コンテンツメニュー

史楽会概要

史楽会四方山話

ギャラリー

データベース

入会方法

お問い合わせ

サイトポリシー

かつて古河公方が拠り東都と謳われた古都・古河。
この歴史あふれる古河をもっともっと楽しんじゃおう!!という団体です。

f
古河史楽会
facebook

古河史逍遥(No.1〜No.25)

投稿2016/3/23


No.25 戸田三左衛門忠厚(ただあつ) 


 戊辰戦争の宇都宮城を巡る戦いでも活躍した宇都宮藩家老・戸田三左衛門忠厚。この人は古河藩・中村家からの養子でした。戸田家と中村家は親類だったと推定できます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 今回は直接、古河地区と関係はありませんが、古河出身者として、幕末、維新に活躍した人物を紹介したいと思います。

 宇都宮藩戸田家の幕末の家老に戸田三左衛門忠厚が存在します。彼は古河藩家老の中村茂右衛門永配の子息で、文政十一年(一八二八)に生まれています。後年宇都宮藩重臣戸田忠親の養子になっております。

 古河藩と同規模な七万七千八百五拾石の譜代大名の戸田宇都宮藩は、他藩と同じ様に、幕末期になると、

佐幕派と勤王派に別れて、藩政が混乱してきます。それら両派のなかにも、穏健改革派と過激改革派、が存在していますので、必然、多くの党派が派生して来ます。戸田三左衛門は家老(五百石)として同家老の問瀬和三郎(千石・後の戸田忠至[1]・高徳藩主一万石)・勘定奉行県信緝[2]らと共に穏健改革派として藩政を処理しようとしました。

 当時宇都宮藩の侍講には前藩主戸田忠温[3]と親交の深い、大橋訥菴[4]がおります。訥菴は兵学者として著名な清水赤城[5]の四男でありますが、後年江戸日本橋の呉服商の大橘淡雅[6]の養子となっています。淡雅は今日の小山市粟宮[7]出身で、宇都宮の豪商菊地家(佐野屋)の養子となりますが、商才を発揮して、江戸日本橋元浜町に出店[8]を出して、一代にして巨富をなしております。財なるや、渡辺華山をはじめ、当代一流の文人墨客と交遊をし、又自らも書筆に長じ、鑑定を能くしました。彼は菊地家の養子でありましたが、大橋姓を名乗り、その後嗣に「商人は不都合」として、訥菴を娘・巻子の婿としたのです。勿論、勤王家としても著名です。

 訥菴は高名な勤王思想を持った儒者でありまして、日本橋で「思誠塾」を開き、子弟を教育していますが、前述忠温の招きを受け、宇都宮藩と関係が深く、その影響は、同藩の過激派家臣を派生させる源流となっておりました。

 文久年間に起こった公武合体派は和宮の徳川家への降嫁を計ったのでありましたが、尊王の志のある者達は、これに反対するところでありまして、この政策の首班とされる老中安藤信正を襲撃計画をしました。この事件が有名な文久二年正月の坂下門事件でありますが、関係者の多くは宇都宮藩家臣であり、訥菴の門弟であります。訥菴本人は事件直前に捕えられ、宇都宮藩に預けられ、同年病死をしております。家臣等の多くも捕縛、投獄されております・

 この事件に際して三左衛門は以前より、彼等と親交があったので、これらの志士の庇護に努めております。しかし藩内の戸田光形に代表される、過激派に排撃を受け、文久三年には家老退隠を余儀なくされています。そのうえ元治元年、水戸筑波天狗党が宇都宮に来るや、反対にもこれと通謀の疑いを受けました。明治元年家老に再任、二年大参事、四年宇都宮県権典をもって退官。明治二十七年。六七才で死没しております。

 父の古河藩家臣、中村茂右衛門永配は二百二十石高の上士に属し、この中村家の初代は幕府の直臣の徒士[9]であったが、藩祖土井利勝に、家康より付けられた、最初期の家臣の一人であります。永配は藩の目付や、槍奉行等を歴任していますが、三左術門が生まれた文政十一年には勘定吟味役を勤めていて、住居は六軒町とあり、今日の中央町二丁目八番地に存在します。

 但し永配は中村家の養子で実父は松山氏と云い他藩の家臣であります。永配死没後の中村家は養父、茂右衛門永尚の実子である五十馬永類が継いでいますので、三左衛門は永配の実子ながら幼くして、宇都宮藩の戸田家に養子として出されたものと思われます。戸籍上では五十馬が兄で、三左衛門は弟となっております。

 中村家と戸田家の関係は不明でありますが、当時の武士階級は、血縁のない者とはほとんど、養父子関係が認められませんので、元々、親類であった可能性が大きいと思われます。

 なを大橋訥菴の養父の淡雅の出身地の小山市粟宮には、今でも大橋家は存継しておりまして、子孫の方が、御家を守っているそうです。この大橋家は代々、小山家の家臣と伝えられ、現代でも小山市間々田地区では、大橋を名乗る家はかなり多数あります。

参考文献 吉川弘文館「明治維新人名辞典」

      「古河藩家臣親類書」


脚注

[1] ただゆき

[2] あがたのぶつぐ

[3] よし

[4] としあん

[5] せきじょう

[6] たんが

[7] あわのみや

[8] でみせ

[9] かち


投稿2016/3/19


No.24 頼政神社の大絵馬


 市内の頼政神社は源頼政をお祀りしています。頼政は、治承4年(1180)、京都で平氏と戦って敗れ、家臣が首だけを持ち帰って、古河に葬ったと言い伝わります。

 今回は、頼政神社に残された大絵馬の作者を探っていきます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 市内の旧観音寺町の頼政神社に「源頼政鵺[1]退治図」の大絵馬があります.大きさは横一八○cm縦九○cmほどもあるものです.画題は「平家物語」からとったもので、仁平三年(一一五三)四月の近衛天皇の御世、夜な夜な御所の天空に宿り、天皇を悩ました鵺なる怪獣を、頼政が家来の猪[2]早太と共に紫辰殿[3]にて射落したと云う武勇伝を描いたもので、鵺の姿は頭が猿・胴は虎・尻尾は蛇・声はトラツグミの鳴き声と云う恐ろしいものです。(頼政は二度鵺退治をすると伝わる)

 この絵馬の絵はよほどの絵師が描いたと思われる作品ですが、残念ながら落款[4]が無いので、作者が不明であります。

 この図柄の絵馬は、京都の清水寺、東京の浅草寺にもみられますが、頼政神社の絵馬の構図は、浅草寺の大絵馬とほとんど同じであります.ただ筆法はやや異なり、頼政神社の絵の方が、輪郭[5]の線が太く描かれています。勿論当社の絵馬は無署名なので、作者は不明ですが、時代的にも幕末期の作品ではないと推定出来るもので、浅草寺大絵馬の作者、高嵩谷[6]と何らかの関係のあった絵師であろう事が、時代的にも推定出来ます。あるいは同人の作品かもしれません。勝手に考察すれば、頼政の子孫と称する松平伊豆守家(大河内家)は代々、頼政神社を保護、崇拝して、品々を献納しておりますが、当時伊豆守家の松平信明が、天明八年(一七八八)〜享和三年(一八〇三)まで、老中を勤めるような、権勢であったので、当時の代表的絵師の嵩谷に命じて、当社に献納したものと思われますがいかがなものでしょうか?

 ここで浅草寺の大絵馬について話がうつりますが、浅草寺本堂のなかに入ると、大絵馬がずらりと懸けてあります。いずれも江戸中期以降から明治初期にかけて活躍した、有名画家の傑作であります。歌川国芳の「一つ家」菊地容斉の「堀川夜討」柴田是真の「茨木」谷文暃の「白馬」などであり、古河出身の河鍋暁斉と関係のあった画家の作品が多くあります。暁斉自身も観音像を絵いた作品を、浅草寺に献じた事が史料より判明しており、その時代の一流画家は、浅草寺に献絵する事を誇りとしたと伝えられています。

 高嵩谷の「鵺退治」の絵馬は、浅草寺発行の「浅草寺の絵馬」では次のように説明しています.「天明七年(一七八七)技量円熟の頂に達した嵩谷が描いて、自ら奉納したもので、かつて国の重要美術品に指定されていた。画題は平家物語から取ったもので、源三位頼政が紫辰殿にて猪早太と共に怪獣鵺を射止めた武勇伝を描いたもので、彼の代表作といわれている。」

 高嵩谷は江戸中期の町絵師.名を一雄[7]。号を屠竜翁[8]といい、英[9]一蝶の門人である佐藤嵩之に学び、山水画を得意としました。文化元年(一八○四)八月二十五日、七十五才で没。墓は浅草蔵前の法林寺に存在します。

 同じく浅草寺には嵩谷の弟子の高嵩渓が享和三年(一八○三)に描いた「狸々舞」の大絵馬も奉納されています。

 以上、頼政神社の大絵馬について、考えられる事を書いてみましたが、前述のごとく、大絵馬は無署名なので、確定した作者名は不明であります。今後の研究を待ちたいと思います。

 末文になりますが、源頼政が宇治の平等院にて死去した後、家臣等によって古河の地へ、首を埋葬されたわけですが、理由については、第一に古河地方が頼政の領地であった事、第二には、下総国は、頼政の父の時代より国司として関係のあった土地である事が、あげられます。古河以東の茨城県西地区には頼政の子孫を名乗る家も多く、親鸞上人時代より歴代真宗の執事長をした下妻出身の下問[10]家も頼政の子孫を称しています。


脚注

[1] ぬえ

[2] いの

[3] ししんでん

[4] らっかん

[5] りんかく

[6] こうすうこく

[7] いつゆう

[8] とりゅうおう

[9] はなぶさ

[10] しもつま


投稿2016/3/15


No.23 「足利市の定年(じょうねん)寺」 


古河藩主だった土井利勝の家臣、大野定年が開基した足利・定年寺について。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 足利市助戸三丁目に虎嘯[1]山定年寺と云う曹洞宗の寺院があります。大きな寺院で、館林の正田家と親戚の木村浅七家を始めとして、足利市の著名な人物の菓が多数あります。

 ところでこの寺院の開基は、土井利勝の家臣の大野(大生)市左衛門定年[2]であります。定年は利勝の家臣で、「一尺の唐糸」で戦前の国定教科書にも載った、有名な家老、大野仁兵衛の弟と推定される人物です。史料を見ると大野仁兵衛・市左衛門の両名は、利勝の最初期の家臣、九名中に名前が載っておりますから、慶長五年の関ケ原の役後、利勝は千五百石の歩行頭[3]になりますが、それまでに家臣になったと推定出来ます。

 この大野家は常陸国鹿島郡大生[4]村(現大野村)の出身で、最初は大生を姓としていましたが、慶長五年以降、利勝と佐竹家との橋渡しに利勝が専用したので、佐竹義宣[5]から旧家臣筋として知遇を得て、大野の姓を賜わりました。その時、五本骨日の丸扇子の紋も下賜されています。この紋は佐竹家の先祖、清和天皇第六皇子貞純親王代より使用している紋で、佐竹家第一の重宝でありました。(一説に佐竹家と源頼朝家は先祖を同じくするので、双方共白旗の軍旗を使用していいたが、紛らわしいので、佐竹家に日の丸扇子紋を頼朝より下賜されたと伝えられる)

 足利領は天正十八年以降、関東の主となった徳川家康の家臣の領地になったが、特に足利市街区は古河の領主である、小笠原家以降、元禄二年(一六八九)の土井家鳥羽への所替えまで、古河藩が、大部分を領有しておりました。土井家領有は、寛永十年(一六三三)から元禄二年まででありますが、正保元年(一六四四)からは二代藩主利隆の弟の能登守利房が足利を分地され一万石の領主となつております。この領有は天和二年(一六八二)の越前大野への国替まで続きます。この時代に利房は足利学校を整備修復しております。

 寺伝によれば「定年は利房の家臣となって、助戸地区を政務管轄しました。彼は幼少より仏門に帰依し、心を禅道に傾けていましたので、下総の国総寧[6]寺の住職、光紹[7]和尚の弟子となり、それまで荒廃していた永明庵と云った曹洞宗の庵を建てなおし、自身が開基となり、光紹禅師を開山第一世として、自分の名である定年を取って、虎嘯山定年寺を創立した」とあります。総寧寺は現在は市川市に存在しますが、旧くは古河の隣の関宿にあつた寺で、北条氏政が天正三年(一五七五)近江国番場より移転した曹洞宗道幻派の寺院でした。寛文三年(一六六三)に市川へ再移されていますが、江戸期には曹洞宗関東三ケ寺の筆頭[8]で、末寺四〇〇ケ寺を抱える大寺院であります。

 定年寺は承応年間(一六五二〜一六五五)の開基とありますから、定年は寺が関宿にあつた頃に、光紹禅師に帰依したものといえます。

 寺伝はともかく、定年は当時土井藩で四百石を知行していた上士であり、寛永十八年には増上寺安国殿建設の大奉行役を勤め、落成後、幕府より銀二十枚、時服二枚を下賜されています。定年がいつ能登守利房の家臣になったかは不明でありますが、正保四年の利隆時代の分限帳には名前が載っており、本家に所属していた事は確実です。延宝三年(一六七五)の五代利益の本家再興時には、多くの重臣が暇[9]を取りました。この時、初代大野仁兵衛(利隆を諌めて切腹)の子息や孫が退藩をしておりますが、定年や子息と推定出来る人物の名前は記録されておりません。後年の利益分限帳にも、該当する人物は出て来ません。延宝三年時には定年本人は死去していたと思われますが、以前に能登守利房の家臣となって、子息は越前大野へ移った可能性もあります。今後研究したいと思います。

