コンテンツメニュー

史楽会概要

史楽会四方山話

ギャラリー

データベース

入会方法

お問い合わせ

サイトポリシー

古河城の構造

ホーム データベース>古河城の構造

古河公方関連書籍紹介 古河の歴史・乱読記・古河城の構造・ 古河城四方山話
下総国古河城絵図 古河城3DCGデータ 古河城パンフレット 古河城説明板 古河江戸期の地図
古河城御三階櫓外観復元図

・本丸

大きさは正保城絵図によると東西33間・南北75間とあり、い
びつな菱形状平面の曲輪です。周囲には土塁が巡らされてお
り、北西に三階櫓、北東に菱櫓、南東に巽(辰巳)櫓、南西に
弓櫓があがり、瓦葺きの土塀が巡っていました。出入口は西
の馬出し・二の丸へつながる本丸表門と東帯曲輪につながる
裏門があります。

内部には古河公方時代には御所が置かれ、徳川家家臣の時
代の初期には城主屋敷が置かれていたものと推測します。江
戸時代に入り将軍の日光社参の際の宿泊城となって以降に
御成御殿が整備され城主屋敷は二の丸に移ったものと考えら
れますが、御成御殿が老朽化してくると財政的に維持が困難
のためか取り壊され空地となりました。

居住空間としてみると周囲を高土塁と土塀に囲まれて風通し
や水はけが悪く、住み良くはなさそうです。

・本丸御殿

長らく詳細不明でしたが、本多家重臣の中根家が保存してい
た「下総古河城内本丸ノ図」によりその構成が明らかになりま
した。

御成書院や老中座鋪、大きな料理の間など特有の施設があ
る将軍家専用の御成御殿であり、城主はここを使わず二の丸
に居住しました。外観や屋根の葺材など詳細は不明です。創
建も不明ですが本多家が入封していた時代に老朽化により取
り壊されたものと考えられています。

・御三階櫓

本丸北西にあり、寛永10年(1633)頃土井利勝により創建さ
れました。外部三層内部四階で一層目広さは8間X9間、高さ
は約22mあり関東では水戸城三階櫓とほぼ同じ大型の建物
でした。

実質的には天守になりますが、武家諸法度により天守の建築
は禁じられていたため「御三階櫓」と呼ばれました。

内部は身舎と入側に別れ、最上階は天井も張られており、庇
付きの玄関が付くなど一般の櫓とは違う格式が感じられま
す。用途として将軍の登閣に備えていたと推測しますが、本
丸御殿無き後は倉庫として城付鉄砲や換鞍、銭が保管され
ていたようです。

惜しくも明治7年に取り壊されました。

・菱櫓

本丸北東にありましたが、創建時期は不明です。

二層櫓ですが平面形がく字形をしています。菱櫓は外見が大
きく見えるため目立つ箇所に建てられるものですが、古河城
本丸でも一番城下に近い場所となっています。また直下の標
高の低い三ノ丸を支援する役目だったのかもしれません。外
見は古写真で判明しますが装飾の少ない古河城にあって珍
しく出格子窓となっていました。内部は城付具足の倉庫となっ
ていたようです。

・弓櫓

本丸南西にありましたが、創建時期・外観ともに不明です。

一層目が4間X5間、二層目が2間半X4間の二層櫓でした。
名称のとおり弓を保管する倉庫となっていたようです。


・巽櫓(辰巳櫓)

本丸南東にありましたが、創建時期・外観ともに不明です。

城絵図では上層の小さい普通の櫓として描かれますが、一、
二層とも3間X4間の重箱櫓だったようです。小さな櫓の場
合、上層小さくすると手狭すぎてしまうため重箱形式を採用す
ることは良くあり、この辰巳櫓も同じ理由と考えられます。

・塀

土塁上には全周に土塀が巡らされており、長さ265間4尺、
狭間は302ヶ所とあります。正保城絵図によると本丸塀のみ
櫓の屋根と同じ青系色に塗られており、ここだけ瓦塀であった
ようです。

塀の高さは不明ですが人が隠れる程度(5~6尺)と思われ
ます。三階櫓の周りだけ高塀となっている理由も不明です
が、腰高な櫓に対し見かけのバランスを取るためではないか
と推測します。

・本丸表門(本丸御門)
櫓門と高麗門を組み合わせた外枡形門です。櫓門は3間×7
間で左右は土塁ですが高麗門のある枡形は石垣造りでした。
門が直線上におかれ枡形も小さいため防備の点では弱く、そ
れよりも格式をあげるための枡形門と考えられます。

門前の橋は幅2間、渡り6間の木橋で、二の丸側の馬出につ
ながっていました。

・馬出(大枡形)
南北39間、東西17間で西側は幅2間、渡り8間の土橋で二
の丸と土橋でつながっていました。

本丸-馬出-二の丸と小さな不整形の曲輪が続いており中世
の縄張りを踏襲しているようです。門の格式は不明、土塁と塀
が二の丸側に巡っていました。正保城絵図によると本丸以外
の塀は全て板葺でしたが後に瓦葺になった可能性はありま
す。但し水戸城や佐倉城のように廃城まで板葺の例があり検
討を要します。

