河の平安末期から鎌倉期にかけての領主は、下河辺氏であります。その本流は小山市の小山氏であります。小山氏は義政の時に鎌倉公方、足利氏満と対立して、永徳二年(一三八二)に滅んでしまいますが、その後支流の結城氏より泰朝が入り、小山氏を再興します。その子広朝に二人の子息がありまして、長男持政・次男が良郷[2]です。この良郷が近江国栗太郡大石庄(現大津市内)の下司職[3](庄園の管理人)となって、大石を名乗りました。同氏はその後京都の将軍に仕えていましたが応仁の乱で、一族ことごとく戦没し、その家が終えようとした時、再び小山氏より久朝が入って再興しております。その九代目位の子孫が大石良雄であります。大石家は良雄の三代前良勝の時に、浅野長重に常州笠間で初勤したのであります。

 歌舞伎などで、時々良雄役の役者が、右頭二つ巴紋の服装で出演していますが、これは誤りで、小山氏の紋は、左頭二つ巴紋が正確です。小山市の鷲神社に行けば、すぐに理解される事です。

 赤穂義士四十七士の内でも譜代の臣(吉田・片岡・小野寺・堀部・潮田・菅谷・不破・木村・岡野・矢頭・近松・赤埴)等の先祖は、笠間で浅野家に仕えたのですから、関東出身者が多かったと思われます。義士以外でも浅野家上士は関東武士の子孫が多かったと推定出来ます。

 本年も討入りの日が近づいて来ますが、何故あれほど綱吉が激怒して、即日切腹にしたかと云う事ですが、今日新説が登場してきました。

 綱吉生母桂昌院は、京都の八百屋の娘でした。綱吉は成人しても1m24cmと云う、現在の8才児位の身体です。そう云う訳で母子共に強いコンプレックスを持ち続けておりました。この克服の為に母子は学問に大層打ち込みます。何としても学問上では長兄家綱次兄綱重に優位を保ちたかったからです。彼は後年将軍になりましたが、コンプレックスだけは解消しません。そこで母親に従一位生前贈位を計画したのです。そしてその下相談をするべく、勅使が下向したのが元禄十四年三月十一日でした。(名目はあくまで年頭の祝儀でありますが)翌十五年二月には桂昌院は従一位を贈られていますので、この相談は良い方向に進んでいたと思われます。その勅使供応の最後の日に起こったのがか刃傷事件であります。綱吉としては、これでコンプレックスが克服出来そうだと、期待で胸がふくらんでいた所の、晴天の霹靂だったのです。以上綱吉にとって、生母は大好きで、大嫌いと云う複雑な心理状態にさせる人物だったとある精神科医師の解説であります。


参考文献 飯尾精 著「忠臣蔵の真相」


脚注

[1] よしたか

[2] よしくに

[3] げすしき


投稿2016/4/16


No.31 古河出身の将軍閣下


 古河出身の日本陸海軍将官を紹介。

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 古河地区より明治以降昭和二十年の終戦に至るまで、数多くの軍人を出している事は云うまでもありません。将校になった数もかなりにのぼると思われます。

 ところで将校(士官)になるには、どの様なコースがあったのでしょうか?筆者は昭和十九年の生まれなのでこの点はほとんど不明でした。色々勉強してみましたが、これが時代時代によってかなり変遷している事がわかりました。特に昭和十二年以降の将校養成制度は、色々の学校や下士官から将校になれる道が開かれていて、外国人も含めて、多種の人物が将校になれる様になったのです。将校の内から将官になれる者は本来、陸軍ならば、陸軍士官学校、海軍ならば、海軍兵学校出身で、中尉になってから、陸軍大学校、海軍大学校へ、入学・卒業して、大軍統帥と高等用兵を学んだ者が、なれる資格のほとんどを占めています。

 ただし、明治の中期までに将官になっていた者は、例外であります。これは勿論、それらの学校が創立していない時代に、すでに将校になっていたからです。それから昭和の十年代になってから将官になった者は、大学校を出てない人物も、部隊の増加と共に、将官になれる傾向がありました。

 ただし、主計・軍医・薬医・獣医・法務・技術等の将官コースは、又別のものであります。

 今日までの調査では古河出身で将官になった人物は五人であります。以下四名の中佐以降の経歴を述べてみます。(功級とは金鵄勲章級です)

