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古河城御三階櫓外観復元図
古河城御三階櫓のペーパークラフト
投稿2016/9/27
古河城御三階櫓のペーパークラフトを制作しました。
元々古河城をCG復元することをライフワークとして進めてきているのですが、そのCGデータの活用方法の一つとして作成しました。
古河城を知ってもらうための方法として、どのように配布するか、などこれから考えていきたいと思います。
このペーパークラフトの縮尺は1/350で、以前当会で作成した本丸御殿模型と同一です。 また、これは古河歴史博物館展示の古河城復元模型とも同じ縮尺になります。
古河城御三階櫓図面化(2)
投稿2016/7/28
先日投稿の古河城御三階櫓図面化のつづきです。
古写真に似せることを目的にした御三階櫓の新3D図がほぼ出来ました。
当初は2D図を先に作る予定でしたが、3次曲線が多く難しくて、3D図を基に2D図を作成することに予定変更。以前に作った3D図と比較すると微妙に屋根や窓が違うのがおわかり頂けるでしょうか?
是非前回投稿のものと比べてみてください。
屋根瓦も小さくし、鯱とかのディテールも追加しています。
鯱はのべ10時間以上あれこれいじったあげく犬顔の鯱になりましたw
懸魚も凝って作っています。
古河史蹟写真帖(1932)3頁「古河城三の丸より見たる三階櫓と菱櫓」より転載・加筆
昭和10年版古河史蹟写真帖(1935)2頁「二ノ丸外より見たる古河城三階櫓」より転載・加筆
古河城御三階櫓図面化(1)
投稿2016/7/26
最近やっていること、それは御三階櫓の図面化です。
いままで3Dでは精粗3種作っているのですが、古写真と見比べると何かが違う・・・そんな悩みがありました。 そこであらためて写真に似せることを目的に始めました。
まず2D図を書き、それから3Dにして写真と比較を繰り返し、ようやく満足いく形になりました。
今後はこれに肉付けして、ペーパークラフトにしたりとか出来たらいいなと思っています。
ところでこの古写真の撮影地点がえらく高い位置だと思いませんか?
CGとの比較で見ると、三階櫓を巡る高塀の屋根上くらいの高さのようですが、何かやぐらのような物を組んでその上に昇って撮影したのでしょうか? だとしたら相当大がかりな撮影だったと考えられます。
古河史蹟写真帖(1932)3頁「古河城三の丸より見たる三階櫓と菱櫓」より転載・加筆
古河城御三階櫓外観復元図
投稿2016/8/23
古河城御三階櫓外観復元図を絵図面・古写真より作成しました。
基本形状は絵図面の通りですが、3Dモデルを古写真と照合して修正しているのでバランスが微妙に異なります。
また、軒裏の漆喰塗籠が波形か垂木型か判別つかず、本図では垂木型(玄関庇のみ波形)としました。
御三階櫓は棟瓦までの高さ23mにもなる大型の櫓ですが、重量はどれくらいだったでしょうか?
現存天守の一つ弘前城天守では2015年に石垣工事のため、建ったままで移動する曳き屋と呼ばれる工事が行われました。この弘前城天守は高さ14.4mで重さ400トンだそうです。
建物規模からみて御三階櫓の重さは600トン以上あったのではないかと推定されます。この重量物が土塁の上に載っていたのはすごいことです。相当しっかり土木工事がなされたのでしょうね。
二ノ丸居宅について(2)
投稿2015/5/16
岡崎の本多家重臣の中根家文書にある「古河二ノ丸図」を基にCGで復元しました。
立面のわかる資料が本丸御殿以上に乏しく、壁・戸・窓などすべて推定になってますのであらかじめご了解ください。特に建物のどこまでを一棟とするかが難しく、試行錯誤を繰り返しました。特に密集している箇所では軒が接してしまうので高さを変えるなどのやりくりして納めています。
建物群の全体の位置は古河歴史博物館の模型と比べて少し北に寄せています。とにかく二ノ丸の広さがぎりぎりで、土塁の内側傾斜をきつくして敷地面積をかせいでいます。(画像A)
風呂屋の配置は謎です。大広間の直近にありながら塀の外に位置しており、ここに建築した意図がさっぱりつかめません。(画像B)
玄関の式台は参考例がなかってので、唐破風屋根をつけてそれらしく納めました。(画像B)