 定年寺の寺紋は現在はただの五本骨の扇子ですが、寺に残る古瓦[10]は日の丸扇子紋を使用しております。私は旧にもどして日の丸一扇子紋を使用した方が、歴史的で良いと思いました。

 定年寺のある足利市助戸地区は元禄二年まで一貫して古河藩領でありますが、その他の足利領は、他大名領・旗本領・天領が入りくんで領有し、複雑であります。足利地区の寺院はほとんど山丘部にありますので、風景が良く、定年寺を始めとして、足利氏、長尾氏関係の寺院が多数ありますので、古河市民の皆様も一度、御見学ください。


参考文献 「定年寺縁起」「足利市史」

脚注

[1] こしょう

[2] さだとし

[3] かちがしら

[4] おおの

[5] よしのぶ

[6] そうねい

[7] こうしょう

[8] ふでがしら

[9] ひま

[10] かわら


投稿2016/3/7


No.22 土井利益(とします)と本庄


古河藩主・土井利益について。

そして東京の本所は昔、本庄と呼ばれ、利益はここに屋敷を拝領していました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 古河土井藩五代日の藩主に利益と云う殿様がおります。利益は土井家二代目の利隆の次男として慶安三年(一六五〇)に古河の鴻巣で誕生しております。母親は本姓中川氏と云い、京都の公家の娘でした。母親は慶安五年に二十二才の若さで没して、法清院殿とおくり名をされて、市内の本成寺に墓が存在しています。利益は幼名を小左衛門と名乗っていますが、この名は祖々父、利昌と仮名[1]と同じであります。

 万治元年(一六五八)九月に父利隆が隠居して、長男の利重が家督するに際して、利益も一万石の下妻市 辺の領地を分地されて、大名になりました。この時九才であります。所で利隆の正室は当時智恵伊豆と呼ばれている、松平伊豆守信綱の娘でした。この婦人は子供がなかつたので常日頃大層利発だった利益を可愛がり、利隆隠居の際には兄の利重を越えて、利益に家督させる事を強く主張したのであります。勿論父親が幕府の老中職にありましたので、柳営も利益の線で決定をしていたのですが、江戸家老蒲田[2]七兵衛が死を決しての行動をもって、伊豆守娘を離縁させ、さらに伊豆守と差しちがえる決意で対応をしたので、長男の利重に家督が認められたのでした。(異説もある)

 利益が一万石の大名となった時点で幕府より江戸本庄の地へ上屋敷を賜わったようであります。ですから利益の事を記録では本庄様と書いています。本庄は現在では本所と云っておりますが、古名は本庄でありました。本庄が本所になつた理由は、五代将軍綱吉の生母、即ち桂昌院の本姓が本庄氏であつたので「庄」の字を憚かって「所」に替えたと伝えられています。利益は生来元気者でしたので、若い頃には当時流行していた男伊達をまねして、盛んに夜行などをした為、江戸の俚謡[3]に「夜中歩行[4]は犬かそれとも盗人か、さては本所の土井周防[5]」とうたわれました。利益は寛文二年(一六六二)に周防守に叙任されていたのです。

 さてこの本所の屋敷の場所ですが、正確には不明です。ただ利益が本家相続後の元禄十五年(一七〇二)頃の地図を見ると、現在の江東区森下に存在します。(当時は南本所深川六問堀町。坪数は約三五〇〇坪位です。相続後は土井家下屋敷であろう)。

 所で不思議な事には、寛文六年出版の江戸図を見ると同場所は土井修理屋敷と出ています。修理とは利益

の弟で、利珍[6]と比定出来ます。寛政諸家譜を見ると利珍は土井家より分家したとは書かれておりません。当時江戸に武家屋敷を持つと云う事は幕府の直臣になったと云う事で、陪臣では不可能なはずです。土井家は三代利重が延宝元年(一六七三)二十二才の若さで死去しました。この時も又藩論が色々とおこりましたが、結果は四男の利久が養子分となって跡を継ぎました。所が二年後の延宝三年間四月二十九日に十才でこれ又死没してしまうのです。嗣なきは御家断絶は、幕府の法ですので、この時、古河藩は一時十万石の領地を没収されるのですが、一ヶ月後に、祖父利勝の大功が認められて、新知として利益に七万石を賜わり、旧のごとく古河城主となる事が出来ました。この事はこの頃大老職が酒井忠清で、それに近い利益の叔父、土井利房の力が大きかったと伝わっております。

 土井修理利珍は実は利益の次弟であり、四代利久より十才年長の兄であり、妻は城代土井内蔵充政朝の娘でありますが、利久家督の時には何故か最初から線からはずされています。利珍は利益相続の時点では数ヶ月前に死去しており問題はありませんでした。

 筆者は寡聞[7]にして利益の本家相続前の本所の屋敷の場所はわかりませんが、何にしても推定場所に、土井修理と地図に出ている事の理由はわかりません。寛政重修諸家譜には出て来ませんが、利珍は、一応、分家して幕府の旗本になったのだと推定をしております。

 なお、元禄十五年十二月の赤穂義士による本所松坂(注)吉良屋敷への討入りの時は、土井家屋敷と吉良屋敷は目と鼻の位置にあたるので、大変驚いた事と思われますが、この事件に対しては古河に史料がなく、判明しません。


(注)元禄十五年時点では松坂町の名称はまだありません。

脚注

[1] けみょう

[2] かまた

[3] りよう

[4] あるく

[5] すおう

[6] としよし

[7] かぶん


投稿2016/3/3


No.21 田中正造翁と勝海舟翁


勝海舟と田中正造とは意外な組み合わせですね。

しかし、勝海舟は鉱毒事件に心を痛め、田中正造を高く評価していたそうです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 田中正造と勝海舟、それぞれの行跡や経歴については、多くの研究者がいて、検索がつくされています。両人の間には歴史上一回の面談もなかった事は事実のようであります。ところで岩波文庫のなかに「海舟座談」と云う本があり、かなり有名な本でありますので、多くの愛読者があり、今さら私が書き述べることでもありませんが、両者の間には、実に心のかよった友情があった事が理解出来ます。勿論一般的な友情と云うものではなくて、「人物はよく人物を知る」と云うベき、間柄であったとおもわれます。

 鉱毒問題と云われるものは、そもそも慶長十五年(一六一〇)に江戸幕府の手によって開発された足尾銅山(大久保長安が開発に関係すると云われる)が維新後、新政府に接収され、その後民間に売却され、持主を何度も変えた後(古河町の豪商、丸山定之助氏も一時経営に参画した)明治十年に古河[1]市兵衛の手に移り、古河がその後、新技術、新経営方法を導入し、特に明治十四、五年に新鉱脈が発見されて、飛躍的な発展をみせ、明治二十年代初頭には、富国強兵の国策にも乗って莫大な量の産銅をなしたのであります。この時期から鉱毒問題も又顕在化して来るのであります。

 明治二十三年頃より鉱毒の調査が始まり、明治二十五年よりは、古河[1]と被害農民との間に損害補償の示談を国側は結ばせようとしたが、二十九年の渡良瀬川大洪水により、被害は一段と拡大し、三十年三月には被害民二千人が館林・佐野・古河の警察の制上を振り切り、そのうちの八百名が上京、榎本農商務大臣に、泣いて被害を訴えています。その後も三十三年の川俣事件と呼ばれる大押出し、三十四年の田中正造による明治天皇への直訴等がありました。

 その後は被害地の遊水池化が計られ、鉱毒問題の焦点は谷中村に移り、明治三十七年の谷中村買収決議、四十年の強制撤収。そして大正二年九月の正造翁の死去となって行くのでした。明治三十七、八年の日露戦争は鉱毒問題を世人の耳目より遠ざけ、谷中村の強制撤収により、明治期最大の社会問題といわれた「足尾鉱毒事件」はここに一応の終局を迎えるのでした。

 この間、政府側でも「足尾鉱毒調査委員会」を設置したり、被害民に対して、免租等の対策を実施しましたが、富国強兵政策(特に戦争の為の軍備増強には銅は必需品であった)の為にはかばかしい解決の進展は望まれません。特に時の大官であった、陸奥宗光の子息が古河市兵衛の養子に入つた事もあり、その方面よりも政府に対して横車が入ったり、金が流れたりして、対策が進まなかったようです。

 勝海舟はこの時期、特に陸奥や榎本武揚等の鉱毒問題関係者が、自分の弟子筋にあたるので、「民衆に害をあたえず、民心を安定する事が、政治の要である」と強く、叱責を加えております。これは他の大官である、品川弥二郎・曽根荒助等にも同じでありました。時の首相である伊藤博文にも鉱毒反対の意見書を提出しており、明治二十八年には、わざわざ日光へ出かけて行って、被害状況を観察してもおります。平素他人をめつたに誉めない海舟が、田中に対しては「大丈夫の男で、善人なり」と評価しております。

 この視察の時の歌が「かきにごし、かきにごしなば、真清水の、末くむ人の、いかにうからむ。」

 海舟の評価については世上、色々と云われていますが、世の流れを、巨視的に、冷静に分析出来る人物としては、超一流の人物であり、むしろ先が見えすぎる点が、政治家として欠点の者であったのではないでしょうか。

 海舟は明治三十二年一月に七十七才の天寿を全うしておりますが、田中正造は三十五年に、海舟関係の出版発刊の時に一文を送り、永年の厚情に対して、感謝の念を顕し、海舟翁を「智徳の臣、真の大忠」と評し、その公明正大。減私奉公、先見卓識、を誉めたたえております。このように、「大丈夫の志士、は大丈夫のみが識る」と云う評価を、両雄は互いに持っていたのでした。

 蛇足ながら私の妻の曽祖父である勅使河原力三郎は明治十五年七月まで、梁田郡選出の県会議員でありましたので、一時期田中翁と活動を一所したそうです。田中翁は維新前の六角騒動でも有名でしたので、以前より勝翁は正造の活躍を注目していたのでありましょう。


参考文献 「海舟座談」「古河市史・近現代編」


脚注

[1] ふるかわ


投稿2016/2/24


No.20 春王・安王君と金蓮寺(こんれんじ)


春王丸と安王丸は初代古河公方・足利成氏の兄です。

おさらいすると、室町時代、第四代鎌倉公方・足利持氏は、京都の将軍・足利義教と対立し、永享の乱で敗死。

争いは持氏の子、春王(丸)と安王(丸)にも引き継がれます。しかし、結城合戦で再び敗れ、両幼君は捕えられて、斬首されました。

その後、京と鎌倉(東国)の新たな時代を拓くことを期待された足利成氏が、第五代鎌倉公方に。

しかし京・鎌倉対立という歴史の流れには逆らえず、やがて鎌倉から古河に移座し、成氏自身も京都の将軍と対立することになります。

今日の話題は、春王丸・安王丸と両幼君のお墓がある金蓮寺について。古河公方前史に関連します。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 皆様御承知の通り、古河公方成氏[1]の兄に春王丸、安王丸の両君がおりました。兄君達は永享の乱(一四三九)で父、持氏自刃後、結城氏朝[2]等に援助され結城城に立籠り、幕府の大軍との間に壮烈な合戦を一年間にも渡り、くりひろげました。これが史上有名な結城合戦でありますが、終には衆寡敵せず落城し、両君は幕府軍に捕らえられてしまいました。二人の身柄はすぐに、将軍義教[3]の命により京都に送られる事になりましたが、その途中岐阜県垂井[4]町の時宗「金蓮寺」に着いた時に、再び義教の命により斬首され、首だけが京都に送られたのでした。この時刻は結城落城後、一ケ月後の嘉吉[5]元年五月十六日でありました(一四四一)。春王は十三才。安王は十一才と伝えられています。この間の消息については「結城合戦記」等に、詳細に書かれておりますので、参照ください。

 私は一昨年、この金蓮寺を尋ねて行ってきました。東海道本線で大垣駅を過ぎますと次の駅が垂井です。古代・中世の垂井は美濃国の国府が置かれた重要な場所でありましたが、今日の垂井宿は田舎風な落着いた町であります。駅から五十m位の場所に「春王丸、安王丸処刑地」の碑が建っています。当時はこの場所も金蓮寺の境内だったそうです。その所から二百m位離れた所に、金蓮寺は在ります。突然の訪問なので御住職は不在でありましたが、奥様の御案内で本堂に揚がる事が出来ました。御本尊の右側に一間があって、当時の守護職土岐氏のキキョウ紋の幕がまず目に付きました。幕前に大きな位牌があります。これは持氏公のものであります。この位牌の後に、一段高い棚檀があって、そこに二つの厨子が置かれてあります。この厨子の内は春王、安王君の童形[6]の木造座像であります。この像は垂井町の文化財に指定されているもので、製作年代は殺害時にあまり遠くない時期と推定されていて、写実的な立派な御像でありました。印象的なのは像の前に置かれている一つの「箸箱」です。これは春王が当時使用した物と書かれ、中身の箸も存在しております。日常品などは、紛失しやすい物ですから、五百五十年前の箸などは貴重な品物です。