 森川武中将(歩兵)功三級・陸大7期・明治22入学・24卒業.大2・12・27・中将。明治41・12・21少将。38・3・1大佐。明35・10・3歩兵32連隊長。38・1・29戦傷。38・3・9戦傷。38・6.17休職。39・3・28歩兵32連隊長(再補)。41・12・21歩26旅団長。大2・12・27・後備。10.2・10歿67才。

 安政元年(一八五四)の生れ、父は森川弥五兵衛・古河田町出身の旧士族で陸軍士官学校創立は明治7年ですので、彼は二十才でありますから、陸士を卒業していないかもしれません。よほど努力の人物でしょう。最初の入学は陸軍教導団でした。西南の役に出兵。

 竹上常三郎中将(歩兵)功四級・陸大14期・明45・4.26人事局課員。大3・8・10人事局補任課長。5・8・18歩兵51連隊長。7・1・18参謀本部庶務課長。7・8・19陸大幹事。8・1・15人事局長。12・8・6旅順要塞司令官。13・2.4第19師団長。15・7・28第12師団長。昭和3.3.8持命。3.3・29予備

 彼は旧古河藩士ではありませんが?明治5年頃の生れと推定出来ます。西片町の出身で幼年より、秀才であったそうです。戦時ならば大将までになれた人物でしょう。明治39年の日露戦争時は出征して第三軍第七師団参謀を少佐で勤めています。

 藤懸広中将(軍医)東京帝国大学医学部卒業・功三級・昭和11・8・1総監。7・12・7軍医監。3・3・8−正。3・3・8関東庁病院長(旅順)6・3・11第8師団軍医部長。10・3・15第14師団軍医部長。11・8・1持命。11.8・28予備。

 彼は藤懸静也博士の実弟で、兄弟そろて東京帝大出身。軍医総監は軍医の最高職で、中将相当官であります。

 小倉尚[1]陸軍中将(工兵)昭17・12・1中将・14・8・1少将。12・3・1大佐・東大建築科卒・独駐在・昭18・9.10殉職(台湾)

 市内駒ヶ崎の小倉家の出身で東大建築科出身で工兵中将です。陸大出身でなく、工兵で中将になった者は大変少数です。よほど頭脳明蜥な軍人であったと思われます。市内石町の小倉歯科医院さんはその一族です。

 清水巌少将 功四級・昭8・11・15摩耶副長。10・11・15艫政本部員。11・12・1阿武隈艦長。12・12・1火薬廠[2]検査官。14・8・1火薬本廠火薬部検査官。15・11・15広徳丸監督官。16.8.11横須賀鎮守府附。16・9・5加茂川丸監督官・17・3.2戦死。52才任少将。

 彼は明治十二年に古河に第百二十国立銀行を創立した、清水四兵衛の次男。父は旧古河藩士。大佐時代戦死したので一級昇って、少将となりました。

 以上の四名が将官になった人物ですが、佐官クラスでは、山本一男海軍大佐・梅田三良海軍大佐・木村勝[3]斎[4]軍医大佐、小山三巳[5]憲兵中佐・倉持善之助陸軍中佐・武内秀雄海軍少佐・船江源三郎陸軍少佐等が存在します。

 隣町の総和町出身では塚田攻大将が高名で、陸大校長・参謀本部次長・南方軍総参謀長・第二軍司令官を勤め、昭和17・12・18。中国大陸の大別山[6]で墜落戦死をしております。功一級・任大将。彼はもう一時期早く生まれていれば、元帥府にも入る事の出来た人物でありましょう。以上でありますが、もれている人物もあると思いますので、筆者まで御連絡下されば幸甚です。


参考文献 帝国陸海軍将官総覧


脚注

[1] ひさし

[2] しょう

[3] しょう

[4] さい

[5] さんみ

[6] だいべつざん


投稿2016/4/12


No.30 幕府代官岸本武太夫


 古河の隣にあった藤岡町の名代官・岸本武太夫について。

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 十月に文化財審議委員会で、関西方面の古河藩領地を視察に行って来ました。二日目に岡山県津山市を訪ねましたが、有名な津山城見学の案内をして下さった人が、岸本氏と云う御方でした。ホテルに帰ってから雑談をしていましたら、山口美男先生が「この方は岸本武太夫の関係者ではないかな」と云われたので、その事を本人に御尋ねしたら、まさしくその通りでありまして、誠に驚いたしだいであります。