玄関棟から北へ続く長屋の内側は従者の待機場所である腰掛や厩などになっていました。この長屋の外側に長い張り出しがありますが、内廊下なのか、それとも外側の腰掛なのか判断がつかず、内廊下としてモデリングしました。(画像C)
小納戸周辺は建物同士が密集していて屋根の納まりに苦労しました。(画像D)
建物間に数ヶ所仕切りがありますが、塀では大げさすぎるようですので竹矢来にしました。(画像D)
建物群の最奥部の広場は、本丸御殿無き後の日光社参時に将軍宿所が置かれた所です。(画像E)
大廊下西側に目立つ張り出しがありますが、用途不明です。(画像E)
全体的に不明箇所が多く、推測復元にならざるを得なかっため、おかしな所が多々あるかと思います。御指摘頂ければありがたいです。
二ノ丸居宅について(1)
投稿2015/5/15
古河城では本丸に御成御殿があったため二ノ丸に城主の住まいがおかれており、本丸御殿に遠慮したため御殿ではなく居宅や住居と呼ばれていました。
二ノ丸の北半分を占めて建てられていますが、敷地は狭く東西方向はぎりぎりで、建物の配置に苦労したものと思います。
建築年は不明で、本丸御殿と較べてどちらが先に作られたかなど今後の検討が必要です。(当会のパンフレットでは土井利勝公の時代としていますが、ここでは不明とします)
この居宅については、二種類の図面が存在します。一つは岡崎の本多家重臣の中根家文書にある「古河二ノ丸図」で、本丸御殿が存在していた言わば江戸前期の状態の図面です。もう一つは鷹見泉石資料の「紀州二丸住居絵図」で、本丸御殿廃止後の藩の役所なども置かれた江後期の状態の図面です。(この鷹見図は現物が行方不明らしいです。)3DCG化するにあたって中根図を元にCADで図面化しました。
この二つの図面を比較すると、中根図では城主の私的空間が居間と寝間だけで非常に簡素ですが、鷹見図では女中部屋など奥向の建物が追加されています。また、役所部屋が鷹見図では細分化されています。
大広間はどちらの図でも大きな違いはなく、5室からなり、上段には床・棚・付書院・納戸構を備えています。特に付書院は本丸御殿にさえ無いもので、二ノ丸大広間は格式高く作ってあったと想像されます。
正式の入口になる式台は普通は玄関棟の張出部に設けるものですが、敷地が狭いため玄関棟の妻側に引き込んでいるのが珍しいです。
特異なのは中根図にある大広間南東に位置する湯殿です。その広さは城主用の風呂屋はもとより本丸御殿の将軍用の湯殿より一回り大型です。また、大広間に隣接する場所に湯殿が設けられていることも他に例がなく、謎と云ってもいいです。
外観は明治3年に御三階櫓を写した写真により大広間棟・玄関棟の屋根の一部が判ります。また徳川将軍家日光社参時の宿泊図面によると屋根はこけら葺きなどの板葺きであったようです。
土塁(土手)について
投稿2015/4/3
古河城は土塁と濠に囲まれた土造りの城でした。石垣造りの城と比べて貧弱粗末な感がありますが、これにはいくつか理由があります。石の産地が遠いこと、石垣技術が低いこと、そしてなにより江戸幕府のお膝元で堅固な城にすることが避けられたことが挙げられます。そのため江戸の衛星城と呼ばれる川越城・岩槻城・佐倉城なども皆土造りで、石垣は城門廻りなどごく一部に限られていました。
古河城の土塁は残存遺構の実測値、および正保城絵図に記載の寸法などからおおよその規模・形状がわかります。台地上に立地している諏訪曲輪を除くと、外側の傾斜は40~50度、内側の傾斜は20~30度、上部平坦面(馬踏)幅は4~6mくらいであったようです。高さは濠水面から4間(約8m)程のところが多いですが、地盤の低い三ノ丸付近は濠水面から2間(約4m)程でした。曲輪の内部平面からは2間程度の高さがあり、騎乗の武士が外部から見えない高さになっていました。絵図によると三ノ丸東側に藪が存在しますが、これは三ノ丸が低く城下から内部が見通されるため、それを遮蔽する目的でわざと植えたものと考えられます。
江戸時代の土塁の管理は作事役所により年2回、草刈りや枝払いが行われていました。また、濠に接する位置には塵防ぎといわれる犬走り状の平部があったようで、通路にしないようにとのお触れの記録が残っています。
古河城復元CGでは土塁断面をある程度定形化しています。モデリングのやり易さも考慮して外側傾斜を45度、内側傾斜を約30度としています。 塵防ぎは位置や寸法が不明確なので省略してます。
本丸御殿 台所・料理ノ間・老中座鋪等の3DCG化
投稿2015/3/17