 画像の前にて焼香をすませ、本堂を降り、境内に立ちますと、そこに両君の供養墓がありました。関西方面では両墓制が普通ですので、本当の葬所は寺よりさらに四百m位離れた、国道二一号線を渡った場所にありました。こちらの宝キョウ印塔型の墓も県の指定文化財であって、当時の立派な建造物であります。こちらの墓所の前には垂井町で建てた四m位の大きな案内塔が立ててあります。この墓所からは、伊勢湾台風の時に、墓地に植えられていた、松の大木が倒れ、その根元から唐渡りの青磁の骨壺が出上しております。現在では本堂内に保管されていますが、若君達の遺骨壺ではなかろうかと推定されるそうです。中身の骨は無かったそうですが、壺底に穴が明いていた為でしょうか。

 奥様に御聞きしましたが、両君の御供養には、ほとんど関係者はおみえにならないとの事ですが、当地に住んでいる両君殺害に関係した、土岐氏の家臣の子孫の人達が、今でも厚く御供養、追善をなされているとの事で、私は大変に感謝感激をしました。殺害に加担したと云っても、将軍義教の命令ですので、自分の責任ではありませんが、鬼をも恐がらせる、当時の美濃源氏の武士[7]にも、幼き両君の斬首には、心に大きな衝撃と悲しみがあった事が、今にも伝わって来る思いであります。

 古河公方の末裔である故足利惇氏[8]氏は流石に一番の関係者でありましたので、京都大学教授時代には数回に渡って、旧家臣の人達と来寺して、厚き御供養をなされていた事を聞き、何か安堵した思いにもなりました。

 古河市民の方々も機会がありましたら、古河と関係の深い、春王、安王両君の菩提寺、金蓮寺に一回足を向け下されて御供養下されば、幸甚であります。便も良し。


辞世の歌

 夏草や青野が原に咲く花の、身の行くえこそ聞かまほしけれ(春王丸)

 身の行くえ定めなければ旅の空、命も今日に限ると思えば(安王丸)


参考文献 「結城合戦記」「鎌倉大草紙」

脚注

[1] しげうじ

[2] うじとも

[3] よしのり

[4] たるい

[5] かきつ

[6] どうぎょう

[7] もののふ

[8] あつうじ


投稿2016/2/20


No.19 松下左門(さもん)と古河


 伊藤巌氏の『古河史逍遥』を半定期的に紹介してから、2ヵ月になります。伊藤氏は古河市内在住の郷土史研究者で、飲食店経営のかたわら、多くのトピックスを発掘してきました。

 そして、20数年ほど前に発刊されていた「古河新聞」の連載「古河の歴史寸見」として発表。このときの記事50編を中心に、一冊の本にまとめたのが『古河史逍遥』です。

 史楽会では、著者ご本人の許可を得て、気軽に楽しめるように、ネット上で紹介しています。まだ今後も続きますが、ぜひおつきあいください。

 まちの歴史を掘り起こすときに、参考になるお話がたくさんあります。

さて、前置きが長くなりましたが、今回の話題は、江戸時代の古河藩主・土井利勝家臣の松下左門。初めて名前を聞くような人物にも、光を当てて行きます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 古河藩主土井利勝の家臣に松下左門と云う人物がおりました。千石高の上士で組頭(現在の大隊長)を勤めています。左門の旧姓は花井氏でありました。花井氏は唐人八官と云う者の子息で、初代は花井庄九郎で謡鼓に達し、猿楽の役者でありましたが、父八官が家康の知遇を得ていた関係もあって(現在銀座八丁目に八官神社があるが、八官が拝領した町内にある。江戸時代は八官町)家康に小姓として召出され、段々立身して、その後家康子息の越後高田六十一万石(七十五万石とも)松平忠輝に附られ、花井遠江守を称して糸魚川の城主三万石になっております。この遠江守には家康の寵愛の側室茶阿の局(松平忠輝の母堂)の娘の於八が嫁いでおりますので、花井と忠輝は義兄弟でもあります。この夫妻の子供が花井主水[1]義雄でありますが、高田藩は元和元年(一六一五) の大阪夏の陣に際しての忠輝の軍事失敗等により領地没収になっております。この時主水も家臣団の内部紛糾等を咎められ、松平丹波守康長にあずけられ、元和二年六月に常陸国笠間において切腹を命ぜられています。

 この事件は忠輝の失政でもありましたが、むしろ幕府としては忠輝の室五六八[2]姫の父、伊達政宗の権謀術数を恐れた事が最大の原因だと云われています。(裏で糸を引く)

 主水の弟が左門でありますが、此時佐倉藩主土井利勝へ預けられましたが、その後許されて家臣となり、花井氏を改め、松下左門義賢と改名しております。(高田時代は松平の姓を賜わり、左衛門義賢。一万石)

 ところで左門の妻は今テレビ放映で有名な五代将軍綱吉の生母桂昌院の姉であります。桂昌院の弟が本荘因幡守宗資で五万石の大名になっておりますが、京都に居て商人であった彼は左門の紹介により館林時代の綱吉に仕えた事が、そもそも出世の糸口になっております。

 左門は土井家にその後も仕えており、古河で死去したものと思われます。五代藩主利益[3]の時代には子息の左兵衛(一時左門も名乗る)が六百石の組頭を勤めておりましたが、訳あって天和二年(一六八二)暇を取り、本荘因幡守の口ききで加賀藩へ勤仕しました。二百人扶持をもらい、改名して主水を名乗っています。その子を内匠[4]と云いますが、不行跡の為、老中より内意があり、因幡守が、主水、内匠共に密かに殺害をしてしまいました。

 主水の次男は後に、古河藩主になる家系の本多中務大輔政長の家臣、大屋小隼人に養子に入り、大屋左膳頼季となり、八百石の組頭になっております。

 左門の娘、即ち桂昌院の姪は、烏丸[5]大納言光広卿の次男広賢に嫁ぎ、その子息の六角越前守広治は後に高家二千石になっています。

 本荘宗資の子息が資俊で二万石加増の上、浜松城主となり、後に松平の姓を賜わり、松平豊後守資俊がその人であります。資俊の弟には富田主膳知儀[6]の養子になった甲斐守知忠がおりますが、知儀の父は信濃守信高といい、かって十二万石の大名でした。この信高の弟が、佐野の領主、佐野修理大夫信吉(正綱とも云う)で佐野家が改易後、信州松本城主、小笠原秀政に預けられ、その地で死去し、墓は松本の正麟寺に存在します。正麟寺は秀政祖父長時の法名で、古河の正麟寺と同名であります。正綱の子の佐野喜兵衛勝昌[7]も妻が桂昌院の姉なので後年、家を再興し三千石。佐野家一門が栄えております。富田信高妹は於六と称し、美婦人であったので、家康が晩年の側室としましたが、家康死去の後、古河の足利義親[8]の継室となり、これが養儀院であります。(一説には於六は旗本黒田五左衛門直陣[9]の娘とある)

 古河とは直接関係ありませんが、茶阿の局は山田四郎八之氏[10](八右衛門吉長とも云う)の娘と伝え、この山田家も局の関係で、兄の吉辰[11]が、松平忠輝の家老になって、二万千三百石の村松城主となっておりますが、主家没落の責任を取って切腹をしております。その子孫は幕府御用を拝命して、試し切りの山田浅右衛門家となり、代々、江戸城近くの平河町に住んだ名士であります。(幕末の古河藩預かり水戸降人を、首打ったのは山田浅右衛門源蔵吉豊と伝わる。) 以上が松下左門と古河地方との関係であります。


参考文献 「寛政重修譜家譜」「徳川夫人伝」

「本多一奮家臣略系図


脚注

[1] もんど

[2] いろは

[3] とします

[4] たくみ

[5] からすまる

[6] とものり

[7] かつまさ

[8] よしちか

[9] なおはる

[10] ゆきうじ

[11] よしたつ


投稿2016/2/15


No.18 「加賀見山旧錦絵」


歌舞伎で有名な「加賀見山旧錦絵」のもとになった史実について。

古河藩主・松平康福と少し関係あるようです。

古河藩主は土井家が有名ですが、松平康福も宝暦9年(1759)からの3年間、古河の藩主でした。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 歌舞伎の狂言に、有名な「加賀見山旧錦絵」と云う出しものがあります。芝居の荒筋は鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮に足利家の横領に加担する局[1]老女″岩藤″が代参、その密書を拾った中老″尾上″が岩藤に草履で打たれ、書き置きを残して自害し、その部屋子″お初″が仇討をすると云う内容に、加賀騒動が混入していると云うものであります。

 実話は享保九年(一七二四)四月三日に、石州浜田五万千石、松平周防守康豊の江戸虎の門屋敷(今の港区麻布台三丁日、ロシア大使館の所)で起った事件で、局″沢野″が藩主側室″みち″に草履をはき違えられたのを怒り、侮辱を与えた。″みち″はこれを恥じて自害、″みち″の召使″さつ″ は″沢野″を討って主人の恨みを晴らしたと云うものであります。

 この狂言の初演は90年後の天明三年京橋木挽町森田座で、稀有な大当りを取ったそうですが、その後芝居と云へば、新春は「曽我」年末は「忠臣蔵」三月は「加賀見山」と定まった感がありました。三月にこの狂言を出したのは、当時の御殿女中の宿下りが三月にきまっていて、彼女等がこの芝居見物を楽しみにしていたからだそうです。

 さて事件は前述の通りでありますが、この背景には、康豊の先代康員[2]が病弱の上に、子がなかったのでその座をめぐって、分家どうしの松平主計頭康納[3]と松平金七郎康郷[4]の二派が激しく対立し、康郷の長男であった康豊が、宝永6年9月(一七〇九)に藩主となり、康員は22歳で隠居し、康豊が反対派家臣を弾圧したと云う藩政に、享保の大凶作で農民一揆が起った事が加わり、全藩を巻きこんだ、お家騒動があったのです。

 この事件は享保9年に起こったものでありますから、古河とは直接関係はありませんが、後に古河藩主となる康豊の長男康福は享保4年には誕生しておりますので、事件に全く無関係ではありません。烈女″さつ″はその後同藩に中老として抱えられ、同家用人の神尾氏(三百石取り)と結婚をしております。康福は宝暦9年(一七五九)には浜田より古河へ国替で移っておりますので、″さつ″も古河藩の関係者になったわけです。

 康福は古河に三年十一ケ月の統治で三河岡崎へ移り、間もなく老中に就任しています。娘の一人は田沼意次の子息の山城守意知の正室になっており、幕政に重きをなして、俗に云う田沼時代を代表する政治家でありました。田沼時代と云えば、以前は賄賂横行ばかりが注目されていましたが、今日では、幕府財政改革の諸策を取り入れた政治として、評価が高くなって来ています。

 同家はその後、再び浜田へ移り、それから棚倉―宇都官―川越と移封して明治を迎えております。この松平家は清和源氏の為義の子、松井冠者惟義の後裔と伝へ、松井を称していましたが、家康に仕えた康親が戦功によつて松平の姓を許され、それより一般に松井松平家と呼ばれています。康親子息の康重は実は、神君家康の庶子でありまして(注)、公式な記録では母は松平次郎右衛門重吉の娘となっておりますが、実は家康の侍女、加茂氏の娘で妊娠二ヶ月にて、家康正室の築山御前を憚って、永禄11年(一五六八) に康親に賜わっております。この関係はちょうど家康と土井利勝との関係と同じでありますから、康重は天正元年生れの利勝の庶兄となるわけです。そもそも家康の先祖は加茂氏の出身であると云うのが、史実の様であるそうですが、加茂氏の娘が一旦松平次郎右衛門重吉の養女になってから、康親に賜ったとも推定出来ます。康親とこの女性との間の子息。すなわち康重の同母弟は、忠喬[5]と云って、その後家臣に降り、この家系は本姓の松井を名乗って、代々家老職を勤めておりますから、これ又、利勝と弟の城代内蔵允元政との関係と同じであります。何はともあれ、″英雄色を好む″の例え通り、家康ほどの人物になると、認知しなかった庶子も数多くあったのではないでしょうか。


(注)埼玉県騎西町大英寺記録。寛政重修諸家譜。


参考文献 「武江年表」「三田村鳶魚全集」


脚注

[1] つぼね

[2] かず

[3] やす

[4] さと

[5] たか


投稿2016/2/9


No.17 某(義昌)官途状


かつての古河公方家臣・福田家に残る「義昌」官途状について。

十王町(現在の日立市)の小野崎義昌が与えたものと比定されていますが、実は、足利氏の一族、足利市小俣の渋川氏ではないかと問いかけます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 歴史学の用語として官途状[1]と云われる文書があります。もともとは朝廷より、ある個人に与えられた特定の地位の官職につく事の辞令文書であります。時代が降りまして南北朝以降になると、正式に朝廷より与えられたものの他に、有力な武将達が僣上にこの官途状を部下や関係者に恩賞として与えております。ですから名目だけの辞令書です。

 古河市の指定文化財に市内福田家に伝来する官途状が存在します。福田家は先祖を古河公方家臣とした家柄です。

 相守普代之筋

 神妙仁走廻之条

 官途被下置也

 天正十年(一二年とも読める)

 七月廿[2]八日義昌(花押)

  福田民部少輔殿

 意味は義昌なる人物が福田氏の代々に渡る忠功を賞して民部少輔の官職を与えると云う内容です。

 今日までこの義昌を時代や地域性から、佐竹氏の一族の小野崎義昌[3](茨城県十王町山尾城主)であろうと比定してきました。当然当時古河公方義氏の家臣であった福田氏が、公方と敵対する佐竹氏の一族の義昌とも主従関係を結んでいた事には、疑間があるので、文化財指定にあたっては、某(義昌)として、小野崎義昌とは断定はしておらず、解説文にも検討をしたいと結んでいます。