 古河市には直接関係はありませんが、岸本武太夫と云えば、総野地区の天領代官として、名代官の称を世に受け続けた人物であるからです。

 徳川幕府は直轄領(天領)を約四百五十万石所有しておりまして、これを郡代[1]・代官と大名預け地として支配しておりました。郡代・代官は年貢を徴収する事が一番の役目ですが、そればかりではなく、天領の行政全般をも取扱っていましたので、裁判官・警察官・福祉民政官を兼ねていました。そして管轄地の主要地に陣屋や郡代役所を置いて天領を支配しました。

 機構上は幕府の勘定奉行に所属して、身分は旗本(将軍に御目見出来る幕臣)で、配下には手付・手代を持っています。代官は主に、幕府勘定所の関係者より選ばれて、就任をし、数代に渡り代官を世襲した家も見られるものです。郡代は代官の格の高い者と理解してよく、全国の要地に配置されたものでした。

 水戸黄門様や時代劇では、代官と云えば、私欲をほしいままにする人物ばかりですが、それは勿論一部の代官であって、多方はそんな人物ではありません。なかには、民衆の味方になって、名代官と云われて、領民から神様として祀られているような、代官も数多く存在します.例えば、伊奈忠治[2]・忠順[3]・鈴木重成[4]・井沢為永[5]・井戸正朋[6]・川崎平右衛門・寺西封元[7]・岡田寒泉[8]・中井清太夫・竹垣直温[9]・等で、その数二十名にものぼります。

 それ等神様となった人物の一人が岸本武太夫就美[10]です。武太夫は寛政改革期の代官で、この時代には名代官と云われる人物が、幾人か現れています。彼は美作国押入村(現岡山県津山市内)の大庄屋の子として寛保二年(一七四二)に生まれました。父の時代に家運が下降しまして、清貧の内に幼児期を過ごしていますが晴雲の志高く、十五才の時に、近隣の久世代官の藤本甚助の手代になりますが、その勤勉を認められ、十八才の時、代官の転任に供なわれて、江戸へおもむきます。その後は勘定所の普譜役・佐渡奉行支配広間役・支配勘定と昇格し、寛政五年(一七九三)に、古河の隣地の藤岡代官となりました。

 藤岡代官は下総・下野の内で、六万八千石の天領を支配した代官であって、栃木県の藤岡町に陣屋を置いております。この陣屋が置かれた場所については数説ありますが、現在藤岡町に陣屋と呼ばれる、字地がありますので、そこが適当地かと考えられます。(一説現藤岡町農協の所・一説繁桂寺境内)

 藤岡代官の管轄地は下総・下野地方でありますが、その天領は比較的、古河近辺の場所でありましたが、寛政十二年には行政の都合で、最北部の現・真岡市東郷[11]にあった、藤岡の出張陣屋に、正式に移りました。

 文化元年(一八○四)には昇進して勘定に任じられましたが、引き続き代官支配を命ぜられ、同六年十一月に、六十八才で死去しております。渙享院殿善縦明慶居士[12]と諡[13]されております.

 この間に彼は、小児養育・堕胎・子間引の防止・荒地復興の為の手当金の支給・越後農民の移入・植林・水利事業等・天明時代以降荒廃著しい支配地の復興に尽力しました。

 武太夫の昼夜を分たずの努力と誠実に感激した農民は、その支配地であった、真岡市西郷[14]に寛政年間に岸本神社を又飯沼新田周辺の猿島町沓掛新田の、かつて武太夫が藤岡町から藤岡稲荷の分社を勧請した沓掛稲荷に、江戸の大儒・太田錦城[15]・大窪[16]詩仏・の文・書を持って、二世功徳碑を建立しています。(文政四年四月)この二世功徳とは、武太夫の子息の十輔荘美も、父に続いて藤岡代官を勤めて、これ又、名代官だったからでした。(文化十三年、転任に当って、下野の百姓惜別して、七里の道を真岡市から結城まで大多数で送っています。)又同地の香取神社には岸本氏の武運長久の為に、農民こぞって光明真言を三千十七遍唱えたと云う碑も存在します。(文政六年四月)