これまで大広間や御成書院などハレの建物を3D化しましたが、残りの台所・下台所・表料理ノ間・奥料理ノ間・配膳ノ間・老中座鋪を3D化しました。また、付属施設である土蔵・大番所・腰掛・井戸と塀・柵も作成しました。
ハレの建物と老中座鋪を除くとほとんどは料理関係の建物で占められています。御殿廻りには塀・柵が張り巡らされており、これらは御成御殿の特徴といえます。
料理ノ間付近は密集しており屋根の納まりに苦労しました。今回作成した建物は用途が決まっているので、なるべくその用途に合った外観になるよう努力しましたが、考証という名の想像の産物なのはお許し下さい。
一応これで本丸は完成です。
古河城復元模型制作記
投稿2015/3/15
古河歴史博物館にある古河城の大型模型は大変精密で、見る人を驚かせてくれます。特に人馬や鳥などまで再現されており、リアリティがあります。
模型上に配置されている建物は約1100軒、人馬などは約1800ヶ、樹木は約7600本だそうです。
この製作動画がYouTubeにありますので紹介します。
ヤマネ工芸 古河城復元模型制作記録
御三階櫓の大きさ比較
投稿2015/3/8
古河城の天守と云える三階櫓は武家諸法度により天守の建築を禁じられていたため「御三階櫓」と呼ばれました。
建物の全高22mを超え、外部三重内部4階の大型櫓ですが、数値だけではなかなかその大きさを実感することができません。そこで国宝「松本城天守」と比較してみました。
画像では本丸内部平面を基準とし、遠近差を生じないよう平行投影で表示しました。
松本城天守は外部5重内部6階ですが、御三階櫓はさほど引けを取っていなかったことが判ります。但し、美しさの比較では飾りのない御三階櫓は全然かなわないようです。
松本城天守のモデルはインターネット上に公開されている「noboru」様作成のスケッチアップデータを使用させて頂きました。この場を借りてお礼申し上げます。
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古河城・松本城比較(その1) |
古河城・松本城比較(その2) |
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古河城・松本城比較(その3) |
古河城・松本城比較(その4) |
■本丸御殿御成書院・御休息ノ間等の3DCG化
投稿2015/3/1
将軍が宿泊した際に主体として使われた建物群です。御成書院は対面などの儀式が行われた場所で、白書院・黒書院はその控えの部屋のようです。御休息ノ間は将軍が寝泊まりする場所で蒸し風呂式の風呂屋が付属していました。また、中庭には御囲(茶室)が置かれていました。
書院の外見は先にモデル化した大広間と変わりません。問題は茶室の外見が全然判らないことで、推測というより創作になってしまっています。一応数寄屋風の造りにしたつもりで、土壁塗り、にじり口(沓脱石のところ)を設けました。厠や風呂屋は名古屋城と川越喜多院の御殿のものを参考にしています。
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本丸御殿御成書院・御休息ノ間等
(その1) |
本丸御殿御成書院・御休息ノ間等
(その2) |
本丸御殿御成書院・御休息ノ間等
(その3) |
■本丸御殿について
投稿2015/2/23
本丸御殿(御成御殿)の詳細資料は、本多家重臣の中根家が保存していた「下総古河城内本丸ノ図」だけと云えます。この図は歴博の図録「古河城 水底に沈んだ名城」に収載されていますので目にされた方も多いと思います。これについては浅野伸子氏によって「古河城本丸の御成御殿について-中根家文書にみる住宅関係資料(その4)」という基礎的な研究が発表されています。
それらを元に分析・推測した自分なりの注目点を挙げます。
1.間尺の違い
田舎間・京間など1間を表す距離は複数あります。古河城では「御三階櫓建地割図」が6尺間の田舎間を基本としているようなので、御殿もこれを基準に復元図を作成してみたところ合わない部分が生じます。元の絵図面に歪みがあるためよく分かりませんが、玄関・大広間などは6尺間、御成書院などは6尺3寸間のほうが合うように思います。この違いは何なのかは推測になりますが、建設時期の違いを示しているかもしれません。
2.能舞台・長局はいずこ?