・本丸裏門
3間×5間の櫓門で外観は不明です。門前の橋は幅2間、渡
り13間の木橋で東帯曲輪へつながっており、且つ中央付近
が跳ね上げ式になっていたようです。

・二の丸

南北108間、東西28間の細長い曲輪です。出入口は北の
三の丸へつながる二の丸門と南の頼政曲輪につながる不明
門があります。内部は北側三分の二程度が城主の居宅(御
殿)でした。土塁上の塀は居宅と門の付近のみ巡っていまし
た。南側の不明門西の堀が入り込みは意味があるようには見
えず、戦国期の縄張りの名残かもしれません。


・二の丸居宅

城主の住まいでしたが夫人は江戸常駐だったため奥向殿舎
が無く、小規模な御殿でした。本丸御殿取り壊し後は将軍家
日光社参のたびにこの敷地内に御座所が建てられました。な
お将軍滞在中、城主は重臣屋敷に居宅を移動しなければなり
ませんでした。

・二の丸表門(二の丸御門)
櫓門で規模は不明ですが古写真で見ると本丸表門櫓門と同
様形式と思われます。虎口前面には風子(かざし)と呼ばれる
馬出状曲輪があります。風子にも塀が巡らされ木戸門があり
ました。

・不明門(二の丸南門)
二の丸南側虎口の門ですが、読み方は「あかずのもん」と思
われます。江戸後期は「平門」とも呼ばれたようです。門の形
式等の詳細は不明です。虎口前面には風子(かざし)と呼ば
れる馬出状曲輪がありますが、塀は無く柵が巡らされていた
ようです。

・追手門
観音寺曲輪北側にある虎口で城下と繋がっています。ここは
城下の方が標高が高く、そのためか堅固な内枡形門となって
います。姿絵図によると櫓門は入母屋より格が落ちる切妻屋
根ですが、門の左右は石積みされていたようです。外側は高
麗門が設けられ、ここの左右も石積みです。門前の土橋は御
橋代と呼ばれてました。

・船渡門(ふなともん)
観音寺曲輪西側にある虎口で、場内の死者はここから出すた
め不浄門とも呼ばれたそうです。城絵図では堤防がこの付近
で途切れており不自然ですが、明治時代の渡良瀬川川筋平
面図では門から土橋を渡って堤防が続いているようで、それ
を基に門を堤防上に配置しました。追手門と同じく切妻屋根
の櫓門で両袖に短い板塀が付いています。

・桜門(桜町門)
桜町曲輪(丸の内曲輪)北側から観音寺曲輪へ繋がる虎口
の門です。櫓門の規模・外観ともに不明です。外側に風子が
あり、その木戸の両脇は低い石積みだったようです。戦国期
にこの門が大手門だったという説もあります。

・御成門
桜町曲輪(丸の内曲輪)北東から諏訪曲輪(出城)へ繋がる
虎口の門です。将軍、城主専用の門で家臣で通行できるの
は出城の城代家老だけだったそうです。永井氏により作られ
た石垣造りの外枡形門で、姿絵図と古写真により外観を知る
ことが出来ます。門前の百閒堀を渡る土橋は杉並と呼ばれて
いました。

・三の丸門
三の丸北西から桜町曲輪(丸の内曲輪)へ繋がる虎口の門で
す。規模・外観等の詳細不明ですが内郭の大手口なので二
の丸門と同規模ではないかと推測します。門の前面には二の
丸門と同じく塀を巡らした風子が設けられていました。

・はね橋門
三の丸北東から桜町曲輪(丸の内曲輪)へ繋がる虎口の門で
す。名称のとおり門前の木橋は跳ね上げ式となっており通常
は通行できなかったようです。桔梗門や引き橋門と呼ばれる
こともあったようです。門の規模・構造、橋の跳ね上げ方法等
の詳細不明です。

・頼政門
頼政曲輪から立崎曲輪へ繋がる虎口の門です。櫓門ですが
他の門と比べて小型です。門の両脇も塀はなく、柵が巡って
いたようです。門の前面には風子がありますが、ここも塀はあ
りませんでした。

・川手門
搦手口の門です。入母屋屋根の櫓門で、船渡門と同様に堤
防上に位置し、門の両袖には板塀、その先は柵でした。門廻
りの納まりは絵図面を見てもよく判らず、かなり推定復元で
す。

・涼櫓
東帯曲輪南端に建つ風雅な櫓で、城主の遊興の場でした。
戦闘には全く対応しておらず、屋根は寄棟こけら葺きで、2階
は四方吹け放ちとなり高欄が巡っていました。この付近が城
内で最も風光明媚な場所だったそうです。




注意事項
※著作権法で定められた「私的使用のための複製」および「引用」以外の目的で、複製・転記などをする場合には当会の使用許諾が必要です。コンテンツのご利用を希望される場合は、予め当会までお問い合わせください。
※推測で作成している部分が含まれておりますので、承知願います。