 武太夫は勤務の余暇に俳句を楽しみ、当地方の俳譜は、彼が輸入したものと伝わっております。俳号羅月亭点火。大正七年には正五位を贈られ、一族からは大正時代に岸本鹿太郎と云う、陸軍大将になった人物も出ています。


参考文献「下野人物史」岸本武夫著「岸本武太夫事跡」


脚注

[1] ぐんだい

[2] ただはる

[3] ただのぷ

[4] しげなが

[5] ためなが

[6] まさとも

[7] たかもと

[8] かんせん

[9] なおあつ

[10] なりよし

[11] とうごう

[12] かんきよういんでんぜんじゅうこじ

[13] おくりな

[14] さいごう

[15] きんじよう

[16] おおくぼ


投稿2016/4/9


No.29 古河藩の御用商人と山片蟠桃(やまがたばんとう)


 古河藩を支えたのは武士だけではありません。今回は商人たちを紹介。

 以下に紹介された古河城下の商人のうち、八百屋(丸山)儀左衛門は二丁目にあった城下最大の豪商で穀物・紅花・金融業などを幅広く手がけました。八百屋四郎兵衛は青物町(一丁目枝町)の野菜卸商、斉藤佐市衛門は石町の袋物商、安井文兵衛は石町の穀物商、利根川屋伊惣次は江戸町の利根川肥料店です。

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 御用商人は別称を用聞、用達[1]、出入商人ともいいまして、江戸時代に幕府、諸藩に出入して、領主の用だてをした特権商人のことです。米穀と金融を主とした、蔵元、札差、掛屋、等と領主の日常必需品、箸侈[2]品を鞭撻する商人を示す言葉です。

 彼達は幕・藩の為に、入札、仲買、金融の仲介などをして巨富を蓄え、一方幕藩も、彼達に御用金、運上、冥加[3]金などを差し出させたものでした

 古河土井藩においても当然これ等の御用商人が存在します。用達を命じられた業種も多くありますが、古河地区の場合は、主に藩の金融と云うよりも、日常必需品の為の商品や、仕事に対する用達でありました。古河地区の代表者では、八百屋儀左衛門、西村屋仁兵衛、八百屋四郎兵衛、斉藤佐市衛門、安井文兵衛、利根川屋伊惣次等が有名です。儀左衛門は藩の金融にも深くかかわった様子です。

 御用商人は勿論古河地区だけでなく、江戸、大阪、京都の言わゆる三都、の商人も任命されています。それらのなかで著名な者は、江戸の古河弥兵衛、大阪の升屋平右衛門、京都の河井十右衛門、等であります。

 話しは変わりますが、江戸時代の幕藩経済は三百年間を通して、収入は一定ですが、支出は時代と共に増加するしくみでありましたから、幕府、諸藩とも、時代が降ると共に、苦しくなりました。特に物事が、華美になった元禄以降は四苦八苦となってきました。そこで土井藩も江戸時代に、数回に渡り、財政改革を行っています。特に土井藩が、経済的に苦しくなったのは、実収入の多かった、肥前唐津より古河に再入封した、宝暦十三年(一七六三)頃からでした。

 そこで二年後の明和三年より、財政改革(御仕法替)が行なわれますが、その時に参謀になったのが、御用商人の河井十右衛門と古河弥兵衛であります。古河弥兵衛は、小野組に属した幕府の御用商人でもありまして、金銀為替御用聞の身分であって、江戸の有力商人であります。断定は出来ませんが、明治期の足尾銅山のオーナーであった、古河財閥の祖、古河市兵衛の先祖と思われる人物です。(市兵衛は養子)河井十右衛門は土井藩と数代に渡り関係のあった、蔵元(年貢米の出納商人)であります。彼は京都の商人です。

 だいたいにおいて、蔵元と云えば、大阪の、中之島にあった諸藩の蔵屋敷の御用商人が有名ですが、当然江戸へも藩米を廻送して、現金化しなければならなかったから、江戸にも蔵元が存在したはずです。これは近江の大津にても同様でしょう.大津の蔵元が河井十右衛門だった可能性が大です。そして江戸の蔵元が古河弥兵衛だったと思われます。日本橋小網町住。