「日光御社参古河日記」というものに能舞台・長局の普請の記載があります。いずれも本丸ノ図に記載が無く、どこにあったか不明です。能舞台は御成書院の南側にあるのが理想ですが、敷地が狭く橋掛りなど舞台とセットとなる施設を置くスペースが足りず、謎です。
3.御囲(茶室)=御数寄屋か?
鷹見家資料「寛文三卯年四月日光御成之覚」にある御数寄屋に該当するものは黒書院東側の「御囲」と推測します。お囲いとは茶室のことだそうで、数寄屋造りだったのでしょう。また、この茶室のある中庭は比較的面積が広く、庭園が作られていたとみて間違いないと思います。
5.厠は将軍用だけ?
本丸ノ図では御成書院と御休息ノ間に将軍用と思われる厠が描かれていますが、それ以外の厠はありません。 それでは随行者達はどうしたかというと我慢できる訳も無く、当然厠はあったと思われます。通常の御殿では玄関付近や役所部屋近くに置かれるものですが、取り壊されてしまったのでしょう。(元々仮設の厠だったかもしれません。)
■本丸御殿大広間の3DCG化
投稿2015/2/17
本多家重臣の中根家が保存していた「下総古河城内本丸ノ図」を元に推定復元しました。
図によると建物は南北13間、東西7間半(約24m×14m)で本丸御殿中で最大でした。内部は12畳敷の御上段が南北にあり、西側に18畳敷の御下段、33畳敷の御次、18畳敷の御三ノ間があり、一般的には最も格式が高く藩の公式行事を行う場所でした。ここで一般的と書いたのはこの本丸御殿では御成書院・休息ノ間の方が格式が高かったからです。大広間御上段には格天井や納戸構がないことや面積が狭いことなどから将軍が座することはなかったのではないでしょうか。古河藩の行事は二ノ丸居宅大広間で行ったでしょうし、そうなるとこの大広間はどういう用途に使われたのでしょうね?
復元では基本形状は玄関と同じとし、建具は図によると「戸障子」とありますので、雨戸と障子のセットとしました。
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本丸御殿大広間(その1) |
本丸御殿大広間(その2) |
本丸御殿大広間(その3) |
■本丸御殿玄関・式台の3DCG化
投稿2015/2/14
本多家重臣の中根家が保存していた「下総古河城内本丸ノ図」を元に推定復元しました。
図によると建物は南北13間、東西6間半(約24m×10m)で西側に式台が付属していました。内部は36畳敷の玄関の間と24畳敷の上ノ間があり、北・西・南とコ字形に板張りの廊下が取り巻いていました。内部東側は一面が床となっており、大きな障壁画でも飾られていたのでしょうか。これらの部屋は客人の待機場所であり、身支度を整えたり挨拶などに使われる所でした。
復元では床の高さは3尺(約0.9m)としました。建具は図によると「戸二」とあり、舞良戸2枚の引き違いと解釈しました。但し、この場合戸を閉じると室内が真っ暗になるので欄間に明りとりの格子窓を追加しました。床下は忍びの者が入れないように格子にしました。屋根は建築時期からみて、こけら葺きを想定しました。式台の屋根は唐破風の可能性もありますが、資料がありませんので無難な千鳥破風としました。
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本丸御殿玄関・式台(その1) |
本丸御殿玄関・式台(その2) |
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本丸御殿玄関・式台(その3) |
本丸御殿玄関・式台(その4) |
■航空写真による古河城の痕跡
投稿2015/2/11
国土地理院地図が大幅にリニューアルされています。航空写真も新たに追加されたものがあり、特に日付が1964年5月13日のものは注目です。
過去の航空写真で河川敷に古河城の跡が写っているのは知られておりますが、これまで不明瞭だった三の丸と立崎曲輪の輪郭がこの画像で初めておぼろげながら確認できます。また頼政門の位置もはっきり分かり、ほぼ送電鉄塔と重なるようです。
復元3DCGではこの頼政門の位置を確定できずあいまいなまま進めてきたのですが、もう少し西に移動しなければならないようです。