 ところで足利市の小俣[4]に戦国時代の末頃、渋川(渋河)氏と云う小大名が存在していました。そして小俣御所と呼ばれてもいました。一般には渋川氏は足利尊氏の先祖の泰[5]氏より派生した足利一族で、足利の坂倉に住した、渋川義顕[6]を初代とし、その家系からは尊氏子息の義詮の妻になった女子や、九州探題になった数名の人物を出したりした、足利一族の有力者です。

 関東地方では、古河公方成氏に対抗して、関東を治めるべく京都より将軍義政の弟の政知が下ったが、その補佐役として渋川義鏡[7]が埼玉県蕨市へ入り、蕨御所と云われる関東探題に任ぜられたとされています。長禄元年(一四五七)。

 永禄・天正(一五五八〜一五九二)時代に、小俣城主として存在した渋川氏は、以上の義鏡の嫡流とは別系らしく、私の研究では太田市近辺の城主であった、岩松氏(後に横瀬氏に代る)に属していたらしい渋川氏が元もとの本領であった小俣地方に、永禄初年頃、入部したものと思われます。永禄九年の関東幕注文と云う文書では、「小俣 ミのしろ」と出ていますが、ミのしろとは二引両の紋と推定出来ます。

 小俣の渋川氏は史料より、義昌・義勝の存在が判明しております。渋川氏が建造した小俣鶏足寺の本尊釈迦如来像の背銘には「大檀那源義昌並御閨[8]、殊者義勝為子孫繁昌武運長久也(下略)」とあり、記年は天正十二年八月二十二日となっています。

 一方古河の最後の公方義氏は天正十年十二月に死去しております。以上の点より結論として云えば、福田家文書の年紀を天正十二年(千葉大学佐藤博信氏説)と読むとすれば、義氏死去後、代々にわたる臣従を賞して、官途状を出せる人物としては、大田道灌が渋川氏を「成氏一族」と云っているように公方一族である、小俣御所渋川義昌が時代、地域性、共に最も適当な人物であると考えます。なお又当時、福田氏は渋川氏による鶏足寺本尊建造・寺院修復に何らかの寄進等をしたのではないだろうか。

 渋川氏については発給文書もなく末詳な点が多く、今後とも研究したいと思いますが、天正十二年の時期には当時の古河公方家と同じく、小田原北条氏側に立っていました。


ミのしろ紋

 白地が三ヶ所あるので ミの白


(注) 福田家は一面商人的行動をした家で、河川流通として古河・小俣は渡良瀬川で結ばれている。


参考文献 「太田市史」「足利市史」


脚注

[1] かんとじょう

[2] 原文は"廿"の画のうち下の横線がない

[3] よしまさ

[4] おまた

[5] やす

[6] あき

[7] よしかね

[8] ねや


投稿2016/2/4


No.16 古河出身の人間国宝 


近藤 乾三(明治23年生)、能楽師、宝生流シテ方の父は古河藩士でした。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 能楽の人間国宝(重要無形文化財個人指定)になった人で近藤乾三[1]と言う先生がおりました。先生は明治23年11月に近藤良之助敦吉[2]の次男として生まれ、六歳の時から父親について謡曲を学び、十歳にて初舞

台。その年の明治33年、宝生流の家元で名人と云われる、先々代の宝生九郎に入門しております。その後家元のもとで研鑽を積み、若くしてすでに頭角を顕わし、重要な役柄を次々と演じております。

 芸風は誠に重厚にして高格、昭和の名人と称えられております。昭和41年には、宝生流能楽のシテ方として、人間国宝に指定されました。同門としては先代家元の宝生九郎。松本長[3]。野口兼資。桐谷政治等の人達が存在し、切磋琢磨しあって、宝生流の黄金期を画しておりました。

 先生は古河の生まれでなく東京下谷区南稲荷町(現台東区東上野二丁目〜五丁目)で誕生しました。父は古河藩士で、古河町新町に戸籍は存在しております。近藤家は代々、江戸詰めの家系でありましたから、維新以前は父も日比谷の上屋敷に住んでいました。維新後一時期は新町に新しく建てられた、江戸引き上げ家臣達のための家屋に住んだ事もあったようです。戸籍が古河にあつた関係から乾三師は徴兵検査は古河で受けております。

 近藤家初代は治兵衛政勝と言い、古河五代藩主、土井利益の時代に御徒士として抱えられております。先生の祖父は孫四郎敦禮[4]で、最初拾石(注)五人扶持の身分でした。その後目付、御用人兼御留守居等を勤め、弐百五十石高に昇進しております。明治3年には、東京在住家臣団の責任者(大属)になつており、死去するまで旧古河藩の原屋敷のあった駒込曙町[5]の隣の肴町に住んでおりました。

 旧藩主利与[6]子爵から厚い信頼を受けていた様子でした。先生の父良之助敦吉は明治三年時点では古河に在居しておりますが(軍務課重士小隊員)、いくばくもなく、東京へ出たと思われます。色々な職業を営んだ後に、骨董屋として成功しております。早くより能楽の修業をしたとみえて、先々代九郎師には四十年以上もついて修業をしており、ついには家元の舞台の後見役を務める程になっております。乾三師の妻君は、大倉流小鼓の家元、大倉長右衛門の三女で、その兄妹に名人といわれる、大倉六蔵師が存在しており、先生の弟の近藤礼[7]氏も宝生流の職分でした。先生子息の乾之助も同じく能役者で、宝生流の重鎮として現在活躍しておられます。

 先生は昭和51年には日本芸術院会員に就任。翌年には勲三等瑞宝章を授けられており、昭和63年10月1日、九十八歳の天寿を全うしておられます。

 師は生涯のほとんどを東京で過ごしましたので、古河との関係はほとんどありませんが、前述徴兵検査の時は、東京よりは、体格の良い若者が多い。古河で受けた方が、不合格になりやすい、と云う気持ちで受けたそうです。結果は乙種合格で、見事に徴兵免除になりました。同時古河地区で徴兵になった者は、十名だったそうです。師にはプロ・アマを問わず、多くの弟子がありますが、古河では八幡町の森川肥料店の先々代森川庄兵衛氏などが代表的な人物であります


(注)一人扶持とは一ヶ月一斗五升の玄米の収入です。

当時の一俵は四斗二升入りです。


参考文献 「古河藩親類書」「近藤乾三自伝」


脚注

[1] けんぞう

[2] あつよし

[3] ちょう

[4] あつのり

[5] あけぼの

[6] としとも

[7] れい


(以下の家系図は等幅フォントにてご覧ください)


   本国美濃出身   幕府徒士

    治兵衛政勝─┬─加藤傳右衛門の娘 

          │

松平讃岐守家臣   │

片山氏の五男    │

 権右衛門秀乗─┬─娘

        │    古河藩

     孫四郎秀方─┬─矢作喜兵衛の娘

           │

           │   松平伯者守家臣

        孫四郎敦良─┬─原弥一右衛門の娘

              │

            孫四郎敦臨

              │

            孫四郎敦禮

              │

            孫四郎敦吉

              │

              乾三


投稿2016/2/2


No.15 野渡光明寺と榊原鏡次郎 


幕末の砲術家、榊原鏡次郎・江川太郎左衛門と野木町

光明寺との関係について。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 野木町野渡の浄土宗光明寺の御住職の姓は榊原氏です。御住職のお話しに「私の先祖には江川太郎左衛門と榊原鏡次郎がいる」と。私はこのことに興味を持ちましたので段々と調べる事にしました。

 光明寺に現存する榊原家の墓と家伝の資料を拝見しますと、幕末に幕臣として活躍をした人物達を発見することが出来ます。そもそも同家は家康の四天王の一人である榊原康政の同族で、初代は小兵衛長利といい、天正二十年(一五九二) に千七百石高を家康より拝領しています。この黒印(知行日録) は秀忠将軍よりも代替りの黒印として同家にたまわり、この黒印状が光明寺に現存しております。その後、わけあって禄高を減らし、十代目の鏡次郎長国の時には三百石高になっていました。しかし七代目が実入りのよい飛騨郡代を勤め、祖父(実は実父)の隠岐守長瑞[1]は御鎗奉行で二千石高。父(実は義兄)の小兵衛長和[2]は御小姓組与頭[3]として千石高を勤め、かなり裕福な家庭であります。(注)(九代日長和は養子で鏡次郎は八代長瑞の実子である。鏡次郎は長瑞の晩年の子供で九代は今で云う中継の役目である。長和実父は能勢越前守で二の丸御留守居を勤め、本高八百石・役高二千石)住居は現在の千代田区飯田橋一丁目九段坂下で五百余坪の屋敷でした。この屋敷は幕末の江戸切絵図にも確かに出ております。鏡次郎の父の小兵衛の後妻は江川太郎左衛門英毅[4]の娘であります。そして鏡次郎の妻も英毅の子息であの有名な太郎左衛門英龍[5](担庵[6])の娘です。ですから二代に渡って榊原家と江川家は婚姻しているわけです。

 御承知の如く、幕末の西洋砲術は、長崎出身の高島秋帆[7]から出発しています。江川太郎衛門英龍は若くして蘭学者に交わり、武芸者としては、練兵館の斉藤弥九郎等とも深く、鎌倉時代より続く、伊豆韮山代官を世襲する英傑であります。文武両道の力量を水野越前守忠邦より買われ、天保の改革で活躍しておりますが、天保十二年秋帆の江戸出府後、彼の門人となり、同じ様に幕命によって門人となった旗本下曽根[8]金三郎と共に西洋砲術の大家となって、その門人四〇〇〇人を数えるのであります。著名な弟子では、佐久間象山、川路聖謨[9]、大槻盤渓[10]、等がありました。古河藩では小山惣右衛門、玉置太津右衛門が門人になっています。なお下曽根の弟子には勝海舟等があり、古河藩関係では小杉平馬・千賀牧太・官野粂次・がいました。

 この江川英龍との関係より、自然鏡次郎も砲術の大家となって行きます。初期は江川の砲術助手として大砲鋳造、砲台築造、反射炉築造を手伝い、その砲術熟練が幕府の知るところになり、安政二年(一八五五)に新知として親とは別に新しく二百俵の知行を受けて御書院番組(将軍の親衛隊) に入り、翌年には講武所に勤め、文久二年には砲術師範役と歩兵頭並[11]を兼務して、千石高となっております。元治・慶応の二度の長州征戦にも、砲兵を率いて出征をしています。同時期に、子息の錬次郎[12]も砲術師範見習として百五十俵の新知を受けておりますので、父・本人・子と同時に三人が現役の旗本として知行を受けていた訳であり、大変に盛隆な事でありました。

 この様に、江川太郎左衛門英龍・榊原鏡次郎・同錬次郎の三名は、砲術の大家として幕末の激動期を活躍しましたが、明治維新を迎え、錬次郎が若くして死去した為、孫の榊原長光[13]は、幼少にて浄土門の僧籍に入り、辨達[14]と戒名し、後年野木町野渡の光明寺に入山したのであります。

 以上が光明寺と榊原氏並びに江川氏との関連であります。


参考文献 「野渡光明寺史料」「寛政重修諸家譜」

「江戸幕府人名事典」


脚注

[1] ながよし

[2] ながかず

[3] よがしら

[4] ひでたけ

[5] ひでたつ

[6] たんあん

[7] しゅうはん

[8] しもそね

[9] としあきら

[10] ばんけい

[11] なみ

[12] れん

[13] ながみつ

[14] べんたつ


投稿2016/1/29


No.14 尾鷲(おわせ)の土井家 


 尾鷲は三重県南部のまち。熊野古道が有名です。

古河藩主・土井家と尾鷲の土井家のお話。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 古河藩最後の殿様になった土井利与[1]が勤皇誓約のために家老小杉監物に率いられて京都に向ったのは慶応四年(一八六八)の三月であります。四月九日に目出度く明治天皇の龍顔を拝し、勤皇誓約をして、本領を安堵されています。その後、大阪城や古河藩上方[2]添地の平野郷を見回り、六月十六日神戸よリアメリカ船「リスパツ号」に乗り、海路横浜迄の帰国の途につきましたが、十九日紀州沖で嵐に遇い翌二十日、熊野灘の尾鷲(三重県尾鷲市)に上陸しました。

 そこに四日間逗留しました。リスパツ号に損所が出来て、修理に時間がかかるため、二十四日に荷物をそのまま積み置いて、陸路をとり、江戸を通過して、七月十五日、無事古河へ帰り着く事が出来ました。ところで四日間逗留し、世話になった、尾鷲地域の大庄屋(町長)が土井孔十郎と云う者です。その孔十郎が云う所では「たまたま私の家の紋所も八本柄杓[3]で替紋も沢潟[4]です。誠に不思議な事です」。これは古河藩主土井家の紋所とまったく同じであったからです。

 以上の事件は「慶応四年御上京一件」と云う、古河藤懸家の史料に書かれている記事であります。私はこの土井と云う家に興味を持っているので調べる事にしました。

 現在、尾鷲市の土井家は三重県有数の山林所有者だそうです。日本の山林所有者の中でも屈指の資産家であるようです。今でも尾鷲の「土井の竹林」と云えば、大変有名な名所で、周囲1メートルにも及ぶ太幹の竹が密生する竹林の眺めは壮観であるそうです。

 土井家の初代は九郎左衛門利信と云い、三河の浪人です。永正元年(一五〇四)紀州亀山城主(現御坊市)湯川氏に仕えました。三男一女がありましたが、男子はそれぞれ、出家をしたり、戦死をしたりしましたので、女子に南朝系の武士大館義兼の子の左衛門大夫保利を婿取りしています。(利信は永禄五年(一五六二)に没す)その間に六男が誕生しまして、三男の新助が土井家を家督して三世になっています。この新助が現、御坊市から尾鷲地域に山林経営の目的で移住したのです。年代は寛永年間(一六二四?四四)の末頃と推定されています。以降、家業が発展し、また、子孫も隆盛して今日に至っています。現在では尾鷲市近辺に十六軒の分家を出しているそうです。

 前記、孔十郎も土井本家の人でなく、分家の人物です。文久元年(一八六一)に本家に代って大庄屋に就任し、明治元年(一八六八)までの七年間の動乱期を町の責任者をして活躍しています。人となりは武芸をよくし心陰流の剣士でもあったそうです。

 所で古河藩主の上井家は三河岡崎の土居村出身の土井利勝を初代としています。この土井氏は清和源氏頼光の後胤である土居遠江守貞秀を祖としています。利勝の父は小左衛門利昌ですが、寛永系図によると「土居遠江守貞秀より土井小左衛門利昌に至るまでの系図を失す」とあります。この間は約百五十年位ありましょう。さすれば紀州湯川家へ三河から移った、土井九郎左衛門利信はこの系図の欠けた時代の一人でありましょうか?ただし利勝の父、利昌については早川和見[5]氏の研究で明らかの様に、本姓早乙女氏であり、元の家紋は横木瓜[6]でありました。土井の家号と家紋は徳川家康より利勝に新たに賜わったのであります。

 ただし土井氏が元より三河国に存在しなかったのではありません。岡崎市桑原町に大沢山竜渓院と云う寺院がありますが、この開基は土井九郎左衛門と云い、この寺院を文安元年(一四四四)に開基した事が岡崎市史から発見されます。この人物は隣接する豊田市渡合[7]町に住んでいた豪族だったそうです。前記土居遠江守貞秀系と思われる土井九郎左衛門利信とは時代は、五十年ほど相違しますが、両者とも九郎左衛門を名乗る事は同系の者である可能性が大きいと思われます。

 寺伝によれば松平氏と対立して土井氏は紀州へ逃れたと伝えられている。

 尾鷲土井家の家系図は尾鷲市史によると寛永年間の末頃には完成したと記されています。当時、系図は大切なものであり、もし三河出身の土井氏並びに家紋を盗用、改ざんしたのであれば、露顕した場合、当時幕府大老職にいた土井利勝に対して大変憚られる大罪であったろうから、尾鷲土井家では確信のある、史料に基づいて創った系図と思われます。何はさておき、幕末におきた両者の不思議な縁でありました。


【注】家系図を完成させたのは、二世新助の長兄の恵尊法師で主に、大館氏系を調査している。


参考文献 「岡崎の史跡」「尾鷲土井家系図」


脚注

[1] としとも

[2] かみがた

[3] ひしゃく

[4] おもだか

[5] かづちか

[6] もっこう

[7] どあい


投稿2016/1/26


No.13 江戸時代の土井家屋敷 


古河藩主・土井家は、江戸に幾つかの屋敷を持っていました。幕府の要職にあることが多く、相当人数の家臣が江戸詰でした。また、大阪とその周辺の上方にも所領があったため、ここにも屋敷がありました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 古河藩主としての土井家は前後二回の時期があります。ここでは天保十四年(一八四三)以降明治維新の期間の土井家屋敷と陣屋の所在地の事を述べてみたいと思います。


【江戸地区】

▽上屋敷

 天保十四年十二月拝領。(―八四三)日比谷御門内。

(現在の有楽町一丁目の第一生命本社ビルと丸の内警察署がある場所に比定出来ます。坪数は約四五〇〇坪位)。

▽中屋敷

 箱崎町屋敷。文化元年三月に拝領。(一八〇四)

(現在の中央区日本橋箱崎町内で箱崎インターチェンジの所です。坪数は四四〇〇余坪)

▽下屋敷

 @原屋敷(大塚屋敷。久保屋敷とも云う)慶長十九年(一六一四)拝領。

最初は八万七千坪でしたが三度にわたり上地され、四万二千坪になっている。(現、文京区本郷駒込一丁目〜三丁目地区)

 A本所猿江屋敷。元禄十一年(一六九八)拝領。

坪数は四千四百余坪。(現、江東区猿江二丁目内)

 B本所横網町屋敷。嘉永年間の一時期存在する?下屋敷と云うより〃抱え屋敷〃と云うのが正確と思います。千坪位。(現、江東区亀沢二丁目内)

▽町屋敷(抱え屋敷)

 日本橋呉服町にある土井家町屋敷。坪数は不明でありますが、小規模(現、中央区日本橋一丁目内)☆天

保十一年十月調の古河藩江戸詰士分以上の屋敷割当は上屋敷(当時は西の丸下)三十一軒。下屋敷(原)二十九軒。(猿江屋敷)三軒。中屋敷(箱崎)十四軒。其他三軒で合計八十軒となっています。文久二年江戸分限帳には家老以下門番坊主まで三百十一人と召仕えの女性二十四人が記されています。上屋敷はいわゆる本宅に当り、中屋敷、下屋敷は別宅を意味する。上屋敷には大名ならびにその奥方が常任し、中屋敷は大身の大名が構え、おもに非常の場合の避難所となり、あるいは部屋方の(側室)の居住に当てられる。下屋敷は当主隠居などの際の用意の為のもので、これにはとくに贅をつくしたものです。


【関西地区】

▽京都御屋敷

 二条堀川油小路御屋敷と云われ、元和九年秀忠・家光の上洛に供奉した土井利勝が拝領。二条城の大手門の正面に位置し、堀川通りを渡った所です。慶応四年四月に土井利与を奉じて家老小杉監物が上洛の時の宿所となった。(現中京区堀川通御池上ル。跡地は市立城巽[1]中学校になっています。坪数二千百九十四坪。校庭に教育委員会が建てた碑があります)。他にも一ヶ所、屋敷がある事になっていますが不明です。町屋敷(抱屋敷)だと思われます。千本屋敷

▽大津(上)平蔵町御屋敷

 元和九年に幕府領の内から拝領となった。坪数は四百余坪。町名は天文十四年船奉行早崎平蔵が居住するのに由来する。湖岸に面しており、当時は材木商が多く居住しています。(現大津市中央四丁目内で大津税務所になつています)

▽大津西山町御屋敷

 幕府領の内から京都留守居役の白崎久太夫居宅として元和九年に拝領したもので、同家子孫が代々在勤していた。坪数は五百七十余坪。(現大津市浜大津二丁目内。やはり昔は湖岸に面していました)

▽大阪町屋敷

 大阪天満魚屋町にあつた藩の蔵屋敷。坪数千二百坪。ただし安永九年十一月(一七八〇)廃上して平野郷に陣屋を置く。屋敷は後年まで存在したと思われる。大阪留守居役の服部家が多期に渡り関わって在勤した。(現、大阪市北区南森町内)

▽平野郷陣屋

 平野郷五六〇〇余石の陣屋で安永九年設置。天保五年拡張して南北五十間、東西六十間。文久三年に再拡張して、是を新屋敷と云い、東西七十六間五分、南北十八間三分。面積三千六百九十五坪を加えた。文久年間には屋敷四十軒あって、藩士は四十人位が住んでいました。(現、大阪市平野区官町内で、大部分は市立平野小学校の敷地になっています)

▽弓削陣屋

 美作国久米南条郡下弓削村中之町に安永五年に設置したもので、役宅あるいは会所とも云われる。美作領

分29ヶ村、一万余石を支配する。(現岡山県久米南町下弓削。町立弓削小学校の一部。坪数は不明です)。弓削の近附には浄土宗の開祖法然上人の誕生の地があり、そこに創建された誕生寺は、岡山県下最大の名刹であります。市民の皆様もご旅行等で出かけられる際は御見学下さい。


参考文献 「古河市史・通史編」「千賀忠夫氏論文」


脚注

[1] じょうそん


投稿2016/1/22


No.12 神戸市と古河藩上方領 


古河藩上方領といえば、平野郷(大阪市平野区)が有名ですが、神戸市とその周辺も含まれます。1995年の阪神・淡路大震災では、大きな被害を受けた地域もありました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

一月十七日に発生した阪神大震災は大変な被害をもたらし、全ての国民が等しく大きな被害を受けました。関東の古河からすれば、兵庫県南部地方は、ほとんど関係のない様ですが、歴史上から見れば、古河と神戸市は大変に関係の深い地区であります。

 震災の被害地のニュースでスポットを多くあてられた地区は、江戸時代の宝暦12年(一七六二)から明治維新までの約百年間、土井藩の上方飛地領であったからです。現在、地名で言い表すと。(1)神戸市中央区熊内町...古河藩領旧滝寺村。(2)神戸市灘区篠原...旧篠原村。(3)神戸市長田区長田町...旧長田村。(4)神戸市中央区下山手通一〜九。中山手通一〜八。...旧宇治野村

 その他にも神戸市の北区内に四つの村を領有しています。(4)の宇治野村は慶応4年6月(一八六八)に古河藩領より朝廷に対して神戸開港に付き御用地として差し出した村であり、旧生田川より旧湊川までの地帯で、いち早く兵庫県庁なども建てられた重要な地区でありました。この際なので古河藩上方領を展望します。

 幕末の古河藩領の石高は表[1]高(幕府によって公認された石高)で八万石であります。その内、古河城付近の俗に云う城付き村高は六万石であります。関西地区には上方御添地と言われる二万石の飛地がありました。しかし所領した全二百四十か村の村高の合計は十万千二百五十二石余になります。これが内[2]高(草高とも)と称されているものです。城付内高は約六万六千石で上方領内高は約三万五千石になります。数字の上ではこの様でありますが、実際の収入になると、両者の割合は同じ位の額になります。何故ならば関西地方の方が土地生産力が北関東地方と比べてかなり先進地であったからです。これは歴史的に早くから発展した地である関西地方が灌漑用水の発達や肥料(しめ粕、千鰯などの肥料)使用の差が大きいと言われています。一番大きかった事は、城付の方は七割が畑でしたので、水田中心の上方との実収差であります(当時はあくまで米の取れ高として麦、大豆等の穀物も米に換算して計算した)

 その上に土井氏が宝暦12年に古河に再入封する頃から関東地方では、農村荒廃が続き、さらに天災がひんぴんと起きました。特に天明3年(一七八三)の浅間山大噴火以降、その火山灰による影響で河床の上昇による洪水を主とした自然災害が多発し、水害頻発地帯の多い城付き村々では収入が激減する年が多くなりました。その点、上方地方は比較的安定した収入が見込め、その上に大阪の平野郷(古河藩領)を中心とする地帯では、木綿栽培が盛んで、全国的にみても、商業的農業の最先進地帯であったのです。

 天保期における平野郷の収入は藩全収入の四割以上を算出する、古河藩の宝庫でありました。これは明治維新まで同じような状態でした。

 上方領は大きく別けて大阪府下の地区。神戸市から小野市、西脇市、三木市にかけての地区。岡山県の津山市周辺の三つに分けられます。全体では十郡内八十四ヶ村でありました。詳細は私が古河郷土史会報に記載しましたのは、旅行等に出かられる時、参考にしていただければ、便利だと思われます。


参考文献 「古河市史・近世編(藩政)」

       「古河市史・通史編」


脚注

[1]おもて

[2]うち


投稿2016/1/19


No.11 鬼平の先祖は古河の人であった


「鬼平犯科帳」は、1989年から2001年までテレビ放送された時代劇です。覚えている方も多いのでは。

鬼平の先祖を平安時代までたどると、古河にゆかりのある人でした。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 今、一番面白いテレビ時代劇は、池波正太郎原作「鬼平犯科帳」であろう。人気絶頂の中村吉右衛門演ずる「長谷川平蔵」が極悪の盗賊を快刀乱麻にバッタバッタやっつける姿に、胸がすーと、降りるのは、筆者だけではないであろう。途中のストーリーには、色あり、食あり、武勇あり、それにほんわかとした人情味が加わり、時代劇ファンにはこたえられない番組であります。

 ところで長谷川平蔵の先祖は古河人だったのです。平安時代の最末期に現在古河がある所は、下河辺の庄内ですが、庄の領主は下河辺行義でした。子息の一人に下河辺政義と云う人物がいますが、この人が平蔵の遠祖であります。政義から四代目の小川政宣と云う人が、現在の茨城県小川町近辺から大和国の長谷川の地頭としておもむき(長谷寺で有名な奈良県桜井市初瀬近辺か?)これより長谷川氏を称しています。

 時代が降り、戦国時代には駿河国に住んで「正長」と云う者が今川義元し仕え、後、徳川家康に属して、子息の「宣次」が分家して江戸幕府の旗本になりました。「宣次」の六代目が平蔵宣雄[1]」であります。宣雄は本高四百石取りの中級旗本ですが、累進して京都町奉行)千五百石高、プラス役料六百石、官位は諸太夫)にまで出世しました。位は従五位下備中守に叙位しています。

 彼の長男が鬼平犯科帳の主人公「平蔵宣以[2]」であります。青年時代は銕[3]三郎を通名としていたので知人からは「テツさん」と呼ばれたわけです。

 彼は父親の側室の子供であったので、正室の義母との仲がまずく、一時、グレて、色街で博徒等の仲間に入って生活をしていた事は、劇中のストーリーの伏線になっています。これが後年、世情に通じている人物として描かれる基いなのであります。この事例は後年の遠山金四郎と大変に、似通っていますね。