 土井藩の大阪の御用商人としては、蔵元、掛屋(米を現銀化する役)とも堂島の升屋[4](山片)平右衛門が勤めております。ついでながら、名代(藩の蔵屋敷の仮所有者)は大島屋長兵衛、家守(留主番)は天満屋次郎兵衛、用達(諸雑用)はひわだ屋喜十郎が勤めております。(古河藩の蔵屋敷は天満の肴屋[5]町にあって坪数千二百坪。現大阪市北区南森町内。)

 升屋平右衛門家は大阪の商人として大変有名な家であります。豪商としてばかりでなく、文化人としても著名であります。特に二代目の重賢、四代目重芳は大阪の半官半民の大学であった懐徳堂[6]の門人で重芳に至っては、寛政十年発行の「蘭学者相撲見立番付」では全国蘭学者の前頭上位に名前が出される位の学者であります。

 この升屋の番頭を勤めたのが、大阪を代表する商人学者の山片蟠桃であります。本姓は長谷川氏ですが、升屋へ丁稚[7]奉公に入って、重賢に仕え、生まれつき知性と才智に富んだ彼は、山片家の好意によって、懐徳堂へ入門、かたわら升屋の番頭として、商才を発揮して、父を早くなくした重芳を助けて、仙台藩を始め、尾張、水戸、越前、古河などの数十藩を相手とする、大名貸に升屋を大成させています。この主家興隆の功によって、升屋より、一族のあつかいを受け、山片の姓を受けております。彼の主著「夢の代」は博覧強記にして、天文、地理歴史、制度、経済、神代、経綸等から成り、地動説、無神論を遺憾なく述べた、唯物論学書であります。現実生活と合理主義者として、大阪町人学者として全くの偉才の人傑であります。


参考文献 角川版「日本史辞典」

     御用達町人一覧


脚注

[1] ようたし

[2] しゃし

[3] みょうが

[4] ますや

[5] うおや

[6] かいとくどう

[7] でっち


投稿2016/4/5


No.28 宮内豊蔵と峯岸儀兵衛


 江戸時代の石工の話。田町・紺屋町・石町あたりの低地に舟が入って、石材を運び入れたという話も興味深いと思います。

 町の中心部に水路と舟着き場がある風景。

 かつての古河はまさに「水のまち」だったのでしょう。

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 雀神社の参道、二の鳥居の右側に御水屋があって、大きな手水鉢[1]が存在します.米俵の上に波のり龍がとり回いた図柄の大変に立派な石鉢です。これは、幕末の慶応二年に、二丁目の篠崎源六等が奉納した手洗いであります。

 古河の伝説によれば、この手洗いを真夜中に、七回半廻って耳を付ければ、ビーン、ビーンと糸をはじく音が聞こえるとのことです。

 この石鉢の作荷は宮内豊蔵です。彼は「古河の慢心[2]」と云われた石工でありました.慢心と云われる位ですから、うぬぼれの強い、名人気質の職人であったのでしょう。

 ところで古河の江戸期の石屋としては、石町の峯岸氏、船渡の根本氏、が存在しました。当然他にも石屋は有ったと思われますが、史料がなくて不明であります。

 現在古河歴史博物館に明治五年に制作したと思われる、戸籍屋敷絵図がありますが、この絵図を見てみますと、現在の紺屋町の坂を下った、つるかめ食堂さんの所に、宮内豊蔵の屋敷があり、一軒おいた川島理容店の所へ峯岸儀兵衛の屋敷があります。当絵図の番地で云えば石町六百八十と六百七十八番地です。

 当地所の様な坂下の所へ石屋があっては、運送に不便だと思われますが、江戸時代から明治初期には豊蔵の家側にはかなり広い堀川が流れており、この堀川は石町の穀屋へ品物を運ぶのに利用されていたそうです。元流は田町を経て、漉良瀬川の河岸まで通じていたと考えられます。当時古河で使われた石の多くは、伊豆産の物が多く(真鶴[3]地方で産する小松石が有名)江戸の深川の石問屋から舟運で古河まで取り寄せたものでしたから、この場所が積み変えなしで運べて、石屋には最適な場所であったと思われます。

 豊蔵がだれの弟子であったか伝わっていませんが、隣接からいって、峯岸氏の弟子であった可能性が大きいと思われます。

 峯岸氏がいつ頃から石屋であったか不明ですが、文政頃の地図を見ると当場所に「儀兵衛」と出て来ますので、当時より石屋であったと考えられます。

 市内ではありませんが、間々田町の間々田八幡の唐犬には、「文化十年古河石町石工弥兵衛」と刻されていて、これが峯岸氏の先代かと思われます.

 豊蔵の作品も今の所一点しか判明しませんが、弟子には江戸町の木村石材店の初代・木村伊之助氏が存在します。伊之助も名人でありまして、彼の作品はかなり現存しております。豊蔵・伊之助共、谷中村高砂[4]の出身で、その縁にて、伊之助は、豊蔵の弟子になった様です。

 豊蔵のその後は不明ですが、娘の一人は明治中期頃横山町に住んでいた事が戸籍によって判明しています。

 峯岸氏は八代に渡り、儀兵衛を襲名していますが、石屋の方は、六代儀兵衛吉正が明治の二十年代後半には廃業した模様です。この吉正は台町の増田氏より、婿養子に安政時代頃入ったらしく、明治二十二年に帝国憲法公布による、古河町町会議員選挙がありましたが、吉正は多額納税者としての一級議員に立候補して当選をしております。この時点では、下駄商として繁盛していたものと思われます。石屋より下駄屋に移ったのは、台町の実家増田氏の家業が下駄商であった為と考えられます。

 明治二十一年の二丁目共楽館大火の後には、前記石町の屋敷より、現在の同じ町内ながら、東日本銀行跡地の所へ移り、下駄商を手広く商なんでおりました。この儀兵衛吉正はこの時代、町の有力者として、かなり活躍をなしたらしく、色々な史料にその名があらわれております。

 町議儀兵衛吉正の子息吉周は、やはり儀兵衛を襲名しており、孫の八代儀兵衛は昭和五年頃まで同場所で下駄商を商んでおりました。

 この八代儀兵衛の夫人トクは、二丁目の魚商・亀清の前々代の夫人と姉妹でありまして、久喜の魚商である田口家より嫁した人で、その又姉妹が、原町の小池宗次氏の夫人であります。ただし儀兵衛の夫人になった方は、嫁して数年で死去してしまったそうです。

 峯岸氏は下駄商となってからも、先祖由来の「恵志屋」(いしや)と云う屋号を掲げていました。峯岸家の墓地は、市内の本成寺さんに存在しております。

追記・・吉正は明治35年4月71才没。子息の吉周は明治34年4月47才没。その子息儀兵衛は昭和4年5月36才没。妻トクは大正12年8月23才没。議員になった催兵衛は七代吉周かもしれません。


投稿2016/3/29


No.27 河鍋暁斉の先祖の墓(続)


 古河で生まれ、幕末から明治初期に活躍した画家・河鍋暁斉について。前回の続きです。

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 初歩的な史実ですが、暁斉の誕生地を市内石町五六七二番地と想定していますが、父記右衛門は以前に古河藩士河鍋喜大夫信正の養子入りしており、天保二年時には大久保富右衛門組下の足軽組に所属しておりますので、古河藩のどこかの組屋敷で誕生しているのが正確です。それから石町と書きますから、石屋さんが多く住んでいたと思われる人がいますが、石は穀のアテ字で石町には穀物(米が主流ですが)を扱った商店が多く存在していたのでした。

 毅屋の亀屋の子息が、古河藩の河鍋家、そして幕府の御家人としての同心の所へ養子に入ったのですが、当時同心株は暗黙のうちに、金銭で譲渡の対象となったもので、目安としては二百両位の値段であったと伝えられています。亀屋は記右衛門が、河鍋家及び甲斐家に養子入りに際して、多額の費用を要したと考えます。(当時の一両に対する現代価については、色々の評価がありますが、今昔の人件費を比べて実質三十万円位が妥当なものと考えます。)

 古河の妙光寺は日蓮宗であり、古河藩士の河鍋家は真言宗であります。

 甲斐記右衛門を初めとして、暁斉に関係する一族の墓は、ほとんどと云っていいぐらい日蓮宗寺院であります。これは偶然な事ではなく、記右衛門の実家が代々日蓮宗であった事が、大きく関係しているのではないでしょうか。記右衛門と云う人は、品行厳正な方であったようですが、大変に情けも厚かった孝行者で、その事は、徳星寺の河鍋家の為に田畑を永代供養として寄進している事。暁斉に河鍋氏を名乗らせている事・本人も含めて「信○」と河鍋家の「信正」「信一」の信の字を名乗っている事等で、理解出来ますが、実家に対しても、孝行であった様で、宗派の筋目を確実に守っております(ただし代々甲斐家が何宗であったかわからないので、断定は出来ませんが)

 和井田家の御子孫の事を妙光寺の御住職に御尋ねしましたら、横浜市に御住居の事がわかりましたので、御連絡を取りましたが、現在の御当主は四十五才の人で、父親が婿養子に入られたそうで、河鍋暁斉の事や、記右衛門の事は御承知ではありませんでした。ただ「先祖に画家が存在して、その人物は色々な地域を回って絵を書いた人物だそうです」と話が伝わっているそうです。

 妙光寺にはもう一軒、和井田を名乗る檀家がありますが、これは市内横山町に明治中期頃住んでいた「和井田ちか」と云う女性が汁粉屋を商なんでおりましたが(場所は著者の家のななめ前)その者の子孫の御家系だそうで、この人物も亀屋の親類だそうです。現在は飛騨の高山で、大きな工場を営んでいるそうです。

 妙光寺の歴代住職の墓群の中に基部に和井田氏と刻された墓があります。御住職によれば、当時は檀家の有力者が、住職の墓を寄進したそうですが、和井田家の墓誌の戒名のなかには賢持院日悟(注)大徳と云う人物が見えますので、一族のなかから、僧侶になった人物がいるようにも思われます。

 江戸時代は武家は寺の檀家総代にはなれなかったそうでありまして、御住職の御話しによれば、江戸末期の妙光寺の運営には、和井田家、同じく石町の稲葉家、横山町の榊[1]家等の協力が大きかったそうです。

 なお、和井田家の家紋は丸に井ゲタであります。

 同寺は日蓮聖人、直弟子の日胤が鎌倉末期に創建した寺院でありますが、同寺には徳川家康の側室で、御三家の紀州頼宣公、水戸頼房公の生母である養珠院於万の方の供養塔が存在します。これは当時、於万の方の菩提寺である、甲州本遠寺の住職が、妙光寺の住職と関係があり、於万の方の歯を妙光寺へ寄進して供養したものであるそうです.

 於万の方は有名な日蓮宗の強信者でありまして、江戸初期の日蓮宗は、多くの弾圧を幕府より受けましたが、於万の方の御助力で多くの寺院が救済されております。寺伝とは異なりますが、於万の方は本姓陰山氏であります。今日の千葉県の出身でありますが、当時の土井藩も陰山氏が存在しておりまして、同氏も千葉出身の武士でありました。最初は幕府の御家人であったそうですから、両者には何らかの関係があったのではないかと推定しております。養珠院の墓は古河では有名でありませんが、水戸地方では有名であり、見学者が時々御参りに、来寺されるとの御住職の御話しであります。

(注)日蓮宗で大徳と付く法名の僧侶は、不受不施派の僧侶がほとんどであったと伝へられる。

脚注

[1] さかき


投稿2016/3/26


No.26 河鍋暁斉(きょうさい)の先祖の墓発見 


 河鍋暁斉は古河で生まれ、幕末から明治初期に活躍した浮世絵師・日本画家です。風刺画等を得意とし、独特の画風が高く評価されています。

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 昭和五十八年度の古河郷土史研究会々報に、私は市内横山町徳星寺で発見した河鍋家の墓と暁斉の父、記右衛門(喜右衛門)の生家、石町の亀屋こと和井田家の事を発表しました。それから今日まで、和井田家の墓地は発見されておりませんでした。所が今年の八月になって、偶然にも市内東鷹匠町妙光寺の墓地で、和井田家の墓地を発見致しました.

 ここではその戒名のうちより主だった人物をあげてみます。

(1)是則院勇猛信士 寛政十二年六月

(2)善地院了達信士 享和三年十月

(3)実相院宗仙日演信士 文政三年二月 庄左衛門

(4)秋党院勝山日園信士 文政十年十月 富五郎

(5)賢持院日悟大徳 文政十年十二月

(6)蓮乗院明心日深信士 天保六年一月 庄左衛門

(7)敬道院喜門日唱信士 明治三年十一月 庄左衛門

(8)秋月院證心日朗信士 大正十五年十月庄三郎 六十三才

(9)深遠院妙相日浄信女 文政六年三月 サイ

(10)示教院妙浄日利信女 文政七年六月

 この戒名は当時の商人としては最上級の戒名であって、和井田家の富有ぶりがわかるものであります。

 ここで間題なのは、死去した年の年令が江戸期の者には刻字されていない事です。暁斉の父、記(喜)右衛門も何才にて死去したのか不明です。三代に渡り庄左衛門を襲名しておりますが、どの庄左衛門が記右衛門の実父なのでしょうか。

 ここからはあくまで推定ですが、記右衛門妻の「とよ」が明治五年(一八七二)に八十四才で死去しています。さすれば天明八年(一七八八)頃の生まれです。

 仮に記右衛門を三才歳上とすれば、彼を天明五年(一七八五)頃の出生と仮定します。彼は庄左衛門の次男とありますから、それに二十五才を加えれば、庄左衛門の出生は宝歴十年(一七六○)と云う時代が浮かんで来ます。実相院の庄左衛門が記右衛門の父だとすれば文政三年(一八二○)に死去していますので、六十才で死亡している推定です。記右衛門は三十五才です。

 暁斉出生の天保二年(一八三一)には記右衛門は四十六才になります。この年令から推定すれば、記右衛門が河鍋家へ夫婦養子入りしたのは中年になってからかもしれません。

 古河藩を辞したのは、天保二年九月七日で、天保三年には幕府定火消[1]同心になっておりまして、御茶の水の火消屋敷に住居し、甲斐記右衛門と名乗りました。6)蓮乗院の庄左衛門が記右衛門実兄だとすれば、天保六年死去は推定で五十才位の年令であります。(7)敬道院の庄左衛門は明治三年に死去していますが、この人は比較的若死にしたと思われます。それは、妙光寺に現存する日蓮上人六百年御遠忌の記念塔があります。塔の建立は明治三年ですが、建立者連名の名前には和井田庄三郎と出て来ます。庄三郎は墓誌によれば、大正十五年に六十三才で死去しておりますから、明治三年には七才の子供であったわけです。相続人が七才な訳ですから、その父は若年だったと思われます。

 ここで私の反省でありますが、前記会報で、私は和井田家は、記右衛門の江戸出府に伴って、一家が江戸へ出て、記右衛門同様、本郷へ移り住んだと推定しまして、江戸切絵図にある本郷の「甲斐庄喜右衛門」の住居を和井田庄左衛門と甲斐喜右衛門が同居した場所と述べましたが、これは誤りです。「甲斐庄喜右衛門」とは同所に居住していた、上級旗本の名前でありました。誠に浅学であると反省しています。

 岩崎亀次郎翁の記録(古河市史民俗編)によれば、明治初期までは同地へ居住していた様子ですが、いつ移住したのかの正確な事はわかりません。

 ただ古河市史近現代編にやはり岩崎翁が明治二十一年三月二十二日の共立座大火の史実を昭和二十四年に回想して記録しておられますが、現在の大木薬局に当たる場所に、「大和屋 植野源平 穀物(亀屋ノ跡)石町」と記されています。又同年、六月二十一日の石町火事の記録には、旧和井田家(亀屋の場所は青木伊助とありますから、亀屋は同じ石町地内ながら、店舗を明治初期から明治二十一年までには、現大木薬局の場所へ移店したものと推定出来ます。そして同年三月までには、他の場所へ移転した事が理解出来ます。亀屋は当主が若年の上、文久元年の未曾有の大火で古河の中心部が全焼して、当時の大店がかなり衰えていますので、この頃より亀屋の身代も衰えだしたと思われます。

 つづく

「(注)旧亀屋の場所は現在古河ソフトウェアーセンター

の所でありました」

脚注

[1] じょうびけし