■塁上の柵
投稿2015/2/7
古河城では本丸を除き塀は門の周辺などに限られており、それ以外の土塁上には柵が巡らされていました。
この柵について古河歴史博物館(以下、歴博)の図録では「矢来」とあり、古河城・鴻巣館遺構調査発掘調査報告書では「虎落と(もがり)柵」とあります。しかしその資料となると少なくて、歴博の図録の二つの絵でかろうじて形状が分かります。
ネットで調べたところ「矢来」と「虎落」は同義語のようで、参考写真のとおりほぼ同一といえます。(復元虎落は徳島県三好市の田尾城のもので、現在は無いようです。)
これを三次元でまともにモデリングすると莫大な時間と労力が掛かるため、現実的な方法として平面にテクスチャを貼る方法で再現しました。(上空から見ると厚みがなくて変ですが)
柵のあった箇所は、復元で特に参考にしている正保城絵図に記載がなく、また時代によって柵の有無に変化があるようです。とりあえず二の丸だけCG復元したので雰囲気だけ感じてください。
※古河歴史博物館の許可を得て写真を掲載しています。
(古河歴史博物館図録「古河城 水底に沈んだ名城」からの転載)
(掲載写真の二次利用禁止)
■頼政曲輪と頼政神社
投稿2015/2/4
古河城の南側にある頼政曲輪は西側には城米蔵などが置かれ、東側には名前の由来となった頼政神社が鎮座していました。ここは元々本丸と並ぶ微高地上にあるため早くから城内に取り込まれたものと推測します。
頼政神社は平安時代末期に以仁王と共に平氏打倒の挙兵した源頼政を奉っており、社殿は元禄年間に大河内松平氏により整備されたとされています。五月節句の祭礼には庶民も川手門・頼政門を通って参詣することが許されたそうです。
この社殿は渡良瀬川改修工事のため大正元年に観音寺曲輪の北西の土居上(現在の錦町)に移転しました。写真で移転前後を比較しますと建築材もそのまま移したようで、細部の造作以外はほぼ同型のようです。 そこで現在の社殿を参考にCG復元したのが添付画像です。曲輪の中程にぽつんと建っていますが、実際は近くには八幡社などもあり、木々にも囲まれておりました。また鳥居もあったようですが大きさなど不明のため再現していません。
※古河歴史博物館の許可を得て写真を掲載しています。
(古河歴史博物館図録「古河城 水底に沈んだ名城」からの転載)
(掲載写真の二次利用禁止)
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頼政神社(その1) |
頼政神社(その2) |
移転前の頼政神社
(掲載写真の二次利用禁止) |
■復元3DCGの精度
投稿2015/1/30
前回高さの基準を書きましたが、次に必要なことは全体の単位・精度を決めることです。精度は当然高い方がいいのですが、資料の少なさ、自分のアマチュアとしての能力を考えて以下のようにしました。
建物関係
1ミリ単位 出来るだけ3寸=101ミリの倍数にする。
濠や土塁などの平面
1メートル単位 門などの建物と取り合う箇所は0.1メートルと単位にする。
濠や土塁の高さ
0.5メートル単位
全体精度
自分の行ったCG化は土塁など曲面で出来ているものを短い直線の集合体に置き換えているため基本的に精度が落ちます。まだ資料のない個所も推測頼りになるので、これまた精度が落ちます。そういう訳で全体の平面制度はプラスマイナス5m、全体の高さの精度はプラスマイナス1mを目指したのですが、自己採点ではもう少し精度が悪いです。
■復元3DCGの標高地
投稿2015/1/23
モデル化するためには基準が必要で、それがモデルのベース(再下端)になります。
問題なのは古河城で最も低い場所が濠水面か渡良瀬川水面なのかですが、そもそも水位が変化するものを比較することに無理があり、水面はすべて同一水面として考えました。
旧古河城内を国土地理院地図で最低標高を見ると13.6mの箇所があり、また河川敷の低い所も同じ程度となっています。そこでモデル化しやすさを考慮して、切の良い12.0mを水面の標高値として進めることにしました。
各曲輪内の標高値は山田氏の解析値を参考にしつつ、下記のように決めました。
本丸:17m
二の丸:北側15m 南側16m 不明門付近16.5m