 しかしグレていたのも家督を継ぐ前までで、家督後は、父親の関係からか、累進して、将軍の警固隊長役の御先手弓頭の地位に昇りました。(千五百石高、プラス六十人扶持、位は布衣)。天明七年九月からは(一七八七)火付盗賊改役の長官になります。この役目は盗賊と火付犯、バクチを検挙する事を目的として手向う者は切り殺してもかまわないと云う様な、荒っぽいものであります。

 この職に付くものは、幕臣の中で、有福で、しかも武勇秀でている者が任じられ、自宅を役宅として、部下には、与力十人、同心五十人、その他岡っ引き等が付けられます。鬼平の業績として、特筆される事は、「人足寄場」を造る様、幕府に建議し、その責任者になった事です。これは当時犯罪者や無宿者が、再犯する事が多かったので、老中、松平定信に進言して、石川島近くに、これ等の者達を収容して、生業の技術を習得させ、更生させる目的で造ったものであり、その後の犯罪者の更生に大いに役立ったと云われているものです。ちなみに幕末の古河の名高い博徒である、辺見の貞蔵親分(三田貞蔵)も若い時期に、この寄場に入所していたのであり、元治元年十一月(一八六四)に起こった鬼怒川石下の貞蔵一家の七名被殺害事件も貞蔵の入所中の事件であります。

 このように現実の「鬼平」は武勇ばかりでなく有能な官吏でもあったのである。鬼平は寛政七年二月死亡。年五十歳であった。(一七九五)墓地は四谷戒行寺。

 長男の辰蔵宣義もその後、まあまあの4出世をなし、布衣を許されている。劇中、遊び人辰蔵も事実は勤勉な人物だったのであります。

 なお、鬼平の本家で千四百五十石取りの「長谷川正直」も火盗改役を二十四年前に拝命していて、当時は 鎗奉行として、老年ながら在職中なので、鬼平には心強き相談相手だった。鬼平次男「正以[2]」は同族の長谷川家に養子に入るが、同家は四千七十石の大身旗本でありました。 

 長谷川家の家紋は勿論下河辺家と同じ左富士巴です。


参考文献「徳川実記」「寛政重修諸家譜」


脚注

[1]のぶかつ

[2]のぶため

[3]てつ

[4]まさため


投稿2016/1/14


No.10 野上の本泉寺と鳥喰


古河・鳥喰と、茨城県北部・常陸大宮市山方の「鳥喰山本泉寺」との関係を考察します

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 水戸市から袋田温泉に向かう途中に山方町があります。山方町の野上地区に「鳥喰山本泉寺」という浄土真宗西本願寺派の寺院があります。現住職は鳥喰唯然師です。

 本泉寺の開山は俗姓を鳥喰[1]六郎兵衛尉朝業[2]という武士で山方町の近郷の鳥喰村(現在の那珂町鳥喰)で五千石を領する領主でありました、安貞元年(一二二七)親鸞上人の門下に加わり、法名を唯円と名乗り、宝冶二年(一二四八)に同地へ一宇を建立して本泉寺と称しました。唯円と云えば誰しも「歎異抄」を思い出しますが、唯円については、一人説、二人説、三人説があり、いまだ判然とはしていません。今日では水戸市河和田の唯円をもって「歎異抄」の著者に比定していますが、本泉寺の唯円ではないとの確証もありません。本泉寺の唯円は大変な長命で、本願寺第二世となった如信上人の後見役となり、さらに三世覚如上人の後見役にもなり嘉元元年(一三〇三)二月十五日に百十一歳で大往生をとげております。

 さてここまでは古河地方と直接に関係のない話しのようですが、本泉寺は後年二度の火災にあっています。一度目は天正十八年(一五九〇)の佐竹氏と江戸氏との戦火からであり、二度目は慶安二年(一六四九)落雷による焼失であります。そして二度ともはるばる古河に難を逃れて、浪寺となったのであります。一度目は寛永八年(一六三一)までの三十九年間。二度目は寛文四年水戸光圀公の招請で鳥喰村から現在の野上の地に再建するまでの十五年間です。都合五十四年間の永きにわたり、当時としては、遥かに遠い古河の地へ逃避しています。現、住職は古河に真宗の遠縁の寺院かあったのではないかと推定していますが、古河地方鳥喰と云う地区があり、本泉寺の開山も鳥喰氏である事は、たんなる偶然とは思われません。

 何故ならば、古河の鳥喰村が天正十八年以降に出来た名称とは考えられないからです。そうだとすれば鳥喰朝業と云う人物が古河地方出身の武士だった可能性が多くあります。

(1)栃木県小山市神鳥谷[3]に西林寺と云う真宗の寺院があり、開山は小山政光の弟下河辺行義の二男、庄司行光が親鸞上人に帰依して当寺を開いたと「下野国誌」に出ております。(2)小山市網戸[4]の時宗称念寺は、結城朝光の子の網戸朝村[5]が開基になっています。(小山市史)(3)結城市の称名寺は結城朝光が親鸞上人に帰依して嘉禄元年(一二二五)上人高弟の高田の真仏を招請して開いた寺院であります。

 以上の様に小山氏一門と親鸞系の浄土宗とはかなり深い関係である事が理解出来ます。それに鳥喰朝業の朝の字は、小山一門の象徴的な名乗りであり、将軍源頼朝の一字拝領をそもそもの本源としたもので、そうそう名乗れる名前ではないはずです。以上の様な理由から私は勿論推定ではありますが、鳥喰朝業は古河の鳥喰に最初は住んでいた下河辺氏の一族であったろうと考えております。その後何らかの事情で、当時でいう奥部に移住した人物と思います。

 親鸞上人の直弟子は面授の弟子と通称されていますが、その代表的な二十四人の僧侶(二十四輩)が開山になっている真宗寺院は、古河地方には多数ありますので、朝業が古河出身だとしても、少しも不思議なことではありません。

 このような理由から、本泉寺の前後二度の焼亡の時に、旧郷里であった古河地方へ関係者を頼って移動したものと考察しております。

 なお、現太田市谷河原の西光寺も唯円を開山とした寺院でやはり最初は那珂郡鳥喰村に創建され、最初の寺名は円寿院本泉寺と名称しました。この唯円も面授の弟子で本姓は橋本伊与守綱宗といい武蔵国猶山の城主で十六万五千石の大名であったとあり、本泉寺と似た由緒の寺院です。


参考文献「親鸞上人門侶交名牒」


脚注

[1]とりばみ

[2]ともむら

[3]しととのや

[4]あじと

[5]ともむら


投稿2016/1/11


No.9 藤岡町出身の江戸城御金蔵破り


時代劇のようなお話(^_^;)

ちなみに藤岡町は合併して、今は栃木市の一部です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 現在の東京の宮城は江戸時代は将軍様の住居する江戸城でありました。江戸城の内部に入るのは当時多くの御門が有り、それが何重にもなっていて、それぞれの門には当然警護役のお侍が昼夜の別なく守衛についていました。御金蔵はその江戸城の一番奥手の御本丸に存在してありました。勿論金蔵ですから当然警備の役人が付いています。所がこの御金蔵が何者かに破られ、四千両(今の十億円位)の小判が盗とられたのです。時は安政二年(一八五五)三月六日の夜分でした。この事件は幕府創立以来、空前の大事件でしたから、南北両町奉行所と火付盗賊改方の総がかりで探索が始まったのです。当然場内の様子を知っている者の犯行なので犯人内部説が有力で、場中出入りの者や警備の役人等が疑われました。もっとも前代未聞とはいうものの六十年前の寛政九年(一七九七)十月に、京都二条城の御金蔵から偶然同額の四千両が盗み出されと云う事件があり、十七ヶ月後に、二条城出入りの錺[1]職人が逮捕され、死罪になった事件がありました。今回も城出入りの錺職人が重点的にしらべられました。(錺職人は合鍵造りは御手の物だから)しかし二年たっても一向に、それらしき人物があがりません。当時南町奉行所の同心村井傳太夫の手札をもらっている日明しで、芝車坂の陣十郎と云う者がいました。陣十郎はこの二年間、下っ引き二人を使い、この事件解決に情熱を燃やし続けています。彼は車坂の銭湯「与一湯」の主人であり、前主人も日明しであった所へ、入婿として迎えられたのです。しかしその後日明としては目立った手柄も立てられず、地味な不運をかこっていたので、ここらで男をあげたかったのです。

 その日は安政四年二月十一日でした。二人の下っ引きがまだ明けやらぬ頃、陣十郎の家の戸を激しく叩き続けています。二人はここ四・五日家を留守にしていました。陣十郎は起き出した。二人に訳をききました。二人が云うのには、「やっぱし信濃屋治兵衛本が本星です。やつは上槇[2]町の金貸しで<現中央区日本橋八重洲>本名を藤十郎と云いやして、下野国下都賀郡藤岡村の出身です。今は上槇町で小奇麗な金貸店舗を出していますが、一年前までは、裏長屋住まいの者でした。そんな者が急に資金のいる、金貸しになったのは、何か裏があると睨んでいたんです」と。

 この治兵衛は時たま一人で、二、三泊の旅に出ると云事です。その行先を探ってみると出身地の藤岡村でした。何の用事も商[3]もあると思えない田舎へ治兵衛は何かをしに行っているのです。彼には同村出身で年下の富蔵と云う友達がいました。富蔵は二年前より行方がわかりません。他人には郷里の越中富山に帰ると嘘を云っているのです。この富蔵も神田多町の長屋住まで、夜泣きウドンの屋台を引いていた者ですが、以前は江戸城勤めの役人の御仲間[4]でした。下っ引き二人は治兵衛の藤岡村行きの跡を付けたのでした。治兵衛は村に着いた夜半、村の鎮守の森で不審な行動をして、翌日江戸へ引き帰りました。勿論盗金を掘り出していたのです。二人の下っ引きはそれを見とどけてから、陣十郎の家の戸を激しく叩いたのです。

 陣十郎は早速、その足で南町奉行所へ出頭しました。与力の今泉覚左衛門はすぐさま了解し「今夜半、治兵衛を逮捕する」との命令が出されました。その夜の子の刻(現在の十二時頃)には大屋根に逃れて、脇差を振う治兵衛こと藤十郎を大勢で組み伏せ、捕らえました。後日、藤十郎と富蔵は江戸市内引きまわしの上に千住小塚原で礫刑になっています。陣十郎と二人の部下は奉行所より大いに賞されて、大変に男をあげたとの事です。


(注)江戸より北方の出身者、及び江戸下町に住んでいた犯罪者は小塚原で処刑された。南方出身者及び上の手の物は鈴が森で処刑された。例外も有る。一説には治兵衛の盗金は新吹の「壱分」で、その使用より犯人が発覚したともいわれる。


参考文献 「武江年表」


脚注

[1]かざり

[2]かみまき

[3]あきない

[4]ちゅうけん


投稿2016/1/9


No.8 足利成氏公夫妻の墓


初代古河公方・足利成氏のお墓は、野木野渡の満福寺が有名ですが、群馬県太田市にもありました。


今の私たちにとって、お墓はひとつ!が常識。しかしお墓が複数あるケースはよく見かけます。

これは単純に、本物・偽物という話ではありません。例えば、今でも一部の地方には、葬所と墓所を分けた両墓性が残っていますが、これもお墓が複数ある例のひとつ。


成氏の場合はどんな事情でしょうか?

本稿でも、もうひとつの墓が太田にある理由について、考察をめぐらしていきます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 群馬県新田町小金井に東雲寺と云う曹洞宗の寺院があります。この寺に古河初代公方の成氏夫妻の墓があることが十年位前に判明しました。見学に行ってみますと本堂の左側に成氏夫妻の四基の宝キョウイン塔型の墓がありました。右側の二基の大きい墓は開山当時のものと思われ、左側の小ぶりの二基はそれよりかなり後年の供養塔であるようです。開山(初代和尚)は五霞村にある東昌寺の三世の覚翁能正です。覚翁は野渡満福寺の開山と云われる東昌寺二世の能山和尚の弟子であります。開基は大永元年(一五二一)で足利成氏となっておりますが、成氏は明応六年(一四九七)に死去しているので、俗に云う贈り開基であろうと思われます。寺にある位牌を見ますと、成氏は東雲寺殿久山昌公大禅宗門で明応六年九月晦日没。御内室は伝心院殿栄伸寵公大禅定尼で明応二年三月六日没とあります。今まで成氏の没年は判明していましたが、内室の没年は不明でありました。成氏室については、小出重固著の「古河志」には上杉持朝の娘と記載されていますので、伝心院は多分継室になるのではないでしょうか。伝心院は関宿地方の領主であった梁田直助の娘で古河二代公方政氏の生母であります。

 所で成氏夫妻の墓が何故古河より遠い新田町にあるのでしょうか。第一には成氏と対立していた岩松氏が成氏と室町将軍との和睦後(一四八〇頃)、同様に和睦して岩松氏が成氏に臣下の礼を取った事。第二には、梁田持助の娘が岩松氏(現太田市や新田町近辺の領主)の妻になっているからです。以上等の事から、古河公方の勢力が新田地方に及び、特に公方筆頭家臣の梁田氏との関係が深まり、東雲寺が開基されたものと思われます。五霞の東昌寺は当時の領主であった梁田満助の菩提寺で、子供の持助が嘉吉元年(一四四一)に諸堂を造建しています。その関係で梁田氏と関係の深い東昌寺の教宣布教が東昌寺三世の覚翁能正によって、岩松氏の本拠地新田町に東昌寺として発展したものと思われます。したがって東雲寺の東は東昌寺の東を使っています。なお後年の戦国末期(永禄、天正頃)になっても、梁田氏と岩松氏、並びにその筆頭家臣の横瀬氏(家臣と云うより岩松氏を下剋上した事実上の太田金山城主)は二重、二重姻戚関係を結んでいる事が、系譜書より判明しています。東雲寺の戦国末期に造立された、小さい二基の成氏夫妻の墓もこの関係より、その時代に供養されたものでしょう。

 新田町のこの寺では成氏の戒名を東雲寺殿としておりますが、古河地方では乾享院殿と送り名をしております。この成氏公も前記梁田直助の弟の満助の娘を母として誕生していますので(興禅院)この夫妻は誠に血縁の近いご夫妻でありました。


「注記」

(1)岩松氏は後年同族である新田氏を名乗る。「新田鳥山」

(2)現太田市にある「義重山新田寺大光院」は徳川家康が先祖の新田義重の為に土井利勝等に命じて建立させたもので、開山が有名呑龍上人である。


参考文献「梁田系図」 「新田岩松氏系図」 「由良氏系図」


投稿2016/1/5


No.7 徳川家康の父は古河藩領の住人だった? 


明治期出版の 村岡素一郎 著「史疑」について。

徳川家康の父親は、実は松平広忠ではなく、栃木県岩船町出身の人物だったと主張した本の紹介です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 明治35年に徳川家康の父親が旧古河藩領内の栃木県岩船町小野寺の出身だと考察した人物がいる(戦国時代は古河領分ではないが)。著書の内容も大奇なものであったが、この本の序文を当時の史学界の重鎮である、東大教授で貴族院議員の重野安繹[1]が書いて推薦し、書名の「史疑」の名づけ親にもなったので、一大センセーシヨンを起こしたのであった。しかも出版社は徳富蘇峰社長の『民友社』からである。しかしながらこの本はすぐに、書店より姿を消している。これは、徳川家一門の圧力により、『民友社』が版を買収されたためであったとされている。

 著者の名は村岡素一郎といい、旧黒田藩士で、俗に云う、地方回りの教育者、官吏であつた。内容はかなり複雑なものであるが、要約すれば、次の様なものである。

 「徳川家康と松平家とは血筋のうえで何の関係もなく、家康という人物は、駿府の賎民の出身である。父親は下野の岩船の小野寺村出身の江田松本坊と云う、新田氏の末裔の修験者であり、母親も賎民の娘の於大である。一方、今川家に人質となっていた竹千代は、通史に云う後の家康ではなくて、ニ歳のときにある日何者かに誘拐された。その誘拐した者は、世良田二郎三郎元信とその一党である。この世良田元信が、のちに徳川を名乗り家康となったのだ。元信はのちに松平家の当主、元康の死後、そのあとの座にすわった。したがって家康の最初の妻といわれる、築山殿は、じつは「元康の未亡人で、その実子の信康は世良田元信に誘拐された、竹千代が成人した姿である。したがって松平本家は江戸時代冷遇され、築山殿、信康の墓所も冷遇されている。」と

 この内容は一般の常識的歴史をくつがえす物であったが、村岡氏は数多くの家康関係の史書を研究し、現地を足査し、一つ一つの事項にそれなりの史料的裏づけがあるものであった。そう云うわけで、当時、考証史学主義を主張していた、重野博士の推薦を受けたのであろう。筆者が推測するに、村岡氏がこの本を書くにあたり、最初のヒントになったのは古河藩士、小出重固著『古河志』のなかにある「古河藩領、小野寺村」の記事ではなかろうか?。この記事中に「寛政中に、山伏常法院の家普請の時三通の書が棟木に結びつかれた箱の内より出て来た。それは岡崎三郎元康が江田松本坊にあてた御書であり、この事は公になって、幕府も知っている」。と云う記事であろう。ただし村岡氏はこの三通の御書中、一書のみ真物とし他は偽物と断じているが。筆者も”史疑”を最初はまゆつば物ではないかと読んでいたが、読むうちに、あるいは史実なのではないかと思えてくるから誠に不思議なものである。


(注)村岡氏は明治中期栃木県の官吏となる。その時小野寺村の史料を確認して、後半「史疑」を発表した。


脚注

[1] しげのやすつぐ


(以下の家系図は等幅フォントにてご覧ください)


【正史】による松平系図


 親氏(初代)

  ・

  ・

 清康(七代)

  │

 広忠(八代)

  │

 家康(九代)


       源応尼─┬─水野忠政 

           │

      広忠─┬─於大

        │

お愛の方─┬─松平元康──┬─築山殿

     │(徳川家康) │

     │       │

     秀忠      信康


【史疑】による徳川系図


 七右衛門─┬─源応尼

(ささら者)│ (お万)

      │

      於大─┬─江田松本坊 

         │(新田氏末裔)

         │

お愛の方─┬─世良田元信

     │(元康と名乗り徳川家康と称す)

     │

     秀忠


投稿2016/1/3


No.6 「君と寝ようか、五千石取ろか…」


市内隆岩寺にお墓がある三浦陛次(肥後守)について。

江戸時代の幕府旗本。罪を得て、古河藩主・本多忠敞に預けられた人です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 市内田町にある浄土宗の隆岩寺に一基の墓石がある。

正面に豊安院空誉性識真道居士。脇側に三浦陛次[1]墓。宝暦三天二月十四日(一七五三)と刻まれている。この墓の主は、幕府旗本で五千石知行取りで将軍御側衆を勤め、土井家の親類にあたる、三浦肥後守その人である。

 肥後守は甥で千石取りの旗本、植村千吉が21歳で宝暦元年八月に千吉義兄の千石取りの旗本朝比奈万之助の為に殺害されたのを、いつわって、手負の態にして急養子を立て、家を継がせるべく計画したのが、十月にそれが露顕し、御側衆と云う幕府重役にあるまじき行為に付、本来ならば切腹を命ぜられる所であったが、八代将軍吉宗がこの年の六月に死去したばかりなので、特別の大赦をもって、当時の古河藩主の本多忠敞[2]に預けられたのであった。そして宝暦三年二月に古河の地で57歳で死亡した為、隆岩寺に葬られ、墓石を建立したのである。

 所が笹間良彦氏と云う著名な時代考証家が著わした「江戸幕府役職集成」のなかで、同氏は宝暦元年に三浦肥後守は、吉原で情事の浮名を流し「君と寝ようか、五千石取ろか、何の五千石、君と寝よ」と唄に残るような事件を起したと、書いている。普通この唄の主人公は、四千石の旗本、藤枝外記教行で天明五年(一七八五)七月に、新吉原の大菱屋、抱え遊女「綾衣」と吉原田圃の農家で28歳で情死して、四千石を取りつぶされた事を、唄ったものだと伝えられている。筆者も前より藤枝外記にまつわる俗曲だと聞いてはいたが、何故四千石を五千石と唄っているのか、疑間であった。

 笹間氏がいかなる史料より、三浦説を書き出したのか、不明なれど、確かに、藤枝説ならば、四千石と唄っているはずであろう。これが本当なら、古河の地に、かような風流人の墓がある事も、又、一興の趣きがある。ただし、公式の幕府史料には、藤枝情死事件は出ていても、三浦情死事件は書かれていない。古河市民はどちらに軍配をあげますかな。

 参考までに、四千石の旗本の平時の使用人は、五十人位。軍役では七十九人。屋敷は二千坪前後。五千石では平時で六十人位で、軍役は百三人。屋敷は三千坪前後であった。御側衆は将軍、君側第一の役職で、だいたい五千石前後の旗本から任ぜられ、五千石高役職で、老中待遇なり。その権威は極めて高く、諸大名と云えども、顔色を常にうかがうものであった。


参考文献 「寛政重修諸家譜」


脚註

[1] よりつぐ

[2] ただひさ


投稿2015/12/28


No.5 永井寺(えいせいじ)の古文


今回も赤穂浪士関連の話題です。

市内の永井寺に、赤穂浪士の子孫が残した古文書について。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 前回のお話しの続きになりますが、現在市内永井寺所蔵の古文書「伊藤・平井寄進状」は市指定文化財になっています。『一、貴院の御境内に葬り置き候、亡祖母、亡親各霊の墳墓の菩堤のため、畑弐反歩(中略)右畑地相違なく、并に畑証文裏書、古河町大年寄三人連印の書付とも寄進致し侯。よって貴院永劫の過去帳に法諱を記し置かれ、後々命日忌景の刻み、香花を供えられ、墓地の掃除等退転なく、御廻向よろしきよう成し下さるべく候。右は今般石州浜田へ所替御座候につき、後証のため件の如し。

本多忠務大輔家来

  伊藤八郎右衛門 (印)

  平井惣兵衛 (印)

宝暦九年三月(一七五九)

  下総国葛飾郡長谷村

       永仙禅院

         祥山和尚

右の様な文書であります。これは宝暦九年正月、本多家が石見国浜田へ所替になるので両者が、先祖の永代供養のため長谷村の永仙院に畑を寄状した時のものである。

 今までこの寄進状については、だれも言及していませんが「亡親」とは、前回述べました、父伊藤治興と母「於さん」の事です。「亡祖母」は、多分、治興の母の事と思われます。この伊藤八郎右衛門は、俗に云う、伊藤十郎太夫治行の事であり、赤穂義士史料の貴重な史料と云われる「伊藤十郎太夫治行聞書覚」の著者であります。父治興も、子治行も十郎太夫を通り名としているが、両者とも正式には八郎右衛門が俗名であります。これは初代八郎右衛門が大阪夏の陣において道明寺合戦で武勲をあげた、大切な名前であるからです。

 次に平井惣兵衛の方ですが、本多家宝暦八年「古河分限院」では元高弐百石。現高百三拾石と出ています。筆者は、土井家における「親類書」の様な、本多家における史料を拝見していないので詳細は、わかりませんが、寺坂吉右衛門が享保八年六月に山内家に差し出した親類書に、従弟として、本多家々臣である「平井文太」同「平井覚太」が見える所から、この平井の一族と推察出来なくもない。勿論可能性としては、伊藤家から平井家に養子に行った人物の線が強いのであるが、考え方の一つとしては、寺坂吉衛門につらなる者の代表として、伊藤治行と共に「治興」「於さん」に永代廻向のため寄進をしたのだとも考えられます。

 宝暦九年は治行、六五歳であった。永仙院の「於さん」の戒名は、利暁院釈春貞信女。行年六五歳。夫、治興は勇猛院釈宗精信士。行年は不明であります。


 参考文献 「本多家臣略系譜」


投稿2015/12/25


No 4 古河に住んでいた赤穂義士


いよいよ年末ですが、今日のお題は赤穂浪士(義士)。


ダンプ道路脇・渡良瀬川堤防近くの永仙院跡に、赤穂浪士・吉田忠左衛門(兼亮)の娘「於さん」とその夫・伊藤八郎右衛門(治興)の墓石があり、切腹しなかった四十七士の一人、寺坂吉右衛門(信行)が、古河で伊藤家に仕えていたというお話です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 市内長谷町のダンプ道路の側に、永仙院の墓地がある。この墓地には、中世の医聖田代三喜や当院出身で鎌倉円覚寺住持になった著名な僧侶達の墓も存在している。参道を入って、やや正面に、市教育委員会の掲示板があるのですぐわかるが、二つの墓石が並んで建てられている。向って右側の墓が、赤穂義士で有名な吉田忠左衛門の娘「於さん」のもの。左側は夫の伊藤八郎右衛門治興の墓である。

 伊藤家の主家は本多家である。当家の祖は徳川家康の四天王の一人、本多平八郎忠勝である。二代忠政にいたり、姫路十五万石の城主であった。七代忠孝の時越後村上へ転封。忠孝幼没のため五万石に減石して一族八代忠良、家を継ぐ。その後、村上より三河刈谷ヘ転じさらに正徳二年(一七一二)古河に入部するのであった。ちなみに古河統治は忠良と子息忠敞[1]、二代で四十六年六ヶ月に渡り、土井家に次ぐ長期である。「於さん」は元禄七年(一六九四)十八歳で赤穂から隣藩の姫路伊藤家へ嫁ぐのである。この時期は藩主は六代忠国であったが、その後、元禄十五年に赤穂義士の討入りが行なわれたのである。三両二分二人扶持の足軽、寺坂吉右衛門の主人、吉田忠左衛門は翌年切腹になり(ただし寺坂は吉田の組下の部下であり、正式には吉田は主人ではない)寺坂は江戸から播州亀山に、さらに吉田の遺族と共に姫路の伊藤家に身を寄せたのであった。前述のように本多家はその後、越後村上、三州刈谷を経て古河に入部したが、寺坂夫妻もその間、続いて、伊藤家に寄住したのである。忠左衛門の遺族では次男伝内が、伊豆大島の流罪より許され、同じく伊藤家に寄居している。

 吉田妻「りん」は、宝永七年(一七一〇)刈谷の地で死没するのであった。寺坂は伊藤家に寄住するこの二十年。古河にあること十一年目の享保八年(一七二三)主家減封のため伊藤家も二百五十石より百五十石に減禄し、寺坂夫妻もやしない難しと自省したので江戸に出て、四十六士が眠る泉岳寺から程近い、麻布の曹渓寺、梁州和尚に引きとられ、その三ヶ月後、和尚の世話にて、土佐山内家の分家旗本、山内主膳に召抱えられるのであった。その後の伊藤家では元文四年に伝内改め吉田九郎太夫兼直が没し、元文六年正月(一七四一) に治興妻「於さん」死亡。同年寛保元年四月、夫治興も死亡し、ここ永仙院に葬られたのであった。

 「於さん」は65歳であった。以上の話しは赤穂義士で有名な寺坂吉右衛門関連の歴史であるが、一部には吉右衛門の討入り前の逃亡説などが存在している。しかし二十年間にも渡り、吉田遺族並びに伊藤家に忠僕した吉右衛門は、勿論討入り義士であり、討入り後の離脱は、主命であった事が情況証拠として立証出来るのである。それにしても、有名な義士が十一年間にも渡り、古河に居た事は、古河人として喜ばしい事である。


参考文献 「本多家臣略系譜」


脚註 [1] ただひさ


投稿2015/12/22


No.3 徳星寺


 今日の話題は市内横山町にある徳星寺。ただし寺の由緒ではなく、徳星寺の墓碑から古河公方家の家臣・根岸家について考察したもの。


 根岸家は北川辺柏戸の旧家で、かつては古河鴻巣の鴻巣城(古河公方館)城代だったようです。さらに、古河公方・足利成氏に先だち、根岸道照が古河に入って鴻巣館を整備し、成氏を迎え入れた可能性にも言及。成氏が古河に入ったときの状況は、分からないことが多いので、興味深いお話です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 徳星寺に下記の墓が存在する。「古鴻巣城主。本空院殿智山恵鏡大禅定門。天正七年正月。清和源氏加賀美次郎遠光。小笠原遠江守長経三男。幼名小笠原大三郎中比曰大倉孫次郎行房。後改根岸甲斐守信政。右信政十世勘解由秀光者羽柴筑前守秀吉伯母聟也。卒後葬竜見山徳星寺。祖父勘解由政永上州群馬郡総社移住牟。元禄十二己卯九月再建。根岸甲斐守信政十三世孫施主上州群馬郡総社根岸作右衛門同甚兵衛政明。秋元但馬守内根岸総兵衛政利。」この墓は古来有名であったとみえ『古河志』にも取り上げている。「古河志』においては結論として「正定寺古住僧のかきたりし物によれば、当領の鴻巣村なりしか、公方家に仕へたる家なるよし」としている。又の章にて「根岸家譜卜云物二、相州白旗城主根岸左近将監道照譜ニ、成氏於鎌倉上杉卜合戦シテ利ヲ失ヒ、越後へ退去ノ時相従ヒ往。其後上州白井上杉ヲ攻テ利ヲ得、暫白光へ忍居。道照古河へ来リ、頼政廟ハ源家ノ神霊也卜、鬮ヲ以テ神へ伺フ。吉也。因テ奉移。道照ハ同鴻巣へ在城ス。」とある。これ等の内容はどの様なものであろうか。別の資料からみてみたい。『古河市史研究(7)千賀忠雄氏著「南涯」』の中に「兼載の墓碑は文化六年六月六日兼載の三百忌に当り、追善の催しがあり、その折に正定寺住職十二世鏡誉上人の発願で建てられたが、上人の祖先は武蔵国根岸左近将道政で兼載の門人であった為、祖先に代って報本の道を尽くしたのだという」次いで北川辺町史に「江戸時代に古河川辺領柏戸村の旧家者、根岸治右衛門は江戸より下向して来た吏官に家蔵の略系をさし出した。吏官は筆をとってつぎのように書き記した。其文に五代甲斐守遠光、後信濃守に任ず。それより四代の孫、又左衛門信政なるもの当国根岸村(比企郡菅谷村根岸)に住す。故に根岸と号す。夫より四代道照、初め勘解由、後に左近と改む。古河公方足利成氏が為に、上州白井城に押寄、上杉の一族を亡せり、長禄元年十月成氏古河城に移りし後道照は鴻巣に住せり。夫より五代政乗隼人と云者。天正年中当柏戸村に移り住む。当代の治右衛門まで六代に及ぶと云」「慶長四年の記録に柏戸村開発者として名を連ねている者のなかに根岸隼人が存在する」以上の資料より、

現在北川辺町柏戸に存在する根岸家の先祖であった事が判明する。

 墓銘より、この墓の主は鴻巣城主の勘解由秀光である。所で秀光が羽柴筑前守すなわち豊臣秀吉の伯母聟

であると墓銘にあるが、もし秀吉の関係者であれば何らかの形で史料が存在するはずであり、この事ははなはだ疑間である。ただこの墓が元禄十二年に再建されているのであるから、当時何の由緒もなく、そのような文章を書くことは当然はばかられた事であろう。その事から推察すれば、その間に何らかのいきさつがあったと思われるが大変に興味のある点である。

 資料に云う道照と道政は同人と見ていいと思うが、この資料の内容はなかなか深いものがある。それは成氏と古河(城)との関係からである。古来成氏と古河との関係は多くの先人がいろいろと考察をされてきている。ざっと問題の点を数えても、(1)当時の古河の範囲(2)下河辺城と同別とその推定位置(3)康正元年以前の、古河城と成氏の入城した古河城の同別(4)さらに康正元年の古河城と、長禄元年に修した古河城の同別(5)鎌倉大草紙の総州葛飾郡古河県鴻巣のかりの屋形と、当時の古河城との関係(6)利根川図志に栗橋に古河町が存在している理由。さらに発展して(7)成氏の幼名が万寿王丸であったのであるから、文安三年の万寿王丸の古河城入城説の古河城とは(夏目記)(8)万寿王丸の永享の乱以降の動静。等々かぎりない疑間が出てくる。

 根岸家関係資料からは成氏鎌倉退居後、康正元年六月十六日以降一時期古河の陣にあつたが、ほとんどはどこを拠点としたでもなく、上杉方との戦いに各地ヘ遠征したのであるが、道照がまず日光より(成氏大叔父は日光山別当)頼政廟の存在する古河に来たりて、鴻巣に屋形を造り、成氏を入居させ、長禄元年十月に下河辺城だった城の修復が出来たので、成氏はその城に入拠し、自身は鴻巣屋形の城代の形で入居し、子孫も同じく、城代として秀光の時代まで在城した事を述べている様である。


(注)勘解由秀光については、山口美男氏の研究があり、そ の中で「秀光が長篠合戦に参戦している」とある。た だし、織田・徳川方か武田方かは不明である


投稿2015/12/20


No.2 本成寺


 本成寺の古河移転は、『古河志』には「延宝年間日禎聖人住持の時に土井利益の母、法清院殿と聖人がおば、おいの俗緑を以て猿島郡伏木より城畔へ移した」と云う内容が記されている。本成寺の過去帳には、慶長七年に伏木より移転したとある。慶長七年と延宝中とでは約70年間の差があるが、両者どちらが正確な事であろうか。資料を見たい。1)寛永年間地図に現地に本成寺が描かれている 2)日禎の墓所銘により死去は元和三年八月である 3)法清院殿の死去は慶安五年八月4)墓地に延宝時代より以前の墓が多数存在する。以上の点より『古河志』記載の延宝年中の古河移転説は、甚だ疑間である。ただし正保地図に当寺が描かれていない点のみが一つの問題ではあるが。所で当寺過去帳(宝暦以降の著作)では「当山中興大旦那、当所建立之主、法春院殿妙清大姉。僧正日禎之母堂、小笠原下野守祖母」と云う記載がある。この小笠原下野守とは何者であろう。一般的には慶長七年移転説より小笠原秀政の事と考えられる。しかし秀政は下野守を受領していない。当寺歴代住職の墓地には歴代の他に、当時の大旦那と推定される数基の墓が存在している。その中に妙性なる戒名の墓があり、死去は承応三年八月である。この妙性と前記の妙清大姉は同一人物であろうか。日禎の死去元和三年と妙性死去承応三年までは三十七年間である。秀政の誕生は永禄十二年であり、八十五年間も差がある。しかも秀攻の祖母だとすれば、これは問題外である。そこで秀政以降の古河藩主両小笠原家の人物を考えなければならないのであるが、該当する者が存在しない。そこでこの小笠原は古河公方家臣系の小笠原氏も考えられる。前記妙性墓の左面に麦倉村の銘が存在する。この妙性なる女性は、北川辺町の麦倉村と関係が有る者であろう。さすれば、小笠原氏と麦倉村との関係も導き出される訳であるが、この点、資料的には甚だ不備である。ただし『古河市史、中世資料』一五四六の妙性禅定尼の文書は、大変に興味深いものである。

 日禎と法清院殿との関係はいかがなものであろう。法清院は慶安五年に二十二才で死去している。日禎との死亡年間差は33年間ある。日禎上人は京都本圀寺第16世を経た後に、古河へ移住しているのであれば、死亡推定年令はさほど幼年ではないと思われる。さすれば日槙と法清院が、おば、おいとの関係は否定されるものであろう。以上の点より考察すれば、本成寺の古河移転は、延宝年中よりかなり以前の時期であり、法清院と日禎上人との俗縁も『古河志』に記されてある様なものではないようである。歴代住職の墓地内に二世、三世、四世が元禄二年八月に同時死去しており、五世日誉は明暦三年、六世は寛文十三年の死亡である。住職と法清院との関係を強いてあげるとすれば彼等の中に該当者がいるのであろう。又、清光院殿なる女性が寛文七年に25歳で死去しており、三代寺田与左衛門の長男左太郎の貞亨四年の墓も同所に存在する。これ等の考察は後日にしてみたい。

(注)『古河志』に「日禎聖人住持、延宝中この地に移し給ひしと云。日禎聖人は、大内の地下中川縫殿頭貞長の二男也。貞長は法清院殿の御はらから」 現在、本成寺の住職は32世電(いなづま)貫有権大僧正(67)。昨年10月、本山の身延山本遠寺貌座に就任し本山の重要文化財、本堂、鐘楼の昭和の大修理事業を推進している。33世は実弟の村西貫光氏。13年前49歳で病死した。34世は長男貫省副住職(38)。二男

の尚久氏(32)は群馬県幸福寺で福祉事業に打ち込んでいる。兄弟とも市川市の法華教寺で百日間荒行を修業した。


昭和63年3月記

古河市横山町の本成寺

投稿2015/12/13


先日、古河市内在住の郷土史研究者・伊藤 巌 様より、ご自身の著作『古河史逍遥』をいただきました。


読んでみると、古河の歴史に関心がある人なら、興味深い話題が盛りだくさん。

そこで特別に許可をいただき、この場でも紹介する事にしました。70編ある記事を随時ひとつづつ取り上げていきます。しばらくお付き合い下さい。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

No.1 ヨコ町の起源と野木町 new


 近年、古河市において市史編さん事業がなされ数多くの史料や論文が発表され、著しく歴史研究が進んでいる。そこで私なりに考察した事を書いてみたい。ただし紙面の関係から史料引用は最少限にとどめる事と参考文献はいちいち列記しない場合がある。まず私の地元の横山町(江戸期はヨコマチ) の歴史から。


 現在の古河市(駅西古河)の町割が出来たのは元和五年(一六一九)奥平氏が宇都官より十一万石で入封して以降の事と思われる。それまでは二万〜三万石の大名城下町であったから、町が拡張したのは当然である。この時期日光街道も開通したのであるから、大がかりな街造りが成された訳である。『古河志』には「是迄の町家侍小路となり、今の町家は其時の替地なり」とある。そこでヨコマチの事であるが、現存する最古の地図と云われる、寛永年間地図ではヨコマチは現在の二丁目曲の手の地区に記されている。ヨコとはタテに対する言葉であるが、日光街道を原町より現在の横山町までをタテの街道と見立れば、ヨコの街道は曲の手の町並だけである。そこで曲の手筋をヨコマチととなえたのであろう。現在の横山町筋がヨコマチでは意味不明である。そして現横山町通りは同地図では野木町と記してある。この野木町の事は『古河市史』(通史)では「古河から北へ出ると野木町である(栃木県野木町)この野木の街道周辺に居住してた人達を横町に移したので当時はそう呼んだのであろう」又「横町は、もとは野木宿に属していた」と両記されている。古河町が城下町として完成したのは前期土井氏の時代であり、当時は古河町を城の惣構えとしてとらえている。横山町方面を見ると横山町筋の西側の三ヶ寺院をして北方警備を兼ねた、要害的側面があり、それ以東、以北は古河町外の認識であったのではなかろうか。だから現在の野木町と現横山町の野木町は領主を同じくする農林地の同一の名を持つ町であったろう。それが奥平氏以降土井氏の町造りの整備拡張、日光街道の開通、検地、それに伴う村切り(町切り)過程で一方は古河地区の野木町に取り込められ、他方は下都賀郡野木町に区別されていったのではないであろうか。これには傍証がある。現在野木明神の帰社祭が古河町でも催される。これは本来野木町の祭りであると云われていた。しかし江戸期の提灯竿もみは、古河町の住民のみが行なっていたのであった。『古河市史資料別巻古河藩のおもかげ』。現市内鍛冶町の住民は最初は野木台手函付近の住民が移動したとされている。古河の提灯竿もみ祭りの主役をするのは昔より横山町と鍛冶町の人達であった。(例えば、提灯竿の御渡り) この事は、横山町、鍛冶町の住民が本来野木町の住民であった事並びに野木官の氏子であった事を証左するものである。これ等によって、現横山町地区は野木町で記されている事が自然であった事が考察される。


以上

古河史逍遥