三の丸:14m
東帯曲輪:北側14m 南側16.5m
西帯曲輪:北側14m 南側16m
桜町曲輪:北側15m 南側14m 桜門付近16m
観音寺曲輪:北側16.5m 南側15m
頼政曲輪:16.5m
立崎曲輪16m
諏訪曲輪:東側19.5m 中央付近17m 西側14m
全体として北側からだらだらと低くなり、本丸・二の丸付近から南が島状の微高地となっています。画像参照(画像は山田氏作成の地山推定図)
また、城下については国土地理院地図を基に、埋め立てや削平されたような箇所を推定しつつ「わりと適当に」決めました。
■復元3DCGの普請(縄張り)の資料
投稿2015/1/18
基準としたのは国土地理院地図です。これはインターネットで登録するとデータをダウンロードできますので、まずそれをCADに読み込み、他の図や写真の向き・縮尺・歪み補正の基準としました。
他の参考にした図面は
歴史的農業景観閲覧システムhttp://habs.dc.affrc.go.jp/
の中の第一軍管区地方2万分の1迅速図
渡良瀬川川筋平面図(「古河城最後の図面」のYouTubeニュース動画から静止画を切り出したもの)
日本地図センターで購入した1941年と1975年の航空4写真
古河城絵図面各種
またこのCGでは標高を再現することも目標だったので標高値として国土地理院地図データと山田氏の研究「近代測量された標高値で解析する古河城」(古河郷土史研究会会報52号)を参考にしました。
これらの資料を元にまず2Dで作図し、しれから3Dモデルを製作しました。投稿画像は2Dの完成状態ですが、3Dモデルより時間をかけています。2Dをしっかり作ったので3D制作が楽になったともいえます。
■復元3DCGの建物の資料
投稿2015/1/15
歴史博物館特別展図録「古河城 水底に沈んだ名城」があれば九割方の資料がそろいます。この図録は幸いにも再版されて現在でも入手可能なのが素晴らしい!不足しているのは「古河史蹟写真帖」に載っていた三階櫓の姿絵だけでしょう。(画像参照)この絵があってようやく三階櫓の窓位置等が判明します。自分は国会図書館でコピーを取りました。
あとは他城の似たような建築の資料いろいろです。例えば跳ね橋は高崎城、櫓は土浦城、高麗門は小田原城などを参考にしています。
■復元3DCG化について
投稿2015/1/13
まずこのCG化は自分の趣味でやっておりまして、アマチュアとして普通に入手できる資料を元に、普通に入手出来る3Dソフトを使って制作することをコンセプトにしています。
きっかけは2010年の古河歴史博物館特別展「古河城 水底に沈んだ名城」での中根家文書の「本丸之図」を見たことで、これならGoogle Sketchupを用いて御三階櫓と本丸が再現出来るのではないかと考えたのが始まりです。添付の画像がその時制作したものですが、後々の事を考えずに細かくモデリングしたためパソコン操作が重くなり、かつ不明箇所の処理をどうするか悩んだまま中断してしまいました。
ところが2014年春のみらい蔵での山田氏の企画展「古河城最後の図面」で転機がきました。新発見された渡良瀬川川筋平面図を参照すれば古河城全体が再現出来そうと思えたからです。山田氏とは初対面でしたが郷土史研究会の会報をくださり、それが元になってCG化を進めることが出来るようになりました。
この新しい復元CGは前回の反省として建物無し曲輪などのラインもできるだけシンプルにするようにし、2014年12月に一応の完成をみました。山田氏には是非見てもらいたかったのでデータを送ったところ好評を頂き、史楽会へのお誘いと共にまちおこし用途でのCG使用の提案を受けました。そこで史楽会として使えるCGを作成することとし、建物の3DCGを作り始めた状態がこの場所での初登場だったわけです。
いずれ完成したデータは史楽会とすり合わせの上になりますが欲しい人にはお渡しできるようにしたいと思っています。また、復元CGの資料や考証、疑問点など明らかにしておく必要があると考えますので、今後この場を借りて四方山話として書いていこうと思っています